きょう午後三時ごろ、東京都江東区亀戸の路上で、男が通行人を刃物で切りつけ、少なくとも三名が死亡、四名が負傷した。
警視庁城東署によれば、殺人の疑いで現行犯逮捕されたのは深瀬礼司容疑者、三十五歳。犯行の動機は不明だが、調べに対し深瀬容疑者は「死刑になりたい」などと供述しているという。
第一章
息絶えたかのように、川面は凪いでいた。
十一月の夕刻。隅田川沿いに吹く風は、冬の気配をはらんでいる。頭上は心のうちを具現化したかのような曇天だった。白に灰色が混ざった雲は分厚く、その向こう側にあるはずの青空を想像すらさせない。
きれいに舗装された川の両岸は、隅田川テラスと通称されている。目の前には腰までの高さの柵があり、鈍色の水が揺れていた。川面の色は冴えない。まるで、水路に鉛を流しこんだかのようだった。
冷たい風を浴びながら、安田賢太郎はじっと糸の先を見ていた。手にしたロッドから垂れたPEラインの先端は、水のなかに沈んでいる。ルアーを投げ入れてから三時間。シーバスは一度も食いついていない。
日曜の午後だというのに周囲には他に誰もいなかった。春の週末などは家族連れでにぎわうのだが、晩秋から冬にかけては人影がまばらだ。もっとも、釣り人にはありがたい環境ではある。釣り場がにぎわいすぎていると、魚たちが逃げてしまう。
隅田川のシーバス釣りは春から秋がハイシーズンであり、すでにピークは過ぎている。ただ、冬であっても、餌であるイソメやゴカイが水中に這い出てくる――いわゆるバチ抜けのタイミングを見計らえば釣れると聞いたことがあった。しかし安田にそこまでの腕前はない。ただ漫然と、糸を垂らしていることしかできなかった。
安物の折りたたみ椅子に食いこんだ、尻の肉が痛い。時おり座る姿勢を変えてみるが、一度気になりだすと、どう座っても違和感は消えなかった。
隣に座る海斗は、とうに飽きて動画を見ている。左手にロッド、右手にスマートフォン、耳にはワイヤレスイヤフォン。視線はスマホの画面に釘付けだった。ずっと同じ姿勢でも苦しそうに見えないのは、安田よりはるかに若いせいか。
――こいつ、今いくつだっけ。
安田は黙って考える。海斗の誕生日が八月だということは覚えているが、正確な年齢が出てこない。結婚したのが二十七歳の時。海斗が生まれたのはその二年後で、安田は現在三十六歳。差し引き、七歳だ。
今さらながら、今年の四月に入学祝いのボールペンを渡したことを思い出す。後日、小学一年生がボールペンなんか使うわけないでしょ、と元妻の亜美に文句を言われたことも。小学生が使うのはシャーペンや鉛筆らしい。「学校生活で役立つものを」と思ったのだが、へたに気を遣わず、携帯ゲーム機でもやればよかった。やはり、らしくないことをするものではない。
かれこれ一時間近く、海斗はスマホ画面を凝視している。仮に魚がかかっても、気付かないのではないか。
七歳でスマホを持つのは早すぎる気もした。ネットで検索すればいかがわしい画像や動画は山ほど閲覧できるし、SNSをはじめればどんな犯罪に巻きこまれるかわからない。使用制限をかけているのかもしれないが、それだけで完璧に防げるとも思えなかった。安田が携帯電話を持ったのは高校に入ってからだ。高校生になってから、とは言わないが、せめて中学まで待ってもいいのではないか――。
そう思うものの、安田はケチをつけられる立場にない。海斗は息子ではあるが、一緒に暮らしてはいない。そもそも、これまで父親らしいことはひとつもしてこなかった。そんな自分が、デジタル機器の使用についてあれこれ言ったとて、亜美は聞く耳を持たないだろう。
「なに見てるんだ」
声をかけると、イヤフォンを外した海斗が「えっ?」と安田を見た。
「なんか言った?」
「いや。なに見てるのかと思って」
「ゲームの」
