序章

 こりゃ、いよいよ入る家を間違えたかもしれぬ。

 吾輩は怒声の飛びかう座卓の下で、畳を転がる湯呑みや煙管を見つめた。振り返ればひと月前のことだ。

 降りつづく雨にほとほと嫌気がさしていた。そこへさぁ入りなさいよと言わんばかりに、縁側の木戸を開け放っているこの家を見つけた。折しも生後二ヶ月。蹴鞠のようにあちこち行けるようになった早々、母猫と生き別れたところである。

 墨色の毛に覆われた体は濡れそぼち、己のものとは思えぬほど重い。吾輩は沓脱ぎ石を這うようにして、これ幸いと座敷に上がりこんだ。しかしすぐに体が浮いて、眼前にこの家の細君と思しき顔があらわれた。色白で肉づきのいい顔に、大きな目をひょっとこのように見開いている。

 吾輩は精いっぱい可愛げのある声を出そうとしたが、首根っこを摑まれておりできなかった。そうしてふたたび雨の中へ弧を描いて放りだされた。

 めげるものか、こちとら他に行くところがない。何よりこのままでは死んでしまう──

 吾輩は投げられたそばから上がりこみ、また見つかってはつまみ出された。一体幾度繰り返したことだろう。いよいよ諦めかけたとき頭上から声が降ってきた。低く落ち着いた声だった。

「そんなに入ってくるんなら置いてやったらいいじゃないか」

 いつの間にか帰ってきていたこの家の主人であった。

 流麗な目元に通った鼻筋、紳士然とした口元に黒々とした髭をたくわえている。髭と同じく黒々とした双眸には、吾輩への好奇心が見てとれた。おそらく動物の勘というやつだろう。吾輩はこの男なら我が身を預けられると察した。しかし見た目によらず手のつけられない癇癪持ちであることが、最近わかってきたのだが。

 一方、細君は腹の底で吾輩をうとましく思っていたのだろう。いたずらをするたびに追い回されたり、罰だと言ってご飯を抜かれたりした。よほど嫌なのか吾輩を目端にとらえる力には並々ならぬものがあった。おかげでちっとも休まらぬ。気の抜けない細君にほとほと疲れ、ぼちぼち新しい家を探しに行こうかと考えだした頃である。

 たまたまやってきた近所の按摩のおばあさんが、吾輩を見てこう言った。

「まぁこりゃ珍しい福猫でござんすよ。全身足の爪まで黒うございます。飼っておおきになると、この家が繁盛いたしますよ」

 人はゲンキンなものである。細君はそれを聞くや否や、猫飯におかかをのせたり蚊帳に入れてくれたり、吾輩を重宝するようになったのだから。そうなると吾輩もまんざらではない。考えを改め直し腰を落ち着けようとした矢先だった。今度は何やら主人と細君が、事あるごとに喧嘩をするようになった。

 例えばこうだ。ある夜、吾輩が台所でネズミと大立ち回りをしたことがあった。吾輩はたらいを落としてしまい、雷のような音が家に響きわたった。すると主人は鬼の形相で寝ていた細君のもとへ行き、今騒いだのは貴様だろうと怒鳴りつける。

「ネズミでしょう」

 細君が寝ぼけ眼で言うと、ではそのネズミを捕まえてこいと一悶着が始まる。鬱々とした梅雨空が主人の気鬱を悪化させているのか、最近は一事が万事この調子で、先日はついに細君の可愛がっていた下女を勝手にクビにしてしまった。

 こうなると細君も黙っていない。元来おさなご二人の面倒にくわえ身重だった細君は、これ以上主人の神経衰弱に付き合いきれぬと、今朝は食事も終わらぬうちに大げんかが始まった。そういうわけで吾輩は今、行きかう鉄瓶や座布団を目で追っている。

 往来へ逃げ出す機会を窺っていると、薬瓶が鼻先に転がってきた。主人がこのところやたら手にしているタカヂアスターゼとかいう胃薬だ。吾輩は座卓から飛び出した。

 なんたることよ。げに恐ろしきは人間なり──

 振り返れば主人と細君はいよいよつかみ合って醜い争いを続けている。暗澹たる気持ちで庭の畑を歩いていると、四つ目垣の向こうから隣の俥屋の猫が声をかけてきた。

「よう名無し。お前のところも相変わらずだな」

 隣の家も夫婦喧嘩では負けておらず、たまに耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言が聞こえてくる。同類と思っているのか、俥屋の猫は憐れむような目を向けてきた。吾輩はいつものことさ、と前脚についた雨水を舐めた。幸い昨晩から降っていた雨は止み、紫陽花の葉の上を蝸牛が這っている。

