野ばら先生が描いた絵だよね? どうしてこの画像、お姉さんが持ってるの?
えっ、これ、野ばら先生のSNSで見つけたの? どうして、先生のSNSなんか……。
ここのオーナーだから一応調べてみたってこと? 側溝の女の子の事件にちょっとでも関係ありそうなことはなんでも調べるんだ? マスコミの人って、やっぱすごいね。
この肖像画の茉莉花ちゃんのドレス、文化祭で演劇部がオフィーリアやったときのだ。
主演の茉莉花ちゃん、ものすごく上手だったから、野ばら先生も嬉しくて、そのとき描いた家族の絵を投稿したのかな。
げっ、誰か坂上ってくる。とりあえず中入って、庭で話そう。
こっちこっち、その木の陰なら、そんなに人目に付かないから。
うん、そうだよ。それが母親の桜子さんで、隣が父親の冬彦さんと妹のあざみちゃん。四人家族の絵だね。
あたし、一度だけ最上階の四〇一号室に遊びに行かせてもらったことがあって、そのとき、リビングにこの絵が飾られてた。
いや野ばら先生は、桜子さんたちとは一緒に住んでないよ。
もともと四〇一号室は、野ばら先生が再婚した旦那さんとふたりの娘、桜子さんとその妹の四人で住んでたんだって。でもご主人が心臓の病気で亡くなって、娘たちも結婚や仕事で家を出て、それからは野ばら先生の一人暮らし。さすがにひとりじゃ広すぎるから、一〇一号室が空いたタイミングでそっちに移って、最上階の一番いい部屋を桜子さん一家に譲ったってわけ。
普通のお部屋だってありがたいのに、あの素敵な出窓のある四〇一号室だよ!
ここ一階から三階までは2LDKなんだけど、最上階だけ一部屋しかないから広々とした4LDKで贅沢なの。
特にあの弓形の出窓があるリビングなんて、眺めはいいし、海外のリゾートホテルかってくらいおしゃれで、非日常空間って感じ。もうため息しか出なかったなぁ。
桜子さんたち、野ばら先生に足向けて寝られないはずだよ。
ここへ引っ越してきたの、うちより半月くらい早かったんだけど、それって、冬彦さんが東京で事業に失敗したからなんだって。
ここエレベーターがないでしょ。膝の悪い先生は、四階までの階段の上り下りがきつかったからちょうどよかったなんて言ってたけど、困ってる娘や孫にいい暮らしをさせてあげたいって野ばら先生の親心だよね。
桜子さんたちも、そこらへん、わかってるんだろうね。
東京にいたとき、桜子さん、イラストを描く仕事をしていたらしいけど、今はマンションのエントランスや階段の掃除、ゴミ捨て場の管理からこの庭の手入れやなんか全部やってくれて、野ばら先生、助かってると思う。
桜子さん、自分で、縁の下の力持ちが性に合ってるんだって言ってた。
先生の部屋に行くといつもいるのは、母娘仲が良すぎて、ちょっとキモいけど。
冬彦さんも、絵画教室がある日は、膝の悪い野ばら先生を坂の下の会館まで車で送り迎えしてくれてるし。あのふたりは雰囲気や空気感がすごくよく似た、似たもの夫婦って感じ。
あ、こんな話、事件に関係ないから、どうでもいいよね。
いろいろ調べてるなら、訊きたいことがあって、来たんでしょ?