それだけ言って、海斗はまたイヤフォンを耳にねじこんだ。
ゲームの、なんなんだ。
息子とはいえマナー違反だろう、と思いながらも、こっそり海斗のスマホ画面を覗いた。アクションゲームのプレイ動画らしきものが映っている。おそらくは、ゲーム実況と呼ばれるものだろう。若いころは安田も視聴していた。お気に入りの配信者もいた。いつの間にか見なくなったのは、大人になったせいだろうか。それとも、楽しむ心の余裕がなくなったせいか。
腕時計は四時半を示していた。離婚した後、半年だけ付き合った女からもらった無名ブランドの時計だ。スロットの景品だと言っていた。その女と別れてから二年が経つ。安物のせいかしょっちゅう時刻がずれるので、年に数回は時刻合わせをしている。
釣果ゼロのまま、日没が近づいていた。どれだけ川面を睨んでも、獲物が食いつく予感はない。
「早いけど、飯にするか」
さっきはこちらの声が聞こえなかった様子の海斗だが、今度は一発で聞こえたらしい。待ってました、と言わんばかりに、慣れた手つきでリールのハンドルを回す。毎月面会日のたびに付き合わされているのだから、扱いには慣れている。道具は毎度、安田の私物を貸していた。
片付けはものの五分で終わった。安田と海斗で手分けして釣り道具を持ち、コインパーキングまで歩く。頭のなかですばやく料金を計算する。三時間で千三百二十円。発泡酒八本分か、と虚しい感想が湧いてくる。
歩いている間は二人とも無言だった。昔は安田がなにかと話題を探していたが、いつからかそれもやめた。実の息子に媚びているようで、馬鹿らしくなったからだ。
暮色の空の下、コインパーキングでは離婚前に買った愛車が待っていた。軽自動車ではなくコンパクトカーを選んだのは、子どもの成長を考えてのことだった。安田しか乗らない今となっては、維持費の安い軽でよかったと後悔している。
荷物をラゲッジスペースに積みながら、食事の場所を考えた。海斗と会う時の夕食は、食べ放題の店を選んでいる。量を食わせれば不満は口にしないだろう、という安易な考えだった。ファミレスにしないのはせめてもの見栄である。海斗に対して、ではなく、後で海斗から話を聞くであろう亜美に対する見栄だ。
「焼肉としゃぶしゃぶ、どっちがいい?」
海斗は「焼肉」と即答した。
「じゃあ、先月と同じ店でいいか」
返事はない。安田はその反応を肯定と受け取った。運転席に乗りこむと、海斗は助手席ではなく後部座席に座った。これも毎度のことだ。隣りあわせだと気まずいからだろう。別に構わない。気詰まりなのは安田も同じだった。
「車、出すぞ」
後部座席からの応答はなかった。
安田が大城亜美と離婚したのは、四年前のことだった。
フリーの事件記者である安田の仕事に、時間外という概念はない。事件が起これば、早朝だろうが深夜だろうが現場に駆けつけ、関係者に話を聞く。取材先で何日も泊まりこみ、ほうぼうを駆けずり回って記事を書く。その繰り返しである。自宅で寝るのは月のうち一週間ほどで、それは今も同じだった。
亜美との同棲をはじめたころから家事はほとんどしておらず、結婚後もそれは変わらなかった。父親になることは、最初から想定していなかった。子どもが欲しいと思ったことは一度もないし、育てるつもりもなかった。自分の父親が育児に参加した記憶もないし、そもそも男の育児など、給与が保証されている会社員や公務員の特権だと思っていた。
だから、妊娠したようだと亜美から聞かされた時、安田は喜ぶことができなかった。しばらく呆けたようにぽかんと口を開け、そうか、とつぶやいただけだった。その時の亜美の表情は覚えていない。ただ離婚の話し合いをしている最中、あの時からヤバいと思ってた、と聞いた。
