『まもなく星ヶ丘、星ヶ丘。お出口は右側です』
到着を知らせるアナウンスが流れて、僕はスマホをしまった。
地上は気温三十八度の猛暑だから、地下鉄出入り口に通じる階段を決死の覚悟で上る。外へ出るとたちまち火傷しそうな熱風が押し寄せてきて、溜息より早く汗が噴き出した。
星ヶ丘駅からは東山動植物園が近い他、付近に大学もあると聞いている。そのせいか、駅周辺の路上には日傘を差した若い女性の姿が多く見られた。駅を出てすぐのところには白く真新しい商業施設と、伝統がありそうな立派なデパートが建っている。目の前には東西に延びる東山通が通っており、東名高速にも繋がっているからか交通量が多いようだ。
青木クリニックまではここから徒歩五分とナビにある。ぼちぼち向かおうかと東山通に背を向け、ゆるやかな坂道を上り出そうとした時だった。
「おい、お前!」
急に乱暴な言葉が聞こえてきて、僕は跳び上がりそうになる。怒気を含んだ男性の声には聞き覚えがなかったが、ただごとではない予感に振り向いた。
そこにいたのは七十は過ぎているであろう男性だった。きれいに撫でつけられた真っ白な髪、グリーンのジャケットに茶色のスラックスといういでたちで、右手には丸い電子タグ付きの黒檀の杖を持っている。すらりと痩せていて背が高く、その姿に一瞬、東京にいる僕の祖父の姿を思い出した。
だがよく見れば男性は祖父には似ていない。見覚えのない人物だったが、深い皺が刻まれた顔で睨んでいる先は、どういうわけか僕だった。
「えっと、僕のことですか?」
まさかと思いつつ尋ねると、男性は当然だと言わんばかりの顔をする。
「他に誰がいる!」
むしろご指名を受けるほどのご縁もないはずだ。思わず辺りを見回したが、通りすがりの人たちも遠巻きにしているか足早に去っていくかで、周囲に男性の知人と思しき人物はいないようだった。
「あの、どこかでお会いしましたっけ?」
僕の次の問いには、煩わしそうに手を振られた。
「俺はこれから市役所に行かねばならん」
「市役所?」
「そうだ。最近の病院はなってない、待たせるだけ待たせて治療を放棄するんだからな。だから市長の奴に会って、がつんと言ってやるつもりだ」
話が掴めない。この人は名古屋市の市長と知り合いなのだろうか。仮にそうだとして、僕が乱暴に呼び止められるいわれはないと思う。
「えっと、どちら様ですか?」
僕が先程の問いに対する答えを促すと、男性は更に険しくこちらを見据えた。
「聞いてるのかお前!」
「いや、聞いてるのは僕の方で──」
「いいから黙ってろ!」
なんだか支離滅裂な人だ。僕はますます困惑したが、黒檀の杖を振り上げるようなそぶりをされたのでひとまず黙ることにする。
そもそも七月の炎天下で長袖のジャケットにスラックスという格好も珍しいし、汗一つかかずに怒鳴り散らしているのも妙だ。もしかすると僕にだけ見える妖精の類なのではとも思いかけたが、通りすがりの人たちがすれ違いざまに残していく恐怖と敬遠の眼差しに、そうではなさそうだと察した。
「タクシーを呼べ!」
男性は居丈高に命令する。
「僕がですか? なぜです?」
呼ぶもなにも目の前は車通りの多い東山通、ちょっと待てば流しのタクシーがいくらでも捕まるに違いない。わざわざ赤の他人に頼むほどでもないはずだった。
しかし男性は僕の疑問が耳に入らなかったようだ。
「タクシーで市役所まで行く。市長に物申してやるんだ」
苛立たしげに繰り返すばかりで、思えば先程からやり取りが全く成立していない。
果たしてこの人を市役所まで行かせていいのだろうか。何かでうちの新聞の一面を飾るような真似なんてしなければいいけど──圧倒されて忘れかけていたが、僕もこれから取材先に行くところで、腕時計を見れば約束の時間は刻一刻と迫っている。この人に付き合っている暇はない。
「すみません、僕はちょっと急ぐので、他の人に──」
そう言いかけて立ち去ろうとしたら、腕をがしっと掴まれた。お年寄りだと思って油断していたが、意外と握力が強く逃げられそうにない。
「早く呼べ!」
駄目だ、いよいよもって話が通じない。僕の祖父もまあまあ頑固な人だが、ここまで聞く耳を持たないことはなかったのに。
僕は不承不承、通り沿いに立ってタクシーが通りかかるのを待った。運よく一分ほどで空車のタクシーが停まってくれて、後部座席のドアが開かれる。
男性が乗り込むより先に、僕は運転席のドライバーにそっと声を掛けた。
「あの、すみません。実はあちらの男性にタクシーを停めるよう頼まれたんですが」
「え?」
ベテラン感が漂うドライバーさんが、怪訝そうに窓の外を見やる。
「なんかあの方、話が通じないというか……僕もさっき頼まれただけなので、もしよくない感じでしたら乗車拒否していただいた方がいいかと……」
僕が説明すると、そこでドライバーさんは男性の姿を捉えたようだ。あっと小さく声を漏らした。
「あの方、いつもの方なんですよ。いわゆる、徘徊老人で」
「徘徊老人……ですか?」
確かに話は通じなかったが、身なりがきちんとしていたので意外だ。驚く僕に、ドライバーさんは慣れた調子で笑ってみせる。
「大丈夫です。お宅は知っているので、それとない感じでお送りします」
「あ……それは助かります、ありがとうございます」
「いえいえ、あなたも大変でしたね」
僕に労いの言葉までくれて、ドライバーさんは運転席から降りた。そして男性と二言、三言交わした後、彼を後部座席に乗せる。
ドライバーがドアを閉める直前、男性は僕に向かってコンビニのレジ袋を突き出した。
「おい! 持っていけ!」
「えっ、あ、はい」
訳もわからず受け取って、そのままドアが閉まりタクシーが走り去っていくのを見送る。
タクシーの姿が東山通の車列に呑み込まれていった後、僕はしばらくぼんやりしていた。あんな元気いっぱいの男性が、徘徊老人。なんだか信じられない思いがする。
僕の祖父は七十五歳で、リウマチ持ちではあるがまだまだ元気だ。しかし先程の男性も杖はついていたが元気だったし、タクシーの運転手に教えてもらうまでは『なんか変だけど苛烈な人なんだろう』くらいにしか考えられなかった。他人事ではないのかもしれない、と思う。孝行をするなら祖父が元気なうちにしなくてはいけない。
受け取ったレジ袋を覗き込んでみると、中に入っていたのはくしゃくしゃの紙くずと菓子パンの空き袋と──要はゴミが詰まっていただけだった。お礼を期待していたわけではないものの、今更のようにどっと疲れが押し寄せてくる。
だが疲れている場合ではない。気づけば取材の約束の時間が五分後に迫っていた。レジ袋を捨てに行く余裕もなく、僕はそれをカバンに突っ込んで東山通を離れる。三十八度の気温の中、ゆるい坂道を捨て身の思いで駆け上がった。
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