どうやって話しかけようかと思案していた矢先だったので、女性から声をかけてくれたのは好都合だった。安田は申し訳なさそうに眉をひそめる。
「気分を害されたらすみません」
「そうじゃないのよ。なにか訊きたいんだったら、教えてあげようと思ってね。混んでくる前だし、訊くなら今だよ」
安田にとっては願ってもない申し出だった。今回の取材は幸先がよさそうだ。「お願いします」と頭を下げ、名刺を差し出す。女性は名刺には興味がないらしく、一瞥してエプロンのポケットにしまった。それから厨房になにか声をかけ、隣の席に座り、肉付きのいい腕をカウンターに載せた。
じき、奥にいた若い男性がアイスコーヒーを持ってきてくれた。女性は店主の木下だと名乗ってから、「どうぞ」と促した。安田は了解を取ってから、ICレコーダーのスイッチを入れる。
「では……事件があった時刻、木下さんはお店にいらっしゃいましたか」
「うん。仕込みの最中だった。うちの店は旦那とわたしと息子でやってるんだけどね。さっきコーヒー持ってきたのが、息子。営業中は旦那が奥で料理作って、わたしが客の応対をするんだけど。うちは二十年前からやってて、客は常連がほとんどだし……」
無関係な話が長くなりそうなので「すみません」と遮った。店内の客が少ないうちに、話を聞いてしまわなければならない。
「事件のことなんですが。そこの窓から目撃されたんですか?」
「そうそう。悲鳴が聞こえてさ。なんだろうと思って外見たら、歩行者天国が大騒ぎになってたんだよ」
「事件発生は十五時前後とされていますが、時刻は覚えていますか」
木下は腕を組んでうなった。実のところ、この質問自体にはあまり意味がない。質問相手が焦って答えないよう、思い出す時間を与えるのが目的だった。
「正確にはわかんない。悲鳴がしたのは三時過ぎてたと思うけど」
「ありがとうございます。もう少し、その時の様子を訊いてもいいですか」
質問の序盤では、できるだけ開けた質問をする。いきなりイエスかノーかで答えるような質問をすると、得られる情報が狭められてしまうし、圧迫感を与えやすい。漠然とした問いかけからはじめるのが安田のやり方だ。
「様子、ねえ……とにかく、ぐちゃぐちゃだったよ」
「ぐちゃぐちゃ、というと」
「歩行者天国の時は、いつも混雑してるけど人の流れは整ってるわけよ。等間隔で歩いててさ。でも犯人がいきなり刃物振り回したから、もう混乱よね。いろんなところから悲鳴がして。駅の方角と、その逆側にわーっと人が逃げていって。その間に犯人と刺された人がいるって感じだったな」
「刺されたのはどういう人でしたか?」
「顔とかはわからないけど、子どもがいた」
被害者に子どもが含まれていることは初耳だった。
「何歳くらいの子どもでしたか」
「まだ小学生かな。髪が長いから女の子だと思う」
「刺された後の様子などは?」
「お父さんだと思うけど、男の人に抱きかかえられてたね。その人は血まみれになっていて、必死で女の子に呼びかけていた。女の子はぐったりしてね……見てられなかった」
臨場感のある証言だ。安田はさらに掘り下げる。
「他の被害者の方の様子は?」
「あんまり覚えてない。ぱっと見ただけで、三人くらいは倒れてたと思う。その子も入れてね。おじさんが一人いた気がするけど、後は覚えてない」
その後も被害者について追加で質問をしたが、木下は「覚えてない」と繰り返すだけだった。
「では、犯人の様子はどうでしたか」
「どう……とりあえず、同じ場所をうろうろ歩き回ってたよ」
「窓の真下あたりですか」
「いや、あの辺」
カウンターから木下が指さしたのは、車道の中央だった。
「リュック背負って、両手に包丁持って、あっち行ったりこっち行ったりして。その包丁の先端から、ぽたぽたって血が滴ってね。怖かったよぉ。遠目からでも、あれはまともな人間じゃないってわかったもん」
