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 きょう午後三時ごろ、東京都江東区亀戸の路上で、男が通行人を刃物で切りつけ、少なくとも三名が死亡、四名が負傷した。
 警視庁城東署によれば、殺人の疑いで現行犯逮捕されたのは深瀬礼司容疑者、三十五歳。犯行の動機は不明だが、調べに対し深瀬容疑者は「死刑になりたい」などと供述しているという。

 頭から三度読み、キーワードを頭に叩きこんでいく。三名もの死者を出した無差別殺傷事件は、この数年例がない。今ごろ、メディア各社は大騒ぎになっているはずだ。明日の朝刊一面は間違いない。臨時ニュースを流したテレビ局もあるだろう。事件記者として、指をくわえて見ている場合ではない。
「ちょっと電話してくる」
 海斗の返事も待たず、店の外に出た。歩きながら三品の番号を呼び出す。一コールで相手は出た。
「おう、ヤスケン。悪いね、日曜に」
 酒焼けした声が返ってくる。
「遅くなってすみません」
「で、どう? いけそう?」
「やらせてください」
「頼もしいね。とりあえず一報、木曜の午前中によろしく」
 土曜発売の〈週刊実相〉では、校了期限が毎週木曜の夕方に設定されている。あと丸四日もないが、これくらいの急な依頼はザラだった。
「とんでもない事件じゃないですか。シリーズ化、いけるんじゃないですか」
「それはまあ、ヤスケンの原稿次第だな」
 にやつく三品の顔が浮かんだ。
 この男には、シリーズ連載や他誌への紹介を匂わせる癖があった。要は、新しい仕事を餌に記事のクオリティを吊り上げようとしているのだ。そして目の前に餌をぶら下げられた安田は、晩秋のシーバスよりもずっと食いつきがよかった。
「任せてください」
 瞬時に頭のなかで予定を組み立てる。
 まずは現場へ直行する。幸い、人形町から亀戸は近い。事件発生からすでに三時間近く経っているのは痛いが、運がよければ目撃者が見つかるかもしれない。もっと早くニュースを見ていれば、と反射的に悔やむ。隅田川テラスで呑気に釣り糸を垂れている場合ではなかったのだ。
 店内に戻った安田は腰も下ろさず、動画を見ている海斗に声をかけた。
「腹いっぱいになったか?」
 箸はすでに止まっているようだった。海斗は「もういい」と答えた。
「早いけど、出ていいか。仕事が入った」
 いやも応もなく、安田はさっさと会計を済ませた。行くと決めれば一秒でも惜しい。海斗を連れてコンパクトカーへ戻り、運転席で亜美に電話をかけた。
 アパレル店員という仕事柄、亜美は土日に働いていることが多い。もしかしたら出ないかもしれないと思ったが、幸い、何度かコールした後に「はい」と返ってきた。短い一言にもとげとげしさを感じる。
「おれだけど」
「なに?」
「仕事に行かないといけなくなった。これから亀戸に行く」
「そう。それで?」
「このまま海斗を連れていく」
 いつもなら家まで送っていくところだが、母子の家があるねりまで、人形町から往復で一時間はかかる。時間を浪費している余裕はなかった。
「なに言ってんの」
 案の定、亜美は苛立ちを露わにした。
「すぐに終わる。九時までには帰すから」
「仕事に海斗を付き合わせないで」
「だったら亀戸まで迎えに来てくれ」
「馬鹿じゃないの。そういうところが嫌いなの」
 これ以上話しても埒が明かない。そう判断した安田は一方的に通話を切った。すぐに亜美から電話がかかってきたが無視する。自分でもひどい元夫だと思う。だがこれ以上、時間を食うわけにはいかない。取材のチャンスは今しかない。
 車を出しながら、後部座席に話しかける。
「悪い。仕事行くから、しばらく車で待っててくれるか」
「わかった」
 ルームミラーを覗くと、海斗は平然とスマホをいじっていた。父母の事情など彼にとってはどうでもいいようだった。