生まれた息子に海斗という名をつけたのは、亜美だった。安田は提案された命名案を、すべて肯定した。なんでもよかったし、自分に口を出す権利はないと思っていた。育てるつもりはなかったし、育てないくせに命名だけ口出しするのも傲慢に思えた。海斗を産んで間もなく、亜美は安田に一切の相談をしなくなった。
安田は幼いころの海斗のことをなにも知らない。いつずりばいがはじまったか、いつ言葉をしゃべったか、いつ歩きはじめたのか。保育園になんという友達がいて、なんのキャラクターが好きで、どんな菓子が好きか。ひとつも知ることなく、事件現場に駆けつけては記事を書いた。亜美はアパレルショップのスタッフとして働きながら、一人で息子を育てた。
海斗が三歳の誕生日を迎え、多少は手がかからなくなってきたころ、亜美から離婚を切り出された。決意は固かった。
――あんたには父親の資格がない。
面と向かって言われた時は、頭に血が上った。たしかに無関心ではあったが、父親というのはそういうものだろうと思っていた。安田も亜美も譲らず、最後は怒鳴りあいになった。
海斗の親権は亜美が持つ。養育費として、海斗が成人するまで月三万円を安田が支払う。安田が海斗と面会できるのは月に一回。さんざん揉めた末に、そういう条件で離婚が成立した。
当時は心底腹が立ったが、四年経った今なら亜美の気持ちがよくわかる。自宅に寄り付かず、思いやりもなく、たいして稼ぎがあるわけでもない。たまに顔を合わせれば険悪になる。そんな夫と一緒にいる意味などない。
だが、みずからの行動を後悔はしていなかった。というより、安田にはこうする他になかった。海斗が生まれた時から、遅かれ早かれ、こうなる運命だったのだ。
午後五時前、人形町の焼肉店は空いていた。
安田たちは窓側のボックス席に通された。安田が奥に腰を下ろすと、海斗は正面を避けるようにはす向かいに座った。この店には先月も来た。安田はメニューも見ず、税込み五千円の黒毛和牛食べ放題コースを注文した。現在の懐具合で楽しめる、最大限の贅沢だった。無気力なスタッフが、「お飲み物は?」と尋ねる。
「ノンアルコールビールで」
食後に海斗を送らなければいけないため、アルコールは飲めなかった。海斗はコーラを頼んだ。ひと皿目は盛り合わせが来るとかで、しばらく待つことになった。
海斗はぼんやり外を眺めている。窓の向こうに広がっているのは、お世辞にも面白い風景とは言えなかった。枯れた植え込みや汚れた電柱、ひび割れた道路があるだけだ。
「動画はもう見ないのか」
「電池がなくなりそうだから」
「いいもんあるぞ」
安田はショルダーバッグから、モバイルバッテリーを取り出した。バッグにはノートパソコンやICレコーダー、カメラも入っている。事件はいつ、どこで起こるかわからない。どんな状況でも取材ができるよう、道具は常に持ち歩いていた。
「貸してやる」
テーブル越しにバッテリーを突き出すと、海斗は「ありがとう」と受け取った。その表情がどこか寂しげなのを見て、あれ、と思う。もしかしたら、自分と話がしたかったのだろうか。だが今さら返してくれとも言えず、安田は息子がスマホを充電する手つきをただ見ていた。
安田と海斗は、互いのスマホの番号を知っている。初夏の面会で初めてスマホを持参した海斗に、安田から番号の交換を申し出たのだ。話したかったわけではなく、迷子にでもなった時のための保険だった。これまで電話をかけたことは一度もない。
最初に飲み物が運ばれてきた。乾杯もせず、互いに勝手に飲みはじめる。ノンアルコールビールの味気なさには慣れないが、冷えた炭酸水というだけで爽快さは感じられた。海斗はコーラをストローでちびちび飲んでいる。やがて、肉の盛り合わせと白飯が来た。すかさず安田はトングでカルビをつまみ、網の上に置く。肉が焼ける音で早く沈黙を埋めたかったが、まだ十分に熱されていなかったせいか、煙は出なかった。