木下の証言は時系列が前後することもあってわかりにくかったが、話を整理すると、事件発生時の犯人――深瀬礼司の行動が徐々に見えてきた。
混み合う路上にまぎれた深瀬はまず、手近なところにいた男をいきなり包丁で切りつけたらしい。木下は事の起こりを目撃していないため不確実だが、悲鳴の後に人が逃げていく場面を見たということは、通行人たちは事件を予期できなかったのだろう。その後も何人かを襲い、深瀬は数分のうちに七名の人々を傷つけた。切られながら逃げた者もいたが、数名は路上に倒れたまま動かなかった。潮が引くように深瀬の周辺から通行人たちがいなくなると、以後はただ歩き回っていたらしい。
「警察が到着したのはいつでしたか?」
「悲鳴がしてから、五分か十分経ったくらい。遅いな、と思ったよ。すぐ近くに交番があるのに」
木下は憤慨している。
「警察官は何名来ました?」
「最初は二人。一人はさすまたっていうのかな、長い棒みたいなの持ってた。聞こえなかったけど、なにか犯人に話しかけてるみたいだった。そのうちサイレンが聞こえて、パトカーとか救急車が来て。警官が十人くらいまで増えた時に、いきなり犯人が包丁を地面に投げ捨てたんだよ。その二、三秒後には取り押さえられてたね」
「自分の意思で投げ捨てたんですか?」
「たぶん。警察との会話は聞いてないけど」
記事によれば、深瀬は取り調べで「死刑になりたい」と供述していたという。
もしもこの事件の目的が死刑にあるのなら、三名を殺害した時点で深瀬の目的は実質的に達せられたことになる。
死刑判決には、いわゆる「永山基準」が適用される。一九八三年に最高裁が示した基準であり、殺された被害者の人数、殺意や計画性、動機、遺族の被害感情などの九項目から成る。ただし実質的には殺された被害者の人数が重視されることが多く、被害者が一名なら無期懲役、二名なら死刑の可能性が高まり、三名以上ならほぼ死刑確実、というのが俗説だった。
深瀬がみずから凶器を手放したのは、それ以上殺しても死刑という結果が変わらないためだろうか。もっとも、深瀬が量刑のことまで考えて行動できる冷静さを保っていたかは定かでない。
「その後は?」
「その後って、そこまでだよ、わたしが見てたのは。とりあえず犯人は捕まったから一安心だってことで、仕込みの続きをやってた。通り魔が出ようがなんだろうが、店を開けりゃお客さんは来るからね」
木下への聞き取りはしばらく続いたが、以後、めぼしい情報は得られなかった。それでも事件直後の状況がわかったのは収穫である。安田は食事の代金を支払い、丁重に礼を言って店を出た。
――死刑になりたい。
安田の頭のなかでは、その一語が反響していた。
これまでにも、一部の凶悪犯が動機として死刑を引き合いに出したことがある。安田は常々、その真意を測りかねていた。死ぬことだけが目的なら、自殺する手段はいくらでもある。どうせ死ぬなら、周囲に最大限の迷惑をかけてから死にたい、ということだろうか。しかしそれなら、犯行直後に自殺を選んでもいいはずだ。遺族からの憎悪と世間の非難を一身に浴びてまで、死刑を選ぶのはなぜか。
長らく事件記者を生業としている安田でも、答えが出せない謎だった。
いくつかの飲食店で門前払いを食らい、諦めてパーキングへ向かった時には午後八時を過ぎていた。亀戸駅北側の交通規制はいまだ解かれていなかったものの、路上に集まっていた野次馬たちの大半が去り、辺りは静寂を取り戻しつつあった。三人が命を落とした大事件の後でも、社会は平然と回り続ける。
安田は歩きながら、海斗を送っていくために首都高を使うべきか悩んでいた。練馬まで首都高を使えば、亜美に約束した九時にはどうにか間に合う。だが、たかだか十分や二十分早く到着するために数百円使うのももったいない。どうせ遅くなるのだから、九時も九時半も一緒だ。そう結論を出して、下道を使うことにした。
