3
――昔、春と秋の京都は『格別』だと誰かが話しているのを聞いたことがある。
そのことを今は亡き祖父に伝えてみたら、『春と秋にかかわらず、京都は四季折々に良さがあって、季節ごとに名所があるんやで』と頭を撫でてくれた。
『それじゃあ、桜の名所はどこ?』と尋ねた私に、『そうやなぁ、いろいろあるけど、まずは仁和寺さんやなぁ』
あの時、そう答えてくれた祖父。
それから私の中では、『京都の桜の名所は、仁和寺』というイメージがしっかりとついてしまった。
……だけど、行ったことがなかったりする。
「――そうなんですか、葵さんはまだ仁和寺に行ったことがないんですね」
車を運転しながら相槌を打つホームズさんに、「はい」と頷きつつ、フロントガラスから見えるジャガーのエンブレムをチラリと見た。
「確かに桜と言えば『仁和寺』なんてイメージもありますが、平安神宮、平野神社と見所はたくさんありますよ。哲学の道もいいですよね」
楽しげに話すホームズさんに、なんとなく頷きつつ、ジャガーのエンブレムが気になってならない。
だって、この車って学生が乗るような車じゃないよね?
「……あの、ホームズさん、すごい車に乗ってるんですね」
「ああ、これはオーナーの車なんですよ」
「お、お祖父さんのですか?」
「ええ、祖父はジャガーが好きなんです。設立者であるライオンズの、『美しい物は売れる』というこだわりの思想に、とても感銘を受けたそうで」
「は、はあ」
「でも、あまり運転する機会がなくて、今や『蔵』の社用車のようになってますね」
「それはすごい社用車ですね」
思わず顔を引きつらせた私に、ホームズさんは愉快そうに笑った。
そうして、三十分ほど走り、仁和寺に到着した。
桜の季節の土曜日ということで駐車場は満車だったけれど、私たちは寺に呼ばれた客人として、別所に案内してもらうことができた。
境内正面に見えるのは、巨大かつ重厚な『二王門』。
「……重厚というか、すごく立派。歴史を感じますね」
相変わらずの乏しいボキャブラリーで感想をこぼす私に、ホームズさんはニコリと微笑んだ。
「そうですね。仁和寺の歴史は古く、平安時代に建てられまして、鎌倉時代まで門跡寺院として最高の格式を保ちました。ですが応仁の乱の際に一山のほとんどを焼失するという悲運に見舞われたんです。再興が叶ったのは江戸時代に入ってからでして。
この二王門はその頃に建てられたものなんですが、円柱形の柱、その上の三手先、側面破風の懸魚に至るまで、平安時代の伝統和様なんです」
サラサラと水が流れるように出てくるうんちくに、「へえぇ」と感心の声を上げることしかできない。
二王門をくぐると、広々とした参道が見えてくる。
さすが桜の時期、人で賑わっていてお祭りのようだ。
正面にある鮮やかな朱色の中門をくぐると、すぐ左側に桜の木々が並んでいた。
これはまさに『見事』の一言だ。
印象的なのは、どの桜も背が低い。二~三メートルといったところだろうか?
「……ここの桜は、どれも小さいんですね」
「ええ、ここにある桜は、『御室桜』と呼ばれているんですが、不思議なことに、どの桜も背が低いんです。植木鉢のように根が張って、それ以上育たないのではと言われてもいますが、正直なところよく分かっていないそうで、科学的に解明しようと調査にも入っているそうですよ」
「えっ、科学調査に? こういう品種じゃないんですか?」
「そうなんです、品種というわけではないんですよ。ちなみに京都では鼻の低い方のことを『御室桜』なんて、冗談で言ったりすることもあるんです」
「低いハナで、御室桜。京都は揶揄も上品ですね」
肩をすくめた私に、ホームズさんは「確かに」と小さく吹き出した。
そんな私たちの元に、一人の僧侶が歩み寄って来た。
空という黒い着物姿で、穏やかな笑みを湛えている。
「家頭様、ようこそおいでくださいました。門跡がお待ちです」
ペコリと頭を下げる彼に、私たちも頭を下げた。
「どうぞこちらに」と歩き出す僧侶。
「あの、門跡というのは誰のことなんですか?」小声で尋ねた私に、
「ここの住職のことですよ」
と、ホームズさんは答えてくれた。
寺内に入り、「こちらでお待ちください」と和室に案内された。
テーブルの上には、すでに茶菓子が用意されていた。
私たちは並んで座って、外に目を向けた。開放されたままの障子。そよそよと流れてくる心地よい春風。眩しいほどの青空の下、桜がとても美しい。
少しの間、桜を眺めていると、
「お待たせいたしました」
襖があいて、門跡が姿を現した。
