プロローグ

 

 青空に向かって大きく伸びをした。

 たっぷりと湿気をふくんだ、べたつくようなこの暑さがふうは好きだ。

 もう一度、ぐんとからだを伸ばした。

 パコン!

「いてっ」

 尻に手をあてると、甲高かんだかい声が背中でわいた。振り返ると、竹ぼうきを振り回しながら二つの小さな背中が、ウサギ小屋の向こうにひょいと消えた。

 マジミスった。なんだってオレ、こんなとこ選んじゃったんだろっ。

 ――エンジェル保育園

 屋根の上にある看板に目をやって、ため息をついた。

 

 

*  *  *

 

 風汰が通う明功めいこう中学校では、二年生の六月に五日間の職場体験が行われる。体験先は、地元の商店から大手のホテル、コンビニ、ファストフード、介護施設などなど。その中から興味のある職場を選び、希望を出す。

 学年全体がどこか浮き足立って、職場体験の話題一色になっているけれど、風汰はまったく興味を持てなかった。

「頼んでまでして、なんで仕事しなきゃなんないの? しかもタダで」

 というのが、風汰の理屈だ。

「なあ、オレの話聞いてる?」

「ん? あ、なに?」

「だから、職場体験。授業よりマシじゃん」

 駅前のファストフード店『mouモウmouモウバーガー』に希望を出している吉岡よしおかは、風汰の机に肘をついてぐいと身を乗り出した。

「『mou mou』とかハンバーガー、ただ食いできるらしいよ。あっくん先輩が言ってた」

「ふーん」

「風汰も一緒に行こうぜ」

「やだ」

「なんで」

「べつに、そんなの食いたくないし、将来ハンバーガー屋に就職するつもりないし、スマイルくださいなんて言われたら死にたくなるし」

 吉岡は風汰の顔をまじまじと見た。

「風汰ってさ、いーかげんなのか、まじめなのかビミョーだよな」

「なんだよそれ」

 その時、教室のドアが開いて担任の石塚いしづかが顔を出した。

「やべっ」

 風汰が吉岡の陰に隠れるより早く、石塚が声を上げた。

斗羽とば、斗羽風汰」

 ちょいちょいと人さし指を動かす。

「マジか……」

 がががっと音を立ててイスから立ち上がる。

「なんすかぁ」

「なんすかじゃないだろ、あれ、希望先カード、今日で締め切るからな」

「うぃ~す」

「カードが出てないってことは、どこでもいいんだと判断する。いいな、オレが決めるぞ」

「へっ? なんで? やだ!」

「だったらさっさと決めろ」

 石塚はにやりと笑って、背中を向けた。

 勝手に決められるのは絶対やだ。センセーが押し付けてくるようなとこは、とてつもなく退屈か、死ぬほど大変かのどっちかに決まってる。

 上履きのかかとを踏んだまま、風汰は教室の前まで行くと、教卓の上にのっている体験受け入れ先のリストをつかんでため息をついた。

 席に戻ってリストを机の上に放ると、吉岡がにやにやしながら振り向いた。

「どれどれ」

 吉岡はリストを開くと、眉毛を動かして風汰を見た。

「風汰ってなんかやってみたいこととかあんの?」

「ない」

「だよなー、よし、じゃあオレが決めてやる」

 そう言うと、吉岡は目をつぶって人さし指を宙でぐるぐる回してから、リストの上にあてた。

「ここだ」

 人さし指は、『タジマ工務店』の上にのっている。

「タジマ工務店って、香夏子かなこんちの店じゃん」

 風汰が声を上げると、廊下側の席に座っていたじま香夏子が顔を向けた。

「なに? うちの店がどうかした?」

「なんでもない!」

 風汰はぶんぶん頭を振って、吉岡からリストを取り上げた。

「ばか、香夏子んちのおやじ、めちゃこえーじゃん」

 声を低くしてにらみつけると、吉岡はへへと笑った。

「人のことだと思って、ったく!」

「だから一緒んとこにしよーって言ったのに、やだって拒否ったの風汰じゃん」

「だって」

「だってじゃねーよ。つーか、どこ行ったってオレらに任される仕事なんておんなじようなもんなんじゃね?」

 なるほど。確かに。

 吉岡が言うことには、一理ある。少なくとも石塚が言ってたことよりは。

 職場体験説明会のとき石塚は、

 ――いいかー、どの職場も仕事の厳しさや大変さに違いはない。

 とかなんとか言っていた。

 そんなの絶対うそだ。部活だって、部によって厳しさも大変さもぜんぜん違うのに、どの職場も同じなわけがない。

「けどさー」

 風汰が思い出してうんざりしていると、吉岡がぐっと顔を近づけてきた。

「職場体験ってけっこうおもしれえらしいぜ。とくにコンビニとかファストフードはさ、高校生とか大学生とかの女の子のバイトが多いんだって。なーなー年上の女子だぜ~。一緒にやろーぜ」

 そう言ってやたらと興奮して、吉岡は風汰の肩に腕を回した。

「吉岡、目、エロくなってる」

 仕方がない。こうなったらとにかくラクそうなとこを選んでやり過ごすしかない。

 風汰はリストを開いて、上から順に指でなぞっていく。

相沢あいざわ呉服店』

 ないない。ここって、なかちゃん先輩が、一日中正座させられたって泣いてたとこだ。

『アイ・ラブ・ストア』

 って、まえのかあちゃんがパートしてる店じゃん。ぜってーない。

うえ珈琲』

 オレ、珈琲嫌い。

『イーグル』

 コンビニは働くとこじゃなくて便利に使うとこ!

 だめ。やだ。やだ。

 ぜってーやだ。ありえねー。

 ん?

 リストをなぞる指が止まった。

『エンジェル保育園』

 保育園って、子どもがいっぱいいる幼稚園みたいなとこだよな。てことは、子どもとあそんでいればいいってこと?

「ありかも」

 風汰はかちかちっとシャーペンの頭を押して、芯先を希望先カードにあてた。

 

「天使のにもつ」は全2回で連日公開予定