人気のないパーキングを横断する。コンパクトカーを解錠しようとして、すでに鍵が開いていることに気付いた。瞬間、頭にいやな予感がよぎる。
「海斗?」
呼びかけながら後部座席のドアを開けたが、そこには誰もいない。座席にはモバイルバッテリーだけがぽつんと残されていた。血の気が引く。
「やめてくれよ」
つぶやきながら、安田は周辺を見渡した。パーキングは無人だった。迷子。事故。誘拐。不穏な言葉が頭のなかを巡る。海斗の無事より先に、亜美にどう説明しよう、と考えてしまった自分に嫌悪感を抱く。
「海斗! いるか!」
名前を呼びながらパーキングの周辺を歩き回ったが反応はない。驚いた通行人の女性が足早に去っていくだけだった。
晩秋の夜、汗みどろで息子を捜した安田は、数分経ってようやくスマホの存在を思い出した。ショルダーバッグに入れっぱなしにしていたスマホは充電が切れていた。後部座席に身体を突っ込み、モバイルバッテリーにつないで充電する。電源がつくのをもどかしい思いで待った。
起動したスマホの画面に表示されたのは、着信履歴だった。海斗の番号からだ。三十分前に一度、十五分前にもう一度。安田は反射的にかけ直した。一度目のコールが終わる前に、相手は出た。
「もしもし?」
海斗の声が返ってきたことに安堵する。心なしか、怯えたような声音だった。
「おれだ。ダメだろ、勝手に車から出たら」
「ごめん」
「どこにいる?」
「あの、コンビニの……緑の看板の……」
動揺する海斗から、どうにか居場所を訊き出した。近くのコンビニの前にいるようだった。
「すぐ行くから、そこで待ってろ」
バッテリーにつないだままスマホをバッグにしまい、コンビニへと駆けた。
店のすぐ前、スタンド看板の前にたたずんでいる海斗を見つけた。心細そうな顔で直立している。その姿を見て、今さらながら胸が痛くなった。生意気に見えても七歳の子どもなのだ。
気になるのは、海斗を守るように背後に立っている女性だった。歳は三十手前といったところか。ベージュのジャケットに黒のスラックスという服装、丁寧に施されたメイクから、まともな社会人という印象を受ける。目つきは妙に鋭い。
「海斗」
安田が近づくと、彼女は剣呑な視線を向けてきた。
「失礼ですがあなたは……」
「すみません。お父さんです」
海斗が弁解するように告げると、女性はいったん口をつぐんだ。
「車から出るなって言っただろ。なんで勝手に出た?」
「ごめんなさい」
「だから、なんで出たんだよ」
「……トイレに行きたくなって」
「あの。ちょっといいですか」
たまりかねたように、女性が切り出した。
「わたし、海斗くんが車に戻れなくて困っていたので、一緒に待たせてもらったんですけど。ずいぶん長い時間トイレを我慢していたみたいですよ。でもお父さんの車を汚しちゃいけないからって、一人で頑張ってコンビニまでたどりついたみたいです」
「……ありがとうございます。感謝します」
安田はようやく、女性が今まで保護してくれていたのだということに思い至る。深々と頭を下げたが、彼女の憤りは収まらなかった。
「部外者が言うのもあれですけど。小さい子を長時間、車に一人にしておくなんて危険だと思いますよ」
「おっしゃる通りです」
女性の指摘に反論の余地はなかった。再度、「反省します」と頭を下げる。
「わたしも別に警察じゃないですし……偉そうなこと言って申し訳ないですけど、でもお父さんもご注意ください。色々忙しいとは思いますが」
最後の一言に、含みを感じた。まるで、安田が忙しい理由を知っているかのような。安田の疑問に答えるかのように、女性は「聞きました」と言った。