ガーデンパーティー? うん、やってくれてたよ、この庭を綺麗に飾り付けて。
野ばら先生は誰かをもてなしたり、楽しませたりするのが大好きな人だからさ。
え? 一番最近やったのは……半年前かな。三〇一号室に越してきた根尾さんの歓迎会。
……ううん、なんでもない。訊きたいのは、やっぱりそれかって思っただけ。
覚えてるよ。よく晴れた気持ちのいい日だったし。
主役なのにいつまで待っても、根尾さん一家が来なくてさ、リョウに迎えに行かせたけど、
「すぐ行く」って言って来ないから、先に始めちゃったの。野ばら先生のおいしい料理を前に子供たちが待ちきれなくなってたんで。野ばら先生、料理の腕もプロ級で、ビーフストロガノフとかホタテのグラタンとか、絶品なのよ。
パーティーが始まってからは、桜子さんと冬彦さんがお酒注いだり、料理を取りわけたり、裏方を引き受けてくれて、野ばら先生はパーティーの顔としてみんなに声をかけて、楽しい会話でいつものように盛り上げてくれてた。
でも、根尾さんはなかなか来なくて、もう一回うちの子を使いにやるかって見回したら、リョウは茉莉花ちゃんとデザート食べながら楽しそうにふたりの世界つくってて、ナナはベンチで本読んでるあざみちゃんの隣で、つまんなそうにジュース飲んでた。
ガーデンパーティーで本なんか読んでないでナナと遊んでやってよって思ったけど、あざみちゃんって、社交的な野ばら先生と全然似てなくて、いっつもひとりでいるんだよね。人を寄せ付けないオーラを放ってて、なに考えてるかわからないから、同世代の子はちょっと怖いと思う。なにげに人のことよく見てて、見てるっていうか観察してて、あの冷めた目で見つめられると、なんかこう心の内を見透かされてるみたいで、落ち着かなくなるんだよ。小学生のあざみちゃんにそんなこと思うの、おかしいのかもしれないけど。
茉莉花ちゃんは友だち多くて、ファンクラブできるほど人気者なのにね。もしかしたら、美しすぎる姉へのコンプレックスをこじらせちゃったのかな。
あざみちゃんが本から顔を上げたんで視線を追うと、その先に、ゆるふわルーズな髪型がかわいらしい根尾さをりさんと息子の本気君がいた。中二の本気君はふてくされて面倒くさそうな態度だったけど、それでもさをりさんに背中を押され、だらだらと外階段を下りてきた。
「遅れちゃって、ごめんなさぁい」
微笑むさをりさんを見て、みんな、ちょっとざわついた。
彼女、胸元が大きく開いたピンクのミニワンピ姿でさ、うちの隣の二〇一号室の溝呂木のおじさんなんて、目が釘付けだったよ。歓迎会って聞いてはりきって、そういう服装になったのかもしれないけど、とても二児の母には見えなかった。
そういえば娘さんがいないと思って訊いたら、「部屋を出ようとしたとき、熱があることに気づいて、看病してたら遅くなっちゃったんですぅ」って。
心配だったけど、庭にいる分にはすぐ部屋に戻れるし、野ばら先生が仕切り直して今日の主役のさをりさんと本気君を紹介し、ふたりともみんなに歓迎されて、料理やお酒を楽しんでたよ。そりゃもう思う存分に。
さをりさんって小柄で色白でなんかぽわぽわっとしててかわいらしい小動物みたいなのに、とんでもない酒好きで、お酌されるままにビールでもワインでも日本酒でも、水のようにガブガブ飲むの。
病気の娘さんは大丈夫なの? って心配になって、そしたら、三階の外廊下に見えたんだよ、小さな女の子の姿が。
さをりさん、溝呂木さんとなんかの話で盛り上がってたから、あたし、階段上ってその子の様子を見に行ったの。
「根尾さんの娘さんだよね?」って声をかけると、女の子はコクンとうなずいて、「ここなです」って。
あたしがそんな確認したのは、うちの娘と同じ小学五年生って聞いてた女の子が、すごく小さくて痩せてて、小一くらいにしか見えなかったから。
根尾さんちの子、兄妹ともうちの子たちと学年が一緒なんだ。
男の子は、本気と書いて、りある。
女の子は、心中と書いて、ここな。
キラキラネームからもわかるとおり、さをりさんは十代でふたりを産んだんだって。あたしより早いけど、ぽわぽわっとしたおっとりさんだから、ヤンキーじゃなさそう。
でも、心中って名前はどうなんだろうね。漢字の意味わかっててつけたのかな? ここなって響きはかわいいけどさ。
その心中ちゃんに「具合、大丈夫?」って訊いたら、きょとんとした顔された。
「熱あるんでしょ? おでこ触ってもいい?」
断って触れたおでこは、冷たすぎるほどひんやりしてた。
それ以上に気になったのは、髪がべたついてて、すえた臭いがしたこと。
今は下がったけど、熱が何日か続いてお風呂に入れなかったのかも。あのときはそう思おうとしたけど、違和感は他にもあった。心中ちゃんが着ていたのはぶかぶかのTシャツと短パンで、つっかけてたスニーカーもサイズが大きすぎて、しかも汚れてて、全部お下がりに違いなかった。
うちももっと小さいころはお兄ちゃんのお下がり着せてたけど、嫌がるようになってからは、無理してでも新品を買ってあげてる。女の子だしね。
