加奈は効率よく稼げるバイトを探し、思い切って、高給を謳う都内に数店舗を持つメイドカフェの会社の面接を受けてみた。女性面接官は履歴書の大学名に大いに興味を示したのち、採用してくれた。
──人気が出れば時給もあがります。ぜひ頑張ってくださいね
面接官はさらりとそう言った。
働き始めて、またも女子ばかりの世界だったと少し後悔する。どの子もルックスに自信を持っているらしく、丁寧なメイクで自分を最大限にアピールしようと必死だ。客は大半が男性で、店内では常に見つめられているような気がして居心地が悪かった。制服のミニスカートは恥ずかしかったが、華奢なのでそれなりに格好よくは見える。加奈は自分を励ました。割り切って稼げばいいのだ。
一ヶ月もすると馴染みの客ができて、時給もあがった。指名が増えて、他のバイトの子に密かに妬まれるほどになる。
稼いだお金はメイク用品や服や装飾品、桜子とのお出かけに費やした。高い化粧品のおかげで肌ツヤがよくなったし、顔立ちをくっきり見せるメイクもうまくなった。周囲からの視線が以前とは異なり、桜子のグループの子たちと同じように注目されている気がした。
頑張って自分を磨くことは楽しい。あたしはもう、地味な普通の子ではない。
加奈は夏休みもバイトに励んだり桜子とお出かけしたりしていたが、ある晩バイトを終えて携帯を覗くと、母から何度も連絡が入っていた。折り返すと、動揺した声が聞こえた。
「おばあちゃんが……」
祖母のツミが亡くなった。七十七歳だった。夏風邪が長引いて肺炎を併発し数日前から入院していたのだが、まさかこんなにすぐに……
病院に駆けつけると、母は取り乱していた。
「やっぱり、去年おじいちゃんが亡くなったことで気力が衰えちゃったのかも」
祖母はさばさばした性格だった。いつも忙しそうにいろいろと動いていて、一緒に遊んだ記憶は小さいころ以外はあまりない。二世帯住居だったがお互いに干渉しすぎず、義理の息子である加奈の父ともほどよい距離感で仲良くしていた。
花が好きで、家にはいつもどこかに名もない花が飾られていた。加奈が中高生のころ部活や塾で疲れて帰ってきたとき、勉強机に小さな花が置かれているのを見て癒されたものだ。祖母のさりげない気遣いだった。でもおじいちゃんが亡くなってからは、そういうことをしなくなっていた。
葬儀のあとは祖母の遺品整理を手伝った。押入れの奥にヴィトンのバッグを見つけて驚く。我が家に高級ブランド品があるとは。母に聞いてみた。
「私が大学生のころ、背伸びして買ったものだわ。じきに、自分には合わないなあと思っておばあちゃんに渡したの。そんなところに仕舞い込んであったのね」
使っていいかと母に聞くと、少しの間、見つめ返されたのち「大事に使うならいいわよ」と言われた。
九月下旬に大学が始まると、ヴィトンのバッグは即座に桜子の目にとまった。
「加奈もブランドバッグ持つのね。わざわざこだわって持たないのかと思ってた」
単に買えないから持っていなかっただけなのに、そんなふうに思われていたのか。母のものだけど、と遠慮がちに言うと、彼女は力強く答えた。
「そういうのが大事よね。いいものは受け継いでいくのよ。私もおばあさまからたくさんバッグをいただいているわ。サブスクで借りる人もいるけど、ブランドってそういうものではないと私は思うし」
ドキリとする。高級ブランドバッグはこれしかないので、サブスクを考えていたところだった。
いいものは受け継いでいくのか。じゃああたしが頑張って稼いでいいものを買ったら、将来あたしの子供に受け継げるってことよね。せっかく周囲から“普通”以上に見られているのだから、この状態をキープせねば。
加奈は、より一層バイトに励んだ。
冬休み、バイトで知り合った別大学の女子大生から「ちょっとしたサークルに入らない? K大とかJ大とかのセレブな人たちが集まっていろいろ意見交換する場なの」と誘われた。彼女は上昇志向が強く、仕事熱心で客からの人気も絶大だ。その子から誘われて悪い気はせず、行ってみることにした。
一月下旬。K大にあるラウンジで集まりは開かれた。いかにもお金持ち風の数人の男女がゆったりと話をしている。桜子のグループに属しているおかげか臆せず堂々と話をすることができ、彼らも大歓迎してくれた。
「加奈ちゃんは優星学園なんだね。僕の従姉も卒業生だよ」
K大の三年生だという四之宮律人は頬骨が高く額が広く、自信に満ち溢れた秀才という感じの青年で、積極的に加奈に話しかけてきた。
「セ・ラ・ヴィでディナーでもどう? サークル入会のお祝いにご馳走するよ」
ほんの少しトキメキを感じつつ、二月の初めに高級イタリアンに行った。
運ばれてきた料理は、以前食べたランチよりもさらに素晴らしかった。箸休め的な感じで出てきた少量のパスタまで、これまで食べたどんなスパゲッティよりも美味しいと感じた。メインもデザートもそれはそれは美味で、感嘆のため息しかでてこない。
だが加奈はどんな料理よりも、律人の話に酔いしれていた。
「あの株は上値が重そうだが、追ってもいいかなと僕は考えていてね」「つまり投資効率っていうのは」「そうそう、そのとき為替を考慮しないと痛い目にあうってわけ」
真のセレブは常に自分の資産を増やすことを考えている。“普通”より上の人たちがやっているのはバイトでちまちま稼ぐことじゃなくて、こういうことなのだ。
「加奈ちゃんも投資しない? すぐに二、三割の利益が出るよ。その気になったらいつでも連絡して」
数日後、律人に電話をかけた。
最初に預けた十万円で、すぐに一万五千円の利益が出た。メイドカフェよりずっと効率よく稼げる。加奈はさらに金額を増やして投資した。また儲かった。そのうちバイトも辞められるだろう。だが、今はまだ投資額を増やさなければ。
律人とはその後も頻繁に連絡をしあったが、恋人同士に発展する気配はない。自分の気持ちも相手の意図もわからぬまま、儲かるのだからと彼のアドバイスに従い、投資を続けた。
三月に入ってすぐ、律人からメッセージがきた。
『今回、いつもの三倍の額を入れられないかな。今ちょっと株価が下がっているけれど、追加で投資したら間違いなくさらに儲かるんだけど』
不安はあったがこれまでは確実に儲けていたので、言われるままの金額を律人に渡した。しばらく連絡がなく、何度もメッセージを送ってようやく返信がきたが、あと十万円追加してほしいと言われ、焦った。すでに貯金をほとんど投資に回してしまっている。春休みだったが、桜子からの誘いは極力断り、バイトを増やした。一日中立ちっぱなしで接客をして、くたくただ。
あたしいったい、なにをやっているんだろう。そもそもなんでお金を稼ごうと思ったんだっけ……
ある晩、バイトから帰ってくると母が声をかけてきた。
「おばあちゃんが関わっていた地元のサークルに参加してほしいの」
なんであたしが、と一応抵抗したが、母は、多摩に住む父方の祖母の介護もある。
「亡くなる直前まで、その会のことずっと気にしていたの。来年、三十周年で特別なイベントをやりたいんですって」
しぶしぶ引き受けた。
四月初旬、歴史保存会の会合が開かれた喫茶店から出