 新大橋しんおおはしを渡って直進し、西大島にしおおしまで左折する。
 めい通りを北上している間も焦りは募った。すでに現場は、他の記者に荒らされている可能性が高い。事件直後、真っ先に現場に到着するのは警察とのパイプがある新聞社やテレビ局の記者と決まっている。一方、フリーの記者である安田には事件現場の番地すらわからない。周辺情報から見当をつけるしかなかった。
 亀戸駅へ近づくにつれて、車道が渋滞してきた。
 停車中、右手でスマホを操作してSNSの投稿を検索する。ここ十年で、SNSは最も早く情報を伝達する媒体となった。事件取材でも不可欠なツールだ。ただし情報精度はまちまちであるため、鵜呑みにはできない。
〈亀戸 通り魔〉で検索すると、大量の投稿が見つかった。ニュースを引用して一言つぶやいているような、安田にとってはまったく無用の投稿が大半である。画面をスクロールして、次々に投稿を閲覧する。
 現場に居合わせたと思しき人物の投稿が、いくつか見つかった。
〈亀戸の犯人見た 怖かった〉
〈ホコ天歩いてたら突然人が逆流 通行人が刺されたらしい 日本の治安ヤバい〉
〈通り魔のせいで亀戸の歩行者天国が終わらない〉
 ネットで検索してみると、明治通りの亀戸駅北側――通称じゆうさんげん通り――では、日曜祝日の正午から午後五時まで歩行者天国になっていることがわかった。そこが事件現場になったため、午後五時を過ぎた現在も封鎖されており、車が通り抜けることができなくなっている。
 犯人の深瀬礼司は、歩行者天国という通行人が密集する環境を狙って凶行に及んだのだろうか。手あたり次第に通行人を殺傷しようと考える人間にとっては、好都合といえるかもしれない。もしそうだとすれば、突発的に事件を起こしたわけではなく、多少なりとも計画性があったことになる。
 さらに、画像データを添付した投稿にしぼって閲覧する。スマホが普及した現代では、プロの記者よりも現場に居合わせた一般人のほうがいい写真を撮ることもしばしばである。カメラの素人でも、事件直後の混乱を鮮烈に写し取った一枚は撮影できる。最近ではスマホに搭載されたカメラの性能も高いため、画質にも問題はない。
 ある投稿には、車道に倒れた男女を写した一枚が添付されていた。奥では、髪の長い女性がうつぶせになっている。手前には仰向けに倒れた初老の男。さらに手前では救急隊員たちが行き交っている。その投稿には、大手紙社会部のアカウントから、画像の使用許諾を求める返信がついていた。全国に情報網を持つ大手メディアであっても、自前ではここまで臨場感のある写真は撮れないだろう。
 安田は画像をダウンロードしてから、背景を拡大した。注目したのは、被害者たちの背後にあるラーメン店だった。このラーメン店を目印にすれば、事件現場が特定できる。地図アプリで店の名前を検索すると、駅の北側にあることがわかった。
 これで、現場の位置はおおよそ把握できた。現在地から十三間通りのラーメン店までは歩いて十分とかからない。ここから先は徒歩のほうがいい。
 安田は最寄りのパーキングを探し、車を停めた。後部座席を振り返ると、海斗が出発前と同じ姿勢でスマホを見ていた。
「一、二時間で戻るから車にいてくれ」
「どこ行くの?」
「近くで仕事してる。勝手に外に出るなよ」
 海斗が頷くのを確認する時間すら、もどかしかった。安田は勢いよくドアを閉め、駅の北側へ向かって駆け出す。日はとうに沈み、辺りは夜闇に覆われていた。
 明治通り沿いを走っていると、路傍に停められた警察車両や、行き交う制服警官たちを見かけるようになった。さらに進むとロータリーがあり、そこから先の車道は通行止めになっている。すでに午後六時を過ぎているが、歩行者天国の柵の手前に警察官たちが立ちはだかり、車の侵入を阻んでいた。通り過ぎる自動車のヘッドライトが、警官の着用する反射材入りのベストを照らした。