「お久しぶりです」
頭を下げるホームズさんに、門跡は嬉しそうに目を細めた。
「いや、これは、大きくなりましたね、清貴君」
どうやら、顔見知りらしい。
「今日は祖父ではなく、僕で申し訳ございません」
「いやいや、誠司さんから、この件は清貴君で大丈夫やということですから」
誠司さんというのは、オーナーのこと。
なるほど、今回のことは元々オーナーにきた話だったんだ。
で、オーナーが自分ではなくホームズさんを代理に遣わせたというわけなんだ。
門跡とホームズさんは少しの間、楽しげに世間話をし、
「――で、今日はこれをまず、識てほしいと思いまして」
すぐに本題に入った。
テーブルの上に、そっと置かれた小さな桐箱。
「……では、あらためさせて頂きます」
いつものように白い手袋をして、箱を自分の方に引き寄せるホームズさん。
丁寧に蓋を開けると、そこには抹茶碗が入っていた。
手に取って、ジッと見詰める。
側面に桜が描かれた、それは素敵な茶碗だ。
「京焼きですね。とてもふっくらとしたライン。野々村仁清の品で間違いありません。素晴らしい品です」
ニコリと微笑むホームズさんに、門跡は「そうですか」と笑みを返す。
野々村仁清……って、ダレ? 横で、そんなことを思っていると、
「野々村仁清とは、江戸時代前半に活躍した陶工なんです。本当の名前は『清右衛門』といいます。『野々村』は彼が生まれた地名で、仁清の『仁』は仁和寺の仁。清は自分の名前、清右衛門から取ったものなんです」
いつものように私の心中を察して、すらすらと答えてくれるホームズさん。
「つまり、野々村生まれで仁和寺の清右衛門さんってことで、野々村仁清さんなんですね」
でも、どうして、仁和寺の仁の字が入っているんだろう?
「彼は京焼き色絵の祖と呼ばれる素晴らしい陶工で、当時の仁和寺門跡から受領号『仁』を授けられたことで、『仁清』となったわけです」
尋ねる間もなく、答えてくれる。相変わらずの恐ろしさだ。
つまり、この寺と縁のある人の作品なわけだ。
で、この茶碗の鑑定をしてもらいたかったというわけなんだよね?
これでお仕事は終わりなのかな?
そう思っていると、
「……今回は鑑定だけではないですよね?」
顔を上げたホームズさんに、門跡は少し驚いたような表情を見せた。
「いや、そうなんですよ。実はこの茶碗は、ある人に相談をされたものでしてね。ちょっとお待ちください」
門跡はそう言って、廊下に待機していた僧侶に目配せをした。僧侶はそそくさとその場を離れて、少しの間のあと、一人の男性を引き連れて戻って来た。
彼は和室に入ったところで正座をし、ペコリと頭を下げた。
「はじめまして、岸谷と申します」
見たところ普通の中年男性だ。ちょっと、くたびれているような印象。
「この茶碗は彼のものなんです。……岸谷さん、これは本物だということです」
そう告げた門跡に、岸谷さんは「そうですか」と頭をかいた。
どうしてなのか、特に嬉しそうな素振りでもない。
「……何か分からないことがおありなんですね?」
すかさず尋ねたホームズさんに、岸谷さんはビクリとして顔を上げた。
「あ、はい、そうなんですわ。実はこれ親父からもらったもので。先日死なはったんですが、遺言書に『あの仁清の茶碗に、俺の気持ちがすべて入っている』と書かれてまして。野々村仁清といえば仁和寺だということを聞いて、門跡に相談させてもらったんですわ」
亡くなったことを『死なはった』という言い回しに戸惑いを感じるのは、私がまだ関西弁に慣れていないからなんだろう。
「私も相談を受けたもののこれが本物かも分からず、誠司さんにお願いしたというわけで」
そう続けた門跡に、ホームズさんは「なるほど」と頷いた。
「でも、岸谷さん、本物やったということは、それがお父さんの気持ちいうことじゃないでしょうか? しかるべきところに出したら、糧になると思ったということかもしれへんで。清貴君、これはいくらくらいになるもんやろ」
「そうですね。状態も良く、桜も美しいですから、五百は出すという方もいるかもしれません」
――五百。
もちろん、五百円ではなく、五百万、だ。相変わらず桁違いの世界。
「いや、ちゃうんですわ。生前、親父はこの茶碗を何があっても売るなと言いはりまして」
「ほうですか」
よく分からない様子で、腕を組む門跡。
「……あの、ぶしつけですが、岸谷さんは、絵を描かれていますか?」
突然尋ねたホームズさんに、岸谷さんは驚きながら頷いた。
「あ、はい。一応、描いてます。なんでそれを……」
