亀戸の路上で7名が犠牲となった無差別殺傷事件が発生。事件の真相を追う記者の安田は、「死刑になりたかった」と語る犯人の男に執着ともいえるほどの興味を抱いていく。彼は社会から見捨てられた被害者か、凶悪で卑劣な加害者か。この犯人は、何かが違う。
「小説推理」2025年4月号に掲載された書評家・大矢博子さんのレビューで、社会派サスペンス『汽水域』の読みどころをご紹介します。
■『汽水域』岩井圭也 /大矢博子 [評]
「死刑になりたい」と言う男が起こした通り魔殺人事件。犯人の背景を取材する記者が知った事実は──。ジャーナリズムの使命を問う社会派サスペンス。
犯罪の報道に触れたとき、その事情を斟酌できるものもある一方で、どうしても理解できない、手前勝手としか思えない動機も多い。その最たるものが「死刑になりたいから」という理由での無差別殺人ではないだろうか。
岩井圭也『汽水域』は、その動機から歩行者天国で行きずりに7人を殺傷した犯人の背後にあるものを、フリーランスの記者・安田賢太郎が追う物語である。
その場で逮捕された犯人は35歳無職の深瀬礼司。たまたま他のメディアが気づかなかった深瀬の知り合いにコンタクトをとれた安田は、深瀬の知られざる一面をスクープする。評判に気を良くした安田はさらなるスクープを狙って深瀬の元同僚から話を聞く。
だがその同僚は「わたしには、深瀬が人格破綻した凶悪犯やとは思われへん」と言う。取材を進めるうちに浮かび上がったのは深瀬の壮絶な過去だった。だがその記事は、犯人への非難と中傷が世間に溢れる中にあって、まるで犯人を擁護しているかのように受け取られてしまう。さらにその記事が思いがけない事態を招き──。
最初は仕事を取りたいという動機から取材を始めた安田が、次第に深瀬に心を寄せていく過程が読みどころ。その理由も含め、犯罪の背景に多角的に迫っていく様子は実にスリリングで読み応えは抜群だ。
特に、なぜ無差別殺人などという凶悪事件が起きるのかという問いかけには思わず背筋が伸びた。ここにあるのは誰もが深瀬になり得るのだという厳然たる事実だ。だが多くの人はそうならないよう踏みとどまる。踏みとどまるために必要なものが何なのか、その答えが胸に響く。
そして同時に気付かされた。これはジャーナリズムは何のために存在するのかを問う物語なのだ。
安田の取材にSNSは欠かせない。目撃者が事件の動画をアップし、メディアがそれを使わせてほしいと依頼する。事件や記事に対する批判もSNSが舞台だ。情報の一面だけを見た無思慮な感想が集まり、それをまた別の誰かが拡大解釈したり捻じ曲げたり。紙媒体は力を失い、ウェブはただ流れていく。そんな現代社会の中で、ジャーナリズムのあるべき姿とは、担うべき使命とは何なのか。それこそが著者の書きたかったことではないだろうか。
物語の終盤、安田が「ジャーナリズムはこの社会をよくしていると信じています」と語る。それに続く言葉は力強い希望に満ちている。