「記者さんですよね。今夜もそのために亀戸まで来たんでしょう」
「……海斗から?」
「待っている間に。お父さんは、こういう雑誌に載っている文章を書くのが仕事だと」
女性が指さした先、コンビニのガラス窓の向こうには写真週刊誌の表紙があった。笑顔のグラビアアイドルを、安田は苦い顔で見やる。仕事について詳しく海斗に話した覚えはなかった。きっと亜美が話したのだろう。
「仕事に付き合わせるつもりはなかったんですが、なりゆきで……」
「気持ちはわかりますよ。わたしも記者ですから」
えっ、とつぶやいた安田に、女性は流れるような所作で名刺を差し出した。
〈株式会社関東新報社 編集局社会部 服部泉〉
関東新報はその名の通り、関東一都六県で販売されているブロック紙である。新聞業界のご多分に漏れず発行部数は年々減少しているが、それでも直近は四十万部台を維持していた。安田が関東新報の記者から名刺を受け取るのは初めてだった。
「失礼、関新さんでしたか。安田といいます」
慌てて安田も名刺を差し出す。服部は手製の名刺をじっと見つめ、丁寧に名刺入れへしまった。
「服部さんも取材で?」
「ええ、まあ」
「そうですか。邪魔をしてしまって申し訳ないです」
謝罪を口にしながら、頭のなかでは服部から情報を引き出す道筋を模索していた。先ほど東邦テレビの岸根と会った時には、まだこちらから差し出せるネタがなかった。だが、今なら弾がある。
「お詫びと言ってはなんですが、あの雑居ビル見えますか」
安田が手で示した方向に、服部が視線を向ける。
「あのビルの三階の中華料理店。そこの女性店主が事件直後の様子を目撃していました」
「新情報があったんですか?」
「被害者のなかに小学生くらいの女の子がいたそうです。まあ、関新さんはすでにご存じかもですが」
被害者の身元はすぐに公表されるはずだ。それに、木下からはすでに取れるだけ情報を取った。服部に紹介しても差し支えはないと判断した。
他の記者に提供する情報は、自分にとってはすでに価値がなく、相手にとって有益と思えるものを選ぶ。スクープを渡さないのは当然だが、一目で不要とわかるような情報では意味がない。その辺りの見極めが難しいところだった。服部は中華料理店の窓を凝視している。きっとこの後、訪問するのだろう。
「貴重な情報、ありがとうございます」
「いいえ。海斗を保護してくださったお礼です」
当の海斗は安田の隣で所在なげに立っている。
「安田さんも、大阪には行かれるんですか」
服部が思いがけないことを言う。
「どういう意味で?」
「深瀬礼司の出身地は大阪なので」
服部は、安田の情報に対するちょっとした礼のつもりで口にしたようだった。記者同士の情報交換は、持ちつ持たれつが原則だ。服部からすれば、お返しをしたに過ぎないのだろう。それに犯人の出身地など明日には報道される。
ただ、大阪という地名は聞き逃せなかった。
「おれと同郷ですね」
安田は生まれてから十八歳まで大阪に住んでいた。上京して二十年弱が経つが、その間大阪に足を運んだ回数は数えるほどしかない。安田の微妙な表情の変化を知ってか知らずか、服部は「土地勘があるのは強いですね」と感心してみせた。
「よければ、連絡してください。大阪を案内しますよ」
安田の社交辞令に、服部は「いいですね」と応じる。
「そろそろ失礼します。また会う時があれば、よろしくお願いします」
服部は去りかけたが、ふと思い出したように「安田さん」と呼んだ。
「子育て、頑張ってください」
それには答えることなく、安田は無言で微笑した。今度こそ服部は歩き出す。規則的なヒールの音が遠ざかっていく。海斗は徐々に小さくなる背中を見送っていた。
「……子育てなんか、したことないわ」
安田のつぶやきは誰の耳にも届かないまま、夜のざわめきに溶けた。
この続きは、書籍にてお楽しみください