「どうなんだ、最近は」
仕方なく問いかけると、「なにが?」と無気力な答えが返ってきた。
「学校とか、どうなんだ。友達はいるのか?」
「いるよ」
「お母さんの様子は?」
「普通だけど」
まるで取り調べだな、と安田は思う。実際の取り調べを見たことはないが、たいていの容疑者の応答も、きっとこんなものだろう。黙秘ではないが、情報はゼロに等しい。まともな答えを返してこないのは、本当に話す事柄がないのか、それとも、家族ではなくなった男に言うべきことなどないと判断しているからか。真意は測りかねたが、それ以上突っ込む気力はなかった。
安田は焼けた肉の八割を海斗の皿に載せた。脂っぽいカルビなど数切れ食べれば十分だ。三十代の半ばに差しかかってからというもの、めっきり食欲が落ちた。その割に体重が減らないのが不思議だった。
海斗は黙々と食べていたが、唐突に「この間」と言った。
「なんだ?」
躊躇するような間があった。待っていると、仕切り直すようにもう一度「この間」と海斗が言った。
「お母さんの好きな人と会った」
安田はトングを手にしたまま、しばし動きを止めた。
いずれ、そうなるだろうとは思っていた。亜美はまだ三十三歳だ。海斗が小さいうちは仕事と育児で手一杯だったろうが、そろそろ新しい恋人をつくってもいい時期だった。安田は他人事のようにそう思っていたし、実際他人事だった。
しかしいざ、亜美に〈好きな人〉がいるのだと知ると、頭の芯に痺れるような感覚が走った。海斗から聞かされたせいもあるかもしれない。
「どんな人だった?」
「ちゃんとした服、着てた」
安田は思わず自分の身なりを確認する。染みのついたトレーナーに、裾の擦り切れたデニム。髪は二か月切っていない。顎に触れると、無精髭が指先に当たった。まともな社会人にふさわしい服装だと、胸を張ることはできなかった。
「その人、仕事の人?」
「わかんない」
「顔、かっこよかった? 芸能人の誰かに似てた?」
「お母さんに訊いて」
海斗はむすっとした顔で返した。
内心、無遠慮に質問しすぎたことを反省する。事件関係者への取材ならもう少しうまくやれるのだが、プライベートとなると勝手が違う。脂の少なそうなタンやハラミをつまんで、しばし咀嚼した。
そのうち海斗はまたイヤフォンをして、動画を見はじめた。食事中に見るのはマナー違反だと思ったが注意はしない。むしろ安田も心置きなくスマホを触ることができた。
仕事関係のメールが何通か来ていた。日曜の夕方だが、ライターや編集者に曜日は関係ない。いちいち気にしていたら雑誌は作れない。それでも十年前に比べれば、皆、きちんと休みを取るようになったほうだ。当時、出版社のフロアにはお盆だろうが年末年始だろうが人がいた。
ほとんどは急ぎの返信を要しないメールだった。だが、最も新しいメールの送り主を見た瞬間、安田の心拍数が心持ち上昇した。送り主の名は三品文雄。〈週刊実相〉のデスクで、安田にとっては最も付き合いの長い編集者であり、上得意先でもある。三品からの連絡は主に二種類だった。飲みの誘いか、原稿の依頼。
メールを開いてみると本文は二行しかなかった。
――ヤスケン、これ取材できる?
そっけない文章の下に、URLが貼りつけられていた。取材できるかと訊かれれば、答えは一つしかない。出版社へ売り込むのが常のフリー記者にとって、仕事を振ってくれる編集者ほどありがたい存在はなかった。
URLをタップすると、ニュースサイトへ飛んだ。配信時刻は三十分ほど前だった。
〈亀戸で通り魔、七人が死傷〉
見出しに目を疑う。同時に、すべての意識が文面に持っていかれる。店内に立ちこめる煙も、入店のベルも、海斗の存在すらも忘れて、安田は記事に集中した。
『汽水域』は全3回で連日公開予定