「ところで名無し、お前さんの名前はまだつかないのかい」

「ああ、まだだ」

「ふふん、いつになったら名前をつけてもらえるんだろうな」

 俥屋の猫にはクロという名前があるらしく、自慢げに鼻を鳴らした。何のことはない。毛の色を言葉にしただけのひねりのない名だ。まあ、それでも無いよりはましかもしれないが。吾輩はいまだに主人からも「おい」とか「猫」としか呼ばれたことはない。

 背後で何かが割れる音がした。見れば主人が手あたり次第に鉢を持ちあげ、家のうち外かまわず投げつけている。

 こりゃ名前がつくのが先か、吾輩が逃げ出すのが先か──ひとまずは腹を満たすべく、飯の調達に向かうことにした。

 

 

 煌々とした月が夜空に浮かんでいた。あたりはしんと静まり返って、虫の音が一際大きく聞こえる。月が薄雲に翳るとロクは黒塗りの板塀をひょいと乗り越えた。足裏が土に着くと同時に息をひそめる。前から目星をつけていたこの界隈でもめっぽう広い家だった。竜のような松の枝が門柱の上にも伸び、昼は近寄りがたくさえある。

 ロクは邸内に入ると、空気すら動かさぬよう忍び足で壁に身を寄せた。ちょうど寝室の壁なのか、内側から盛大ないびきが聞こえてくる。壁づたいに庭へ回りこむと生い茂る庭木の向こうに簾戸が見えた。漏れ出る灯りはなく家のものはすでに寝静まっているようだ。

 そう来なくっちゃ──音を立てないよう簾戸を開けると、ロクはそっと足を踏みいれた。月明かりを頼りに縁側を抜足差足で進んでいく。すると突きあたりの茶の間に紫檀の簞笥が並んでいるのが見えた。抽斗を滑らせて、お、と思わず声をあげそうになる。中には金糸銀糸を織り交ぜた絢爛な丸帯がまばゆい輝きを放っていた。

「これは久々の大当たりだね」

 こみあげる笑みをおさえ早速風呂敷を広げる。取りだした帯はずっしりと重かった。

 本当は男物の浴衣が欲しかった。今着ている単衣はもう随分前に神楽坂の商家から拝借した物だ。くたびれているうえに最近は暑くて仕方がない。

 しかしこの帯ならいい値がつくに違いなかった。その金で新しい浴衣を見繕ってもいいし、これだけ不用心な家ならまた来るのもいい。ロクは丁寧に重ねた帯を風呂敷で包むと、上機嫌で今来た道を戻りはじめた。

 さて行きはヨイヨイ帰りはナントカだ。慎重に歩みを進めると、ふと文机の上に一本の孫の手を見つけた。一尺ばかりの竹製で手の部分が垢で黒ずんでいる。ロクはしげしげとまわし見ると、風呂敷の合間にエイヤとさした。色々と使いようがあると踏んだのだ。

 どこからか犬の遠吠えが聞こえてくる。足をとめ様子を窺っていたが、しばらくするとふたたび静寂がおとずれた。ロクは素早く板塀に向かう。前にもすんでのところで家主が起きて、箒で打たれながら逃げたことがあった。

 夜空を見あげると月にかかる薄雲が消えていた。どうやら明日は久々に晴れそうだ。

「金も入るし、明日はうまいもんでも食うかな」

 ヨッとかがんで弾みをつけると、膨らんだ風呂敷を担いだまま板塀を乗り越えた。若い上に小柄な体は猫のように敏捷だ。背中にいつにない重みを感じ自然と笑みが漏れた。そうして軽い足取りで夜道へと消えていった。

 

 千駄木横丁は団子坂を上野方面に進み、一つ目の角を曲がったところにあった。

 幅二間の通りに食い物屋などの商店が軒を連ね、連日人で賑わっている。どこからか鰻の芳ばしい香りがしてきて、ロクはつい体ごと引きずられそうになった。

 さりとてまずは元手がいる。通りを見渡しながら歩いていると、やがて〝萬〟と染め抜かれた暖簾を見つけた。店内には着物や小道具が所狭しとならび、奥の番台で店主が算盤を弾いている。店主はロクに気づくと顔をあげた。