「手にペンダコと、爪に墨のようなものが付着してます。……絵画とかではないですね。絵画の類でしたら、そういうペンダコはできないように思われますし。すぐに自らの職業を伝えずに『一応』と告げた。――もしかして、マンガ家さんですか?」
その言葉に岸谷さんは虚を衝かれたように目を見開き、門跡も驚きの表情を見せた。
って、私も驚いているけど。
「あなたが、すぐに自分の職業を伝えなかったのは、胸を張って言える環境にいなかったことを思わせます。あなたは、お父様に職業を反対されていたのではないですか?」
ホームズさんの問いに、岸谷さんの手が小刻みに震えている。
図星だったのだろう、顔は真っ青だった。
分かる、分かるよ、岸谷さん。
こうやって当てられるのは、怖いものなんだ。
訪れた沈黙のあと、岸谷さんは、コクリと頷いた。
「そう……です。もう、ずっと『マンガなんてくだらない』と反対され続けてきました。ですが私は夢を諦められずに家を飛び出して、東京に出まして。その甲斐あって、なんとかデビューできたんです。自分には信念がありました。
『マンガなら、自分の伝えたいことを老若男女問わずに肩肘張ることなく伝えられる。格式なんか高くなくていい、誰でも気軽に楽しんでもらって、その後に何か心に残してもらいたい』と、そう思っていたんです。だけど……ちっとも人気が出ず、売れることもなくて、ずっと生活苦でした。そんな有様だから、家にも帰れずにいて」
自嘲気味な笑みを浮かべて、俯く岸谷さん。
「……ですが、岸谷さんはその後、『売れるマンガ』を描いたんですよね?」
そう続けたホームズさんに、岸谷さんはまた驚いたように顔を上げた。
「そ、そうです。このままでは生活していけないと、編集者にいわれるままに『今、とりあえず売れる』と言われているジャンルのマンガを描き始めました。そうしたら、それまででは考えられないほど、売れ出しましてね。生活も豊かになって来たんです」
「お父様が、この茶碗を送ってきたのは、そんな頃だったのではないでしょうか?」
その言葉に、また体をビクつかせる岸谷さん。
その通りだったようだ。
「は、はい。親父は京焼きが好きで、特に野々村仁清のものを大切にしてました。私はそれを受け取った時に、ようやく認めてくれたと思ったんです。祝ってくれたんだって。
本当はすぐにでも家に帰りたかったんですが、仕事が忙しくて帰れずにいたら、親父は病気で逝ってしまって。……今回は葬式のためにようやく帰省できたんです。
そして親父からの手紙を見た時に、この茶碗は祝いとかではなくて、何か伝えたいことがあったんじゃないかと思ったんです。この桜が描かれた茶碗に、どんな気持ちを込めていたんだろうと。親父は何を伝えたかったんだろうと」
岸谷さんはテーブルの上の茶碗に目を向けながら、自問自答するように漏らした。
ホームズさんはそっと茶碗を手に取り、ひっくり返して底を見せた。
「岸谷さん、ここに『仁清』という印が捺されているのを見ましたか?」
「え、ええ、本物には印が捺されているんですよね?」
「そうとは限りません。仁清の作品と謳うのに、印を捺している偽物は横行していますからね。お伝えしたいのは、野々村仁清の『印』についてです」
しっかりと告げるホームズさん。
岸谷さんはよく分からないという様子を見せていた。
「こうして自分の作品に『仁清』と印をつけたのは、野々村仁清が先駆けと言われています。それまでただの陶工が作った茶碗を、仁清は自分の作品だと、つまりは『ブランド』を主張したんです。それは、自分の作品は他に類を見ない、自分だけが生み出せる、誇りの証だったわけです」
岸谷さんは何も言わずに目を見開いていた。
「岸谷さん。お父さんは、あなたに誰かの真似をした作品でなく、自分の想いを込めた作品を生み出してほしかったのではないでしょうか? 野々村仁清のように、『これは、自分のブランド』とプライドを持って、自分だけの作品を描いてほしかったのではないでしょうか? ですが反対してきた手前、それを口に出すことができず、この茶碗に自分の気持ちを託したのではないでしょうか?」
茶碗を手にそう告げたホームズさんに、岸谷さんは体を小刻みに震わせた。
門跡も「うんうん」と頷いて、目を細めた。
「そうなんでしょうなぁ。マンガ家というのは過酷な仕事。親としては簡単に認めて甘い気持ちで取り組んでほしくなかったんでしょうな。帰る場所がないくらいの勢いで取り組んでほしかったんでしょう。きっと、あなたの作品をお父さんはずっと読んできたんでしょう。そして、流行だけに走ってしまったことを、とても残念に思っていたんでしょう」
