え? 知らないけど、あるよ、どこかに。
そこに住んだらもう二度と寒い思いしなくていいんだよ。夢みたい。
寒いと怖いって、似てるよね。だから、冬は嫌い。
しーちゃんは寒くないの? って、冬なのに半袖Tシャツの私が言うのも変だけど。
え? ああ、どうしてぶたれたか? それは……お兄ちゃんがママに告げ口したから。
パソコンもと通りにしておいたのに、なんでバレたんだろ? 『立ちんぼ』を検索したって聞いた途端、ママがおかしくなって、「色気づきやがって!」って傘でバンバン叩いてきて。
叩かれただけで済んで、よかったよ。外に出されるより、ずっとマシだもの。
だって、今、二月だし。外、死ぬほど寒いし。私、半袖だし。
あの日も寒かったなぁ。ママに邪魔だから出てけって言われてドアを開けると、雪が降ってた。あまりの寒さに動けなくなって、そしたら、来ちゃったんだよね、溝呂木のおじさんが。
「溝呂木さん、ごめんねぇ。この子、お友だちの家へ行くとこだから気にしないでぇ」
笑顔で腕をからめてくるママに、おじさんは「こんな薄着で?」って、びっくりしてた。
「やだ、溝呂木さんも小学生のとき、一年中半ズボンで登校したって自慢してたじゃない」
ママにそう言われた溝呂木のおじさんは、困ったのか笑ったのかよくわからない顔をして、脱いだジャンパーを私にかけてくれたの。
今日の寒さは女の子には堪えるから、はおってくか? って。
そのジャンパーは大きかったし、灰色と緑の間みたいな色でダサい上に、すごく煙草臭かった。でも、手を突っ込んだポケットの中までもこもこで、私、幸せに包まれたよ。大きくてもダサくても臭くても、そんなのあったかければどうでもよかったから。だけど……。
「ダメだよぉ、今はそういうこと言うと、性差別だって怒られちゃうよ。心中、早く行きな」
ママはジャンパーを剥ぎ取ると、のろのろ靴を履いていた私のお尻をドン! って蹴った。
つんのめるように外廊下に倒れたとき、突いた小指が変なふうに曲がって思わず「痛っ」って声が出たけど、後ろでバタンってドア閉まっちゃった。
え? ひどくないよ? 蹴ったのはママじゃないもん。
あれ? その話してなかったっけ?
本当のママは、すごく優し……いの。
でもね、私を産んだせいで身体を壊してから、悪いものが入ってくるようになっちゃったんだって。そういうホラー映画、観たことない? 悪魔に憑かれた女の子が、いきなりおじさんみたいな声でしゃべったり、みどりのゲボ吐いたりするやつ。あんな感じなんだって。
だから、ぶったり蹴ったり、怒鳴ったりしているときのママは、ママじゃないの。なんにも覚えてないらしい。
中に入ってくる悪いもの、あんたたちを捨てたパパの生霊かもって、ママは言ってた。
嘘? そんなことないよ。だって、野ばらさんとかと話してるときのママと、悪いものに憑かれたときのママは、まるで別人だもの。
変な風に曲がった小指が、ズキズキした。
でも、雪が吹き付ける外廊下はそのズキズキを忘れちゃうぐらい寒くて、ぶるぶる震えながら階段に移動したの。できるだけ風が当たらない隅っこに座ったけど、やっぱりどうしようもなく寒くて、身体の震えが止まらなかった。
前に住んでた家は近くに図書館があったからよかったけど、ここらへん、お店もなんにもないから地獄。
すぐに歯がガチガチ鳴り出して、指がかじかんできて、思わず考えちゃった。
マッチを擦って、あったかい暖炉やほかほかのごちそうが出てきたら、どんなにいいだろうって。だけど、私、マッチの擦り方なんて知らないし、感覚のなくなった指じゃ、どうすることもできない。
でもね、寒すぎて本当にもう死ぬかもって思ったとき、見えたんだ。真っ白な天使が。私を迎えに来てくれた! って思ったのに、天使は目の前をすーっと通り過ぎていっちゃった。
ああ、そうか、死ぬほど寒いと、マッチを擦らなくても幻覚が見えるのか。
涙が止まらなくなって、寒いから泣いてるのか絶望して泣いてるのか、なにがなんだかわからなくて震えてたら、天使が戻ってきてくれたの。
ううん、上の階から下りてきたのは、真っ白いコートを羽織ったあざみちゃんだった。
あざみちゃんとは、ほとんどしゃべったことがなかった。臭くて汚い私のこと避けてるんだって思ってたのに、そのときは自分からすぐそばまで来て、「なにしてんの?」って訊いてくれた。
寒すぎて口が動かず、返事ができない私に、「どうして家に入んないのよ?」って。
私、歯をガチガチ鳴らしながら白い息と一緒にどうにか絞り出したよ。鍵なくしたって。
追い出されたとは言えずに、とっさに嘘をつくと、あざみちゃんは怖い顔で私を睨んだ。
「死にたいの?」
そう言い残し、あざみちゃんは階段を上っていってしまったけど、その前に、あごをしゃくったように見えたんだ。おいでって。
幻覚かもしれない。でもそれに縋るように、私は凍りついた足を無理やり動かし、ぎくしゃくとあざみちゃんの後を追ったの。
野ばらさんの孫のあざみちゃんは、最上階の一番いいお部屋に住んでる。
そこはうちの倍広くて、百倍綺麗で、玄関のドアを開けた瞬間、なぜだか甘い匂いがした。
外から見てお城みたいって思ってた弓形の窓の向こうは雪が舞って、吹雪いているのに、部屋はぽかぽかあったかくて、私、思ったよ。ここが春しかない国かもって。