「へい、らっしゃい」

「どうも。帯を売りたいんだけどね」

 ロクが風呂敷を広げると店主は恰幅のいい体を乗りだした。あらわれた丸帯を見て「ほう」と丸眼鏡を鼻に押しあてる。陽のもとで見る帯は月明かりのそれより一層豪奢に見えた。正絹地に緋色の花が咲き乱れ、その上に松と飛鶴が織り込まれている。

「こりゃまた見事な繻珍の丸帯だねぇ。こんなにたっぷり金糸が使われているのは久々に見たよ」

「しゅちん?」

「え?」

「い、いや、そう。しゅちんなのよ! こいつぁ嫁のでね。それでいくらだい」

 訝しげな顔を向けられ慌てて言い直した。店主はしばしロクの顔を見てから算盤を弾いた。

「そうだなぁ。十円てとこかな」

 ロクは眉根を寄せると小指で横から算盤を弾いた。

「そんなことないさ。せめてこれくらいは」

「むう。いいや、こんなもんだ」

 店主も負けじと弾き返す。ロクがじゃあせめて、と弾くと根負けしたのか「しょうがないねぇ」と算盤でいかつい肩をトントンと叩いた。ロクは笑顔で銭を受けとる。

「それにしても嫁さんよく手放したねぇ。なかなか見事な帯だもの。代々受け継いだ嫁入り用の衣装だったんじゃないのかね」

「……食うには仕方ないさ」

 ロクは風呂敷を畳みながらつぶやいた。そうして言い聞かせているのは何より自分にだ。仕方がないのだと。たとえあの帯が無くなったとて、持ち主が野垂れ死ぬことはない。そう、自分と違って。

 帰り際に棚の洒落た懐中時計が目に留まった。ざわ、と嫌な予感がした。

「お、いいだろ、それ。昨日入った一点モノ」

 店主が自慢げに言う。銀の二重蓋を開くと騎士のマークが彫られており、馬の胴にHとCo.の形が彫られていた。その瞬間、矢で射貫かれたような衝撃がロクの体を走った。

 呆然と時計を見つめていると店主がすり寄ってきた。

「気に入ったのかい。なんだったら勉強するよ」

 そこで示しあわせたようにロクの腹が鳴ったので、二人で顔を見合わせ笑った。

「聞いたろ。俺は腹時計で十分だね」

「そのようだね。まいど」

 ロクは店を出ると足を早めた。心臓が早鐘を打っているのがわかる。体中から血の気がすっと引いたようなのに、嫌な汗がどんどん噴きでてくる。

 まさかこんなところで見つけるとは。忘れもしない懐中時計。すべての発端となった、あの時計。浅草から質流れでここまで来たのか?

 逃げるように坂を下っていると足元で小銭の鳴る音がした。落ちたのは巾着袋だ。ロクはいつになくずっしりとした袋を拾うと、先ほどの芳ばしい香りに足をとめた。軒先から吐きだされる煙がロクを誘うように漂ってくる。

 何を今さら怖がることがある。あれからもう三年も経ってるんだ──そう己に言い聞かせると超然とした態度で鰻屋の暖簾をくぐった。今日は贅沢をすると決めていた。美味いものを腹いっぱい食うのだと、昨夜から楽しみにしていたのだ。

「らっしゃい」と景気のいい声が響く。店内は昼前にもかかわらず客で賑わっていた。ロクは手前の一角におずおずと座る。何を隠そう鰻屋に入ること自体初めてなのだ。隣の席では袖をまくった男が蒲焼きののった丼をかきこんでいた。見ているだけで涎が出そうになる。壁には品書きらしき札がいくつも下がっていた。ロクはそれを流し見ると給仕に「おーい」と声を張った。やって来た給仕に顎で隣の卓を指す。