うちよりもお金に困ってるのかなって一瞬思ったけど、それはありえない。
だって、さをりさんが肩からかけてたのはめっちゃ高いハイブランドのバッグだったし、本気君が履いてたスニーカーも、リョウが欲しがってたけど、うちじゃとても買ってやれない限定モデルだったから。
心中ちゃんのお腹が鳴って、我に返った。
「お庭でなにか食べる?」って訊くと、心中ちゃんは目を大きく見開き、ちょっと迷ってからまたコクンってうなずいた。
あたし、かわいい子だなって思ったよ。心中ちゃん、さをりさんに似てるなって。
下に連れていって、心中ちゃんの熱が下がったみたいだからなにか食べさせていいか尋ねたけど、さをりさん、かなりできあがっちゃってて、煙草挟んだ指であたしのこと指しながら笑ってた。なにがおかしいのかわかんないけど、引いたわ。
心中ちゃんにアレルギーないか訊いて、病み上がりかもしれないから、消化によさそうなスープを飲ませ、食べられるなら、テーブルの上のものはなんでも好きに食べていいよって言って、あたし、ちょっとその場を離れたの。
ナナの姿が見えなくて、気になったから。
捜したら樹の陰にいた。本気君と一緒だった。
本気君からいろいろ話しかけてて、娘の分のデザートまで取ってきてくれたりして、髪型とか服装とかイキってるけど悪い子じゃないんだなってホッとした。小柄なんでそんなに怖い感じしなかったし。
ナナも笑顔を見せてたから、心中ちゃんのところへ戻ろうとして、空気が変わってることに気づいた。誰もが動きを止めて、一点を見つめてた。その視線の先にあの子がいた。
心中ちゃん、料理を貪り食ってた。まるで獣のように。
口の中のものを呑み下せてないのに、次の料理を手掴みで口に運んでた。今、口に突っ込まないとこの先、一生食べられないみたいな勢いで。
口の周りも手もべちゃべちゃに汚して、なにかに憑かれたように一心不乱に食べ物を詰め込む小さな女の子の姿は驚きを通り越して正直恐怖で、あたしたちみんな、止めるの忘れて、固まっちゃってた。
我に返ったのは、叫び声が響いたから。
叫びながら心中ちゃんに駆け寄ってその腕をつかんだのは、さをりさんだった。
彼女は咽せる心中ちゃんを引き摺るようにして部屋に連れ帰ろうとした。あたし、責任感じて、階段を上るふたりを追いかけたんだけど、途中であざみちゃんの声が響いたの。
ちょっと! どこへ連れてく気!? って。
振り返ると、本気君が嫌がるナナを無理やり外へ連れ出そうとしていた。
ちょうどそのとき、買い出しに行ってた冬彦さんが外から帰ってきて、あたし、階段駆け下りながら、叫んだんだ。
「その子を止めて!」って。本気には「娘に手ぇ出したら、ぶっ殺す!」って。
あたしの声が届いたはずなのに、冬彦さんは動かなかった。
階段で重い荷物に苦労してたときは頼まれなくても自ら部屋まで運んでくれた冬彦さんが、ふたりを止めようとも、話しかけようとも、手から滑り落ちたレジ袋から転がっていくペットボトルを拾おうともせず、まるで電池が切れた人形のようにフリーズし、ただその場に突っ立ってた。
冬彦さんがなんでああなったのか、いまだにわからないけど、ナナが外に連れ出されることはなかった。
みんなの注目を浴びていることに気づいた本気君が、ナナの手を離したから。
駆け寄ってナナを引き離してから、どこへ連れて行こうとしていたのか訊くと、彼は悪びれることなく、公園って答えた。
公園で写真を撮ってあげようと思ったって。
「写真なんて公園に行かなくてもここで撮れるじゃない!」
声を荒らげたあたしに、公園には映えスポットがあるとか、写真が趣味で新しい高性能カメラを買ってもらったみたいなことをぼそぼそしゃべってたけど、睨みつけてやったら、あいつ、逃げるように外に出て行った。
……ねぇ、こういう話が聞きたくて、ここに来たんでしょ?
すでにいろいろ調べてるから、このマンションの住人の誰が怪しいか、あたりをつけてるはずだもんね。
側溝で見つかった女の子がここの住人じゃないとしたら、どこかからさらわれ、連れてこられた子って可能性が高くなる。
そんなことをしそうな人間は誰か?
このマンションに住む男は、たったの四人。
うちのリョウと二〇一号室の溝呂木のおじさん、冬彦さん、そして、根尾本気。
リョウが女の子を連れ込んでたら、あたしが気づかないはずがないし、冬彦さんも家族と同居してるから同じ理由で容疑者から外すと、残りはふたり。
溝呂木さんは四十代で既婚者だけど、半年くらい前から、奥さん実家に帰っちゃってるから、怪しいっちゃ怪しい。
でも、さっきの話聞いたら、大本命が誰かわかるよね?
本気がナナを公園に連れ出そうとしたのは、写真を撮るためだけじゃなかったはず。
あいつ、ガーデンパーティーの最中も、さりげなくナナの身体を触ってきたらしい。胸やお尻じゃなく、髪とか顔とか、たぶん、触っても騒がれなそうなところを。
あいつ、マジで殺してやりてぇ。
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