震えの止まらない私をソファに座らせ、あざみちゃんは無言で目の前にカップを置いた。
またあごをしゃくられ、手を伸ばしたカップはものすごくあったかくて両手で包んでじっとしているうちに、少しずつ震えが治まってきたんだ。恐る恐る口をつけると、熱々の甘いミルクが全身に染みわたって、ガチガチだった身体がほどけ、涙が溢れた。
泣きだした私を見て、あざみちゃん、ぎょっとしてたけど、あんなにおいしいもの、生まれてはじめて飲んだんだもん。
「それ、ただの牛乳だよ。砂糖入れてチンしただけの」
気味悪そうにそう言いながらも、あざみちゃんはおかわりのミルクを持ってきてくれた。
優しくしてもらえて嬉しかったけど、汚い私を家に上げて、あざみちゃんが怒られないか心配になって、「お母さんは?」って訊くと、キッチンからあざみちゃんの声がした。
「一階の野ばらさんのとこ」
おばあちゃんのことを名前で呼ぶんだって、ちょっと驚いた。でも、それは野ばらさんがおばあちゃんっぽくないからかもしれない。いつも元気で若々しいから。
「じゃあ、誰もいないの?」
「チョコチップと、バナナと、オレオ」
あざみちゃんの謎の答えと一緒に、うっとりするような甘い匂いがふわって漂ってきた。
オーブンから取り出したものをあざみちゃんが運んでくる。手にしたお皿の上には、お店で売ってる可愛いケーキみたいなのが三つ並んでて、いい匂いの正体、これだってわかった。
「これ……なに?」
「お母さんが焼いたマフィン」
びっくりしたよ。うちのママ、あざみちゃんのお母さんのことを「ババアのくせに清楚ぶって男を誘ってる」とか、「野ばらさんにべったりで、マザコン過ぎてキモい」とか、さんざん悪く言ってたから。でも実際はおうちを綺麗に整え、子供のためにケーキ屋さんみたいなお菓子を手作りしてくれるとっても素敵な人だった。お湯を注ぐだけのカップラーメンさえ、まずくしちゃううちのママとは大違い。
あざみちゃんの謎の言葉の意味はすぐにわかった。オレオクッキーの一部が端っこのマフィンのあちこちから飛び出してたから。
私だけ食べさせてもらえなくて、お兄ちゃんの食べかすを拾ってでも食べたかったあの憧れのオレオが、マフィンの中に入ってるなんて奇跡じゃない?
お皿を差し出したあざみちゃんの手から奪うようにして、かぶりついたよ。
無我夢中で気がついたら手の中のマフィンがなくなってた。あざみちゃん、ポカンと口開けて私を見てて恥ずかしかったけど、意識失うくらいおいしかったんだ。
ここに越して来たとき、ガーデンパーティーで食べさせてもらった料理を思い出した。おいし過ぎて手が止まらなくなって、「おまえは犬みたいに卑しい!」ってママにブチ切れられたけど、料理の名前も知らないのに、今でも時々夢に見る。
私の前に、あざみちゃんが残りのマフィンを無言で差し出してくれた。図々しいからもらえないって思いながら、気が付いたら、チョコチップとバナナ味も食べちゃってた。
春しかない国はあったかいだけじゃなく、おなかも満たしてくれる。つらいときにまたここに来られたら、どんなにいいだろう。そんなこと考えながらソファに座ってたら、いつの間にか本当に意識を失って……。
目が覚めると、部屋が暗くなってて、大きな窓から射しこむ月明かりが、テーブルの上に置かれたメモと鍵をぼんやり照らしてた。
『塾に行く。鍵は集合ポストに入れて』
あざみちゃんからのそっけないメモ。
でも、追い出さずにあたたかい場所で寝かせてもらえて、本当にありがたかった。
春しかない国の心地よさにまたまぶたが重くなって、でもそのとき、誰もいないと思ってた部屋の中でなにかが動いた。びっくりして目を凝らすと、月明かりの中にぼんやり浮かび上がったんだ。クラスで一番背の低い私よりもっと小さい天使みたいな女の子が。
それが、しーちゃんとの出会いだったよね。
なんだかまだ夢の中にいるみたいな、ふわふわした不思議な感じだった。
しーちゃんも私のことじっと見てて、私たちは双子みたいによく似てた。
だから話しかけられたのかも。初めて会った気がしなかったから。
私ね、しーちゃんに会えて、すごく救われたんだ。
今までこんなふうに誰かとおしゃべりなんてできなかったから。学校でも臭いとか汚いとか言われて、私なんてそこにいないみたいに仲間外れにされてたし。
だから、しーちゃんがこの前話してくれた、自分は他の人には見えないとうめい人間なんだっていうのも、それと同じだと思ってた。
でも、私、しーちゃんのこと、もっとちゃんと知りたかったから、いろいろ調べたり、訊いたりしてね、そしたら保健室の先生に言われたの。
イマジナリー・フレンドかもしれないわねって。
心が壊れそうなときに現れて守ってくれる、心中さんにしか見えない想像上の友だちのことよって教えてくれた。
ううん、しーちゃんは先生と同じように見えてるから、想像じゃなくてちゃんといますって言ったんだけど、実際にそこにいるように感じる場合もあるんだって。
しーちゃんは、私のイマジナリー・フレンドなの? 違うよね?
……どうして答えてくれないの?
この続きは、書籍にてお楽しみください