優しく語る門跡に、岸谷さんは「うわあああ」と声を上げて、泣き崩れた。
岸谷さんの、それまでの苦しかっただろう思いが伝わってきて、なんだか私まで泣きそうになってしまった。
志を持ってマンガ家になろうと決めて、親の反対を押し切って家を飛び出したのに、ちっとも芽が出ることがなくて。このままでは、ずっと親に認められないと焦ってしまって。
志とは違うものを描いてしまっていたんだ。それでも、成功したならば親は喜んでくれると思ったのだろう。
――だけど、違ったんだ。お父さんは志を置いてきた息子を、悲しく思っていたんだ。
そのことを知った今、岸谷さんの心中は、とても言い表せないものに違いない。
岸谷さんは袖口で涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
「実はずっと悩んできたんです。『描きたいもの』と『売れるもの』が一致しなくて。私は生活苦から志を忘れてしまっていました。ですが、親父の遺志に従い、もう、世間に媚を売るようなことはやめます。売れなくたっていい、自分の伝えたいことを描いていきます」
膝の上で、ギュッと拳を握りしめた岸谷さん。
夢と現実と理想と。私はまだ高校生でよく分からないけど、いろんなものの両立って、難しいことなんだろうな。
苦いような気持ちでいると、
「……岸谷さん、もうひとつ、この茶碗にはメッセージが残されている気がするんです。この茶碗の絵を見てください」
ホームズさんは、ひっくり返っていた茶碗をクルリと元に戻した。
岸谷さんは戸惑いつつ、「桜……ですよね?」と漏らした。
「そう、桜です。僕が思うに、桜は万人受けするものだと思うんです。つまりこれは、『万人受けするものを描いているけど、紛れもなく野々村仁清のブランド品』なわけです」
その言葉に、ハッとした様子を見せる岸谷さん。
「たとえ、『これが売れる』ってものを描いても、いいと思うんです。そもそも自分の好きなようにだけ描いていくのは、もうそれはプロとは言えないと思うんです。大事なのは、そこにあなたのブランド、そう、魂を込めることなのではないでしょうか? それは人真似とは違うと思うんです」
慈しむように茶碗を持ちながら、穏やかに告げるホームズさんに、岸谷さんは俯いた。
しばしの沈黙のあと、ゆっくりと顔を上げて、また一筋の涙を流した。
「……家頭さん、もしかしたら私は、ずっと、その言葉を探していたのかもしれません。本当にありがとうございます」
畳に額がつくほどに頭を下げた彼に、「いえいえ、僕は何も」とホームズさんは、慌てたように首を振った。
「……さすが、誠司さんの孫やなぁ」と感心してため息をつく、門跡。
私は、この場に居合わせながら、もしかしたら、このことをキッカケに、ものすごいマンガ家が世に誕生したのかもしれない。
――そんなことを思い、鳥肌が立つのを感じていた。
4
「――もう、今回もホームズさん、本当にすごかったです!」
寺を出るなり、興奮気味に声を上げる私に、ホームズさんは苦笑した。
「大袈裟ですよ、葵さん」
「いえ、大袈裟じゃないですよ。まず、ペンダコを見てすぐにマンガ家と分かったところ。あそこで最初にビックリしました」
「ああ、あれは……本当は違うんですよ」
「えっ?」
「髪や額にスクリーントーンのカスがついていたんです。それで、マンガ家だって分かったんですよ。ただ、本人にそれを伝えにくくて。手を見たらペンダコがついていたので、それをキッカケにしました」とホームズさんは肩をすくめた。
な、なるほど、スクリーントーンのカス。
それはマンガ家と特定しやすそう。
その観察眼は、やっぱりすごいんだけど。私はまったく気が付かなかったし。
「でも、お父さんに反対されていることとか、今は売れていることとか、どうして分かったんですか?」
「それは、あの時も言ったように自分の職業を伝えたくなさそうでしたからね。そういう方は親に反対されていることが多いんです。彼の言葉のイントネーションから関東での生活が長いことを感じました。一時的に帰省している状態にもかかわらず、スクリーントーンがついているということは、この状況でも原稿を描いていたことを意味します。ってことは、売れっ子なんだと思いまして」
「な、なるほど」
さすがは、寺町三条のホームズ。
「それに、野々村仁清の印のくだりは、この世界にいる人間なら誰もが知ることですし、すぐにピンと来たと思いますよ」
