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「保育園!?」

 風汰が持ってきた職場体験希望先カードに目を落として、石塚はげんそうな顔をした。

「保育園って、おまえが?」

「デス」

「デスって、保育園ってのは子どもを預かるところなんだぞ。おまえ、面倒なんて見られるのか?」

「まあ」

「頼りないな」

 石塚はけんにしわをよせて風汰の顔をまじまじと見た。

「大丈夫っす。オレ、親戚のおばさんに、五歳児と考えること一緒だって言われたし」

 そう鼻をふくらます風汰に、「ほめ言葉じゃないぞ、それ」と石塚はうなり、手元のカードを見た。

「保育園なぁ……なんだって、おまえは」

「なに? だめなわけ?」

「そうは言ってない」と言ったあと、石塚は「できれば別のところをすすめたいがな」とつぶやき、体験受け入れ先のリストをめくって顔をしかめた。ほとんどのところに決定の「決」がついている。

「べつにおれは他んとこでもいいけど、あ、でもここはやだ。ここもムリ」

「……わかった。もういい。ただな」と石塚は風汰を見た。

「保育園で扱っているのは子どもだ」

「知ってる」

「それだけ厳しい職場だってことだぞ」

「えー、だってセンセー、どこも同じだって」

「ばか、それは意識の問題だ。どんな仕事だって難しさも、大変さもある。それは同じだ。だけど、仕事内容は違うんだから、厳しさにも違いがあるのはあたりまえだろ」

「はっ? イミわかんねーし」

「あのなぁ、どこの店も会社もムリをしておまえたちの職場体験を引き受けてくれてるんだ。説明会でも話したと思うが、正直言えば、中学生にうろうろされたり、仕事をさせるってのは大変だ。それでも地域の子どもたちを育てよう、地域に貢献こうけんしようと、引き受けてくれている。一〇〇パーセント、いや、一二〇パーセントのボランティア精神だ。だから、学校側としても、最善を尽くしておまえらを送り出さなければならない。挨拶、時間厳守、返事、ことば遣い、感謝の気持ち。まあ、あたりまえのことばかりだがな、少なくともこれくらいはできてあたりまえの生徒でなきゃ、送り出せんだろ」

「……なら、オレ行かなくても」

「ばか! これは授業の一環だ。行きません、で済むか」

「えー、もうわけわかんねーし」

 音楽教師のさながクスクスと笑って声をかけてきた。

「斗羽君、調子にのりやすいけど、素直でいい子じゃないですか。大丈夫ですよ」

「そーっすよね! さっすが真田センセー」

 風汰が言うと、石塚は「調子にのるな」とすかさず釘を刺した。

「でもまあなぁ」

 仕方がない、と石塚はデスクの引き出しからはんこを出して、カードに押しあてた。風汰が鼻の下を伸ばして石塚の手元をのぞきこむと、石塚と目が合った。

「斗羽、おまえ前髪、長いな」

 それから石塚はひとつ息をついて言った。

「いいか、あまり子どもにさわるな」

「ん?」

「子どもは生きものだってことを忘れるな」

「なんだよそれ」

「大丈夫か、本当に」

「大丈夫っす」

 石塚が差し出したカードを人さし指と親指でひょいとつまみ、風汰は鼻歌を歌いながら職員室を出ていく。と、背中から石塚の声が響いた。

「本当に大丈夫なんだろうな、斗羽!」

 

 

事前打ち合わせ

 

「どこだよー、あっちーな」

 風汰は制服のシャツをつまんでバタバタさせながら、周囲を見た。

 大通りから一本路地に入って住宅街を進んでいくとあるはずなのに、いつまでたってもそれらしき建物は見つからない。

 手元のプリントに視線を落とした。『エンジェル保育園』の文字の下にある手書きの地図をながめて、もう一度周りを見た。

 新しい家が三軒つづいて、ぼろい家があってその隣にはアパートがあって、向かいには公園がある。公園の前まで行くと入口の脇に、「水鳥みずとり公園」と彫ってある大きな石があった。

「やっぱ来すぎてんじゃん」

 地図には水鳥公園よりかなり手前に「ここ!」と矢印が引かれている。

「ここってどこだよ」

 風汰は大きくため息をついて引き返した。

 今日は来週から始まる職場体験の事前打ち合わせで、午後は各自体験先へ行くことになっている。風汰が希望を出したエンジェル保育園は、学校から徒歩三十分ほどのところにある。なのに四十分近く歩いてもたどり着かない。

 ――先方との約束の時間には絶対遅れないように!