 ふと横を見ると、歩道は素通しのようである。一部の道路が封鎖されているせいか、狭い歩道に人があふれかえっている。安田は何食わぬ顔で人混みにまぎれ、歩道から十三間通りへと入った。
 数メートル進むと、異様な光景が広がっていた。
 四車線の道路上には立ち入り禁止テープが張られ、その外側に、百を優に超える野次馬たちが群がっていた。周辺はスマホを高く掲げて写真を撮ろうとする者、声高に電話で話す者、立ち話をする者などが入り交じり、混沌としている。車道に面した店はほとんどが営業しているが、妙に人の出入りが激しく落ち着かない。まるで祭りの夜だった。
 安田はショルダーバッグからミラーレスの一眼カメラを取り出し、右手で頭の上に掲げた。同時に、左手で野次馬をかき分けながら前へ進む。現場を一目見るため、あわよくばカメラに収めるためだ。
「すみません。通してください」
 叫びながら強引に前進する。背中と背中の間のわずかな空間に肩をねじこみ、ひるんだ隙に足をこじ入れる。誰かが舌打ちをしたが、構っている暇はない。現場で遠慮していたら、いつまでも情報は手に入らない。
「関係者です。お願いします、道を空けてください」
 口にしている言葉はでまかせに近いが、事件を取材しているのだから、ある意味関係者には違いない。
 十分ほどかけて、ようやく野次馬の最前列までたどりついた。
 規制線の向こう側には警察車両が密集し、その間で制服の警察官、それに鑑識員と思しき男たちが立ち働いている。救急隊員は数名だけだった。路上に残された赤黒い血痕が、間違いなくここが事件現場だとあかしていた。
 安田はカメラのファインダーを覗き、立て続けにシャッターを切る。写真は撮っておくに越したことはない。事件直後の生々しい一枚は編集者に喜ばれる。それに自分で撮った写真なら、使用のために許可を得る必要もない。周りにいる野次馬の大半も、スマホで写真を撮っていた。
「おい。撮るな」
 背後から何者かに肩をつかまれた。振り返ると、体格のいい壮年の男だった。制服は着ていない。警察や救急の関係者ではなさそうだった。
「恥を知れよ。人が亡くなってるんだぞ」
 そう言う間も、近くからスマホの撮影音が聞こえた。男が顔をしかめる。
「わざわざそんな、カメラまで持ち出して……モラルがない。撮るのはやめろ」
 安田は抵抗せず、会釈をしてその場を離れた。撮りたいものはすでにだいたい撮れている。それに、こういう時は反論をしないと決めていた。メディアの者です、などと言えば、どこの記者だとさらに問い詰められることになる。まともに相手するだけ時間の無駄、というのが安田の持論だった。
 野次馬の群れから離れ、周囲を見回す。現場周辺の雑然とした雰囲気も、念のためカメラに収めておく。後々なにが役に立つかわからない。
 ひとしきり撮影を終えた安田は、ふたたびスマホを手にした。次は聞き込みだ。
 事件に居合わせた通行人に訊ければ好都合だが、さすがにもうこの場から離れているだろう。すでに事件発生から三時間以上が経っている。稀に、現場に残って証言したがる目立ちたがり屋もいるが、そういう人間の証言はあまり当てにならない。
 狙いは周辺店舗の従業員だった。それも、人の出入りが少なそうな店がいい。コンビニやチェーン店では落ち着いて話ができない。安田はうろうろと歩きながら、ビルや商店の様子を窺う。おそらく、一階にある店舗はすでにマスコミに荒らされている。二階以上の店舗は足を運ぶ手間がかかるため、まだ先客が訪れていないかもしれない。
 事件現場に面した雑居ビルの三階に、個人経営と思しき中華料理店が入っているのを見つけた。ビルの前では老人が煙草を吸っていた。横をすり抜け、年代物のエレベーターで店のあるフロアへ上がる。