なんでもないことのように言うホームズさん。
「でも、その後のこともすごいと思いました。『桜は万人受けするから』ってところ。岸谷さんのお父さんの心をあそこまで深く読み取るなんて」
「ですが、あれは確証のないことですからね」
「でも、説得力がありましたよ」
「そうですね、もしかしたら本当に、彼のお父さんがあのように伝えたかったのかもしれないのですが、僕の勝手な考えも入ってしまったかもしれません」
「勝手な考え、ですか?」
「はい。あの時も言いましたが、自分勝手に好きなものを作っているようでは、趣味の域でプロの仕事ではありません。世間に求められるものを作りつつ、いかに自分を最大限に表現していくかということも、プロの仕事だと思うんです。
あのベートーベンやショパンも、スポンサーである貴族たちが喜ぶ曲を作ろうと、必死だったように、いつの時代も、プロのクリエイターは人に求められるものを作っていかなければならない宿命のようなものを、背負っていると思うんです。なぜなら、芸術は人の目に触れてこそですから」
そう言ってホームズさんは、境内にそびえたつ五重塔に目を向けた。
それは凛々しく風雅で、芸術を思わせた。
桜の花とともに、まるで絵のようだ。
この塔も、高名な方の目に留まり、喜んでもらうことを意識して作られたに違いない。
春の風が、私たちの間を優しく吹き抜けて行った。
「……いいですね、桜の向こうに見える五重塔。こんなに美しいものを見ることができる僕は、幸せだと思います」真顔でそんなことを言うホームズさん。
もう慣れたとはいえ、若いイケメンの口から出たとは思えない、渋い言葉に思わず笑ってしまいそうになる。
でも、そうだ。たしかに美しい。
「そういえばこんな歌がありましたよね。『願わくは桜の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃』という歌。ホームズさんっぽいですよね。美しい桜と月の下で、なんて言いそうです」クスリと笑う私に、ホームズさんがそっと視線を合わせた。
「違いますよ、葵さん。その歌は、『桜の下』ではなく、『花の下』です」
「ふへっ?」思わず変な声が出た。
「『願わくは花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃』……西行法師の歌ですね。釈迦に強い憧れを抱いていた彼は如月の望月、つまり二月十五日の釈迦の命日、同じ日に逝きたいと思っていたそうです。ですが、残念なことに彼が亡くなったのは二月十六日。ちょっと惜しかったんですよ」
なんて言うホームズさんに、言葉が詰まってしまう。
……って、思い切り間違ってた。
「な、なんだ、桜と月の話じゃなく、お釈迦様に焦がれていたという歌なんですね」
恥ずかしい。
博学の人の前で、中途半端な知識を披露するのはやめよう。
「ですが、歌の世界では、花と言えば桜を指していたので、間違いでもないと思います。如月も旧暦のことで、今でいう春を指していますし」
「は、はぁ」
「……それに、葵さんバージョンの歌もいいものですね。それは夢のようです。
『願わくは桜の下にて 春死なむ その卯月の 望月の頃』……現代風に言うとこんな感じでしょうか? 美しいものをたくさんこの目に焼き付けたあと、満月の月明かり満開の桜の下、この命尽きることができたら幸せに違いないです」
穏やかな笑みを浮かべるホームズさんに、頬が熱くなってしまう。
私が決まり悪く感じているのを察して、すかさずそう言ってくれる。
優しいようで、なんていうか、その余裕ぶりが、どこかイジワルなようにも感じたり。
「……ホームズさんって、ちょっとイジワルですよね」
口を尖らせてそう言った私に、彼は少し意外そうに目を開いた。
「イジワル、ですか?」
改めて問われて、何も言えなくなってしまう。
だって、どこがイジワルかと聞かれたら、答えにくい。
こうしてとても優しいわけだし。
すると、ホームズさんはクスリと笑った。
「かんにん、葵さん」
「えっ?」
「……京男はいけずやから」
はじめて聞くホームズさんの京都弁。
人差し指を立てて、ニッとイタズラな笑みを浮かべた彼を前に、バクンと鼓動が跳ねた。
「それじゃあ、行きましょうか」
いつもの笑みを浮かべ、歩き出すホームズさんの後ろ姿を眺めながら、
「京男……いいかも」
と、つい漏らしてしまったのは、ここだけの話。
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