 石塚がつばを飛ばしながら言っていた。風汰が教室にいるのを見つけて、早く行けとせかしたのも石塚だ。「まだ早すぎるよ」と、抵抗する風汰の腕を引いて、「いいから行け。道に迷ったらどうする。早かったら門の前で時間まで待っていればいい」と、石塚は風汰を学校から追い出した。

 たしかに早くに出たからまだ時間はある。けど、それはそれでなんとなくしやくだ。

 足元の小石をつま先で軽くりながら歩いていくと、生ぬるい風にのって甘い匂いがしてきた。匂いのするほうをふと見ると、垣根の隙間に赤いプラスチックのスコップがはさまっていた。

 もしかして……。

 垣根にそって歩いていくと、路地からもう一つ脇に入る細い道があって、そっちに垣根は続いている。その細い道を入っていくと、『エンジェル保育園』と書かれた看板が出ていた。

「あった!」

 と、園舎を見て風汰はまばたきをした。

 これが保育園?

 昔、風汰が通っていた幼稚園とは比べものにならないくらい小さい。

 こんなのわかるわけないじゃん、ってか、マジでここ?

 門の前を二往復して、垣根越しにのぞきこんでいると、向かいの家の犬にえられた。

 

「時間ぴったり」

 門の横にあるチャイムを鳴らすと、レモンアイスみたいな色のポロシャツにベージュのキュロットスカート姿のおばちゃんが出てきた。

「えっと、ども」

 風汰はぺこんと頭を下げた。

 本当は、学校名と自分の名前を言って、職場体験を引き受けてくれたお礼を言って、「よろしくお願いします」と言うように言われていたけど、全部ぶっとんだ。

「斗羽風汰君よね、さあどうぞ」

 おばちゃんはにこにこして、スリッパを風汰の足元に並べると、立てかけてあるほうきを持って、すぐ隣にある部屋のドアを開けた。

 風汰はスリッパに足を入れて、「ちぃっす」と口の中でつぶやきながら部屋に入った。

 部屋の真ん中に事務机が四つ、島のようにあわせて置いてあり、壁にそってスチールの書類棚がいくつか並んでいる。奥の窓際には流しとガス台があって、ガス台の上にはやかんがのっていた。

「そこに座ってね」

 おばちゃんは、入口のすぐ右側にあるソファーを指さした。

 言われたとおりソファーに座ると、表からジィーーージィーーー、ジーッジーッジーッと虫のが聞こえてきた。

 静かだな。なんだか時間がゆっくりしてる。

 ぼーっとそんなことを考えていると、「どうぞ」とローテーブルの上におばちゃんがお茶を置いた。茶托ちやたくにのっている湯呑に、蓋がしてある。

 風汰は急にそわそわして、スリッパの中で足の指を丸めながら唇を軽くなめた。

「本当に今日も暑いわね、えっと、まずは自己紹介ね。わたしは園長の西本にしもとです」

 目の前に座ったおばちゃんは、「にしもとくみこ」と書いてある名札を風汰のほうに向けた。

 この人、園長だったんだ……。てっきり用務員さんみたいな人だと思ってた。

「と、斗羽風汰っす」

「はい、よろしくね。今日は来週からのことについて簡単に説明しますね。えっと、なにか打ち合わせ用の用紙があるって、学校の先生から連絡があったんだけど。持って来てない?」

「あ、これ」

 風汰はポケットから小さく折ってある紙を取り出して、テーブルの上に広げた。「事前打ち合わせシート」と書いてある用紙は、折り目がいくつもついて、少し汗ばんでしわくちゃになっている。それを見た園長が一瞬驚いた顔をしたことに気づいて、風汰は両手でしわを伸ばした。

「ちょっと見せてね」

 園長は用紙を手に取って、くくっと笑った。

 事前打ち合わせシートには、職場体験中の持ち物や服装、体験開始時間・終了時間・休憩時間、仕事の内容、心構え、注意事項などの項目がある。それをこの打ち合わせで埋めてくるように言われている。

「はい、わかりました。心構えは斗羽君があとで書いてね。他のところはいまから説明するから書いていって。筆記用具は」

 と、園長が言うと、風汰は鼻の穴を広げて、胸のポケットからシャーペンを取り出した。

 

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