「あちらと同じのをおくれよ」

「あいよ、鰻丼一つね」

 湯呑みが置かれるとロクは熱い茶をひとおもいに流しこんだ。たちまち喉が焼けて、引いた血の気がにわかに戻ってくるような気がする。

 たらふく食って忘れてしまおう。昔のことよりも今日を、明日をどう生きていくか。今の俺にはそれだけだ──

 しばらくし湯気を揺らした膳が運ばれてきた。たっぷりタレをまとった蒲焼きの丼に、吸い物と香の物も添えられている。一口ほおばるとあまりの美味さに脳天がとろけそうになった。ロクは白飯を飛ばしながら夢中でそれをかき込んだ。

 美味い。こんなに美味いものが世にあるのか──瞬く間に丼の底が見えてくる。最後の一粒を口に入れるとしばし余韻に浸った。束の間の幸せだとしても先ほどまでの憂いを忘れるには十分だった。

 

 

 雨あがりの空に虹がかかっていた。

 早速校庭で遊びだしたのか、家の裏手から学生達の声が聞こえてくる。天気とは裏腹に夏目金之助の気持ちは沈んだ。雨音ならまだ風情もあるが、声変わりしたての騒ぎ声などただの騒音でしかない。

 眼前では医師の尼子四郎が口を開けるよう促していた。

「あいつに言われたんでしょう」

 金之助は舌を出すと言った。

「夫は神経衰弱だ。ついでに診てやっちゃあくださいませんかってね。そうでしょう」

 尼子は答えぬまま診察を続ける。座布団で寝ていた黒猫が呑気にあくびをした。梅雨のさなかにやってきた猫は、普段こうして金之助の近くにいることが多い。むしろ癇の強い金之助を怖がって最近家のものは近寄らないので、今もっとも時をともに過ごしているのはこの猫かもしれなかった。

「顔色がすぐれないようですが夜は眠れていますか?」

「赤子のごとく寝られますよ。あいつがいらいらさせなければね」

「夏目さん、こういう病はね、一生治りきるというものがないもんです。治ったと思うのは一時沈静しているばかりで、病そのものが治癒したわけではないんですよ」

 どうせあいつの差し金であろう、と尼子の言葉は耳を右から左へすり抜けるばかりである。

「一人でいるときは気が鎮まっているようだと伺いました。どうでしょう。病状が一旦落ち着くまで、ご家族と離れてみるというのも手かもしれません」

「あいつと離れる? それなら何度も言ってますよ。さっさと出て行けとね。あいつだって本当は出て行きたいのに、私をいらいらさせるために頑張っているのです」

「夏目さん、あのですね」

「ごめんくださーい!」

 その時、生垣から間の抜けた声がした。途端に金之助は苦虫を嚙み潰したような顔になる。

「おや客人ですかな」

「いえ、ありゃ郁文館の学生です」

 ほどなく学生と思しき少年がひょっこり庭先に現れた。そしてすたすたと苗木の間に行き、ボールを拾い上げると一礼し去っていった。金之助は目もくれない。

「裏が中学校の運動場でしてね。休み時間や放課後になると、ひょうのごとくボールが飛んできます。校長に掛けあって四つ目垣を作らせたんですがどうも効果がない。それどころか奴ら面白がって前よりも」

 言い終えぬうちに今度は硝子戸が割れる音がした。黒猫が驚いて跳ね起きる。金之助は血相を変え立ちあがった。

「この馬鹿野郎っ! 今日こそは許さん!」

「ちょっと夏目さん!」

 尼子が止めるのも聞かず金之助は駆けだした。素足のまま表へ飛びだすと、いつもと違う雰囲気を察したのか学生達も逃げまどった。運動場は瞬く間に蜂の巣を突いたような騒ぎになり、校舎から何事かと案じた人々が出てくる。

 一人座敷に残された尼子は、聞こえてくるけたたましい様子に深いため息をついた。金之助の細君である鏡子にどう報告するか頭が痛い。彼の精神状態が鎮まるにはまだまだ時間がかかりそうであった。

 

 

 薬湯につかると思わず安堵の息が漏れた。

 白濁の湯が肩の凝りから心のこわばりまで、じわじわとほぐしてくれるようである。夏目鏡子は突きでた腹をさすりながら銭湯の湯船に身をまかせた。洗い場では娘の筆子と恒子が石鹼の泡で遊んでいる。久々に見る無邪気な笑顔に鏡子は思わず微笑んだ。

 近頃は夫の金之助の虫の居所が悪いことが多く、家にいても気の休まらない日々が続いていた。自分だけならともかく、日によっては子どもにあたることもある。昨晩も「泣き声がやかましい」と恒子に怒鳴り散らしたのを思い出し、ふたたび腹の底が熱くなるのを感じた。