 中華料理店の入口前では、三人の男女が立ち話をしていた。手前にいるのは、白いシャツを着た記者らしき男と、カメラをかついだ男の二人組だった。見るからに大手メディアの取材班である。その向こう側で、エプロンをつけた中年女性が応対していた。白シャツの記者は懸命に女性へ話しかけている。
 安田は店の前に置かれたメニュー表を覗くふりをして、聞き耳を立てた。
「そこの窓から、現場を見下ろすことができるはずですが」
 記者は懇願するような声音だった。女性は「仕込み中で見てないよ」とすげなく応じる。
「かなりの騒ぎになっていたと思うんですが、聞こえなかったですか?」
「さあね」
「物音とか、悲鳴とか……」
「わかんないよ。食べないなら、帰ってくれる?」
 記者が「あのう」と食い下がるのも聞かず、女性は店のなかへ去った。取材班の二人組と目が合う。安田は「すみません」と声をかけた。
「もしかして、テレビ局の方ですか?」
 記者がカメラマンに視線を送ってから、「そうですが」と応じる。あらためて観察すると、記者は安田と同世代か、少し若く見える。
「近くにお住まいの方ですか?」
 あきらかに、記者は安田が目撃者ではないかと期待している。安田は慌てて「そういうわけじゃないんです」と手を振った。
「実は同業でして」
「はあ」
「フリーの事件記者をやっています」
 安田はすばやく、懐から名刺を差し出した。自前のプリンターで印刷したため、インクが若干かすれている。記者は受け取った名刺をしげしげと眺めてから、自分も革の名刺入れを取り出した。
東邦とうほうテレビのきしです」
 先ほどよりも、いくらかぞんざいな口ぶりである。相手が近隣住民ではないとわかって、落胆したようだった。安田は腰を低くして「頂戴します」と受け取る。
「ご挨拶できて光栄です。邦テレさんには、古い知り合いがいまして」
「そうですか」
「キャリアだけはそれなりに積んでいるんで、お役に立てることもあると思います。よかったら以後、情報交換させてください」
 岸根は「ぜひ」と愛想笑いを浮かべて、エレベーターへ去っていった。
 事件現場での人脈づくりは、フリーの記者にとって命綱である。特に大手メディアは警察や官公庁、業界団体などの記者クラブに所属しているため、個人ではとうてい入手できない情報が回ってくる。足で稼いだネタと引き換えに、そうした貴重な情報を手に入れるのが安田のやり方だった。
 彼らが去った後、安田は客として店に入った。さほど広いとはいえない店内は、三割程度の入りだった。平然とカウンターに着席し、さりげなく十三間通りに面したガラス窓があることを確認する。ここからであれば、事件の一部始終を明瞭に観察することができそうだ。
 先ほどの、エプロンをした女性が水を持ってきた。取材の件はおくびにも出さず、「八宝菜定食」と注文した。待っている間に店内を観察する。女性は接客担当で、厨房には別に誰かがいるらしい。会話から察するに、男性が二人いるようだった。
 やがて定食が運ばれてきた。腹は減っていないが、なんとか食べきった。注文したものはすべて食べるのが礼儀だ。空になった皿をテーブルの端に寄せ、再び女性を呼び止める。
「すみません。アイスコーヒー」
 厨房へ行きかけた女性は、ふと足を止めて振り返った。
「あなた、記者さん?」
 安田が答えに詰まると、「図星だ」とにっと笑った。
「……よくわかりましたね」
「見ない顔だから。初めてだよ、記者の人がご飯食べていってくれたの」
 取材先に金を落とすのは常套手段、というより、安田にとって常識だった。飲食店なら食事をする。小売店ならなにか買う。向こうはビジネスとして店を開けているわけだから、協力してもらう以上、金を落とすのは当然だった。もちろん、協力が得られないからといって怒るのも論外だ。

 

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