 一体あの人はどうしてしまったというのか。以前はあんなに怒る人じゃなかった。特に最近の変わりぶりは尋常じゃない──

 見合いとはいえ好んで嫁いだ相手であった。折しも十九になったばかりで、方々から縁談の口が来ていた頃である。歳は十も離れていたが帝大を卒業した講師という金之助の評判は、周囲でもめっぽう高かった。何より写真を気に入った。上品で穏やかそうでしっかりした顔立ちをしていた。

 結婚してからしばらくは仲睦まじく暮らしていたと思う。鏡子がさほど家事のできないことに呆れつつも、冗談にして笑ってくれたものだ。辛い時には頼りになる人でもあった。初めての子を流産し、心身弱って川に身を投げようとしたと知った時、金之助は二人の手首を紐で結び眠った。

 金之助が留学した際は熱のこもった手紙のやり取りもした。今でもその時の文を引っ張り出しては仰ぎみることがある。自分は愛されているとしみじみ感じ入ったのも、けして夢ではないはずだ。

 それなのになぜ? だとすると、やはりあの一件が原因か──

 鏡子はひと月ほど前に起こった忌まわしい事件のことを思い出した。同時にある考えがよぎる。

 もしそうならあの人は、このまま教職を続けていくことは厳しいのでは?

 ぼんやりと硝子窓を見あげるとすでに空は茜色に染まっていた。鴉が鳴き声をあげて飛んでいく。鏡子は家に帰るのがどうにも億劫で目をそらした。

 尼子先生はうまいこと診てくれただろうか。留守中にどうか行ってくれないかと、出がけに頼んでおいたのだ。来週には新しい書生も家に来ることになっていた。何よりこのままでは自分も金之助も、きっといつか壊れてしまう。

「ちょっと夏目さん、いる⁉」

 突如激しい音をたて、女湯の戸が開いた。あたりの女衆がざわつく。

 何ごとかと見ると、俥屋の夫人が息せききって中を見回していた。夫人は鏡子を見つけると男湯にも聞こえんばかりの声を張りあげた。

「奥さん、大変だよ! おたくの旦那が郁文館の学生引っ立ててっちまったよお!」

 聞き終わらぬうちにザバァと音をたて鏡子は立ちあがった。浴衣をまとい慌てて走ると、湯上がりの体に汗が噴きだす。

 話によると金之助が連れていったのは、根津神社付近に住む相当な宅のお坊ちゃんであった。

 怪我でもさせたらどうする。どうせ後始末をするのはすべて自分だ──鏡子は流れる汗をいとわず走った。しばらく行くと黄昏時の往来で、少年の首根っこを押さえながら歩く金之助を見つけた。髪は乱れ怒りで顔は紅潮し、まるで鬼のような形相をしている。人々が遠巻きに囁きあうのを見て、鏡子は恥ずかしさと怒りがこみあげてきた。

「あなた!」

 金之助が立ち止まった。少年の上着は脱げんばかりに乱れ、哀願するような顔をこちらに向けている。

「いい加減にしてください! あなた、おかしいんです。どうかしてしまったんですよ!」

「なんだと?」

「お行きなさい」

 鏡子が促すと金之助の力が緩んだのか少年は一目散に逃げ出した。金之助は血走った目で鏡子を見る。

「おい貴様、どういうつもりだ」

「私、家を出ます。それが希望だったのでしょう。このまま筆子と恒子を連れて中根の家に戻ります。気のすむまで好きになさればいいわ」

 金之助の視線が一瞬揺らいだ。事実、この頃金之助は折に触れ「里に帰れ」と鏡子にせまっていた。しかしただの面当てと鏡子は相手にしなかったのだ。すべては気鬱のせいなのだと、時がくればまた調子が上向くこともあるだろうと、心が折れそうになるたび自分を鼓舞してきた。だが、さすがに疲れた。

「私が邪魔なんでしょう。それであなたの気が鎮まるなら私は家を出ます」

「ふん、好きにしろ」

 金之助は冷笑を浮かべるとふたたび坂を下り始めた。いつものように顎を上げた気取った歩き方だった。

 鏡子は眦に浮かんだ涙をぬぐう。何もかもが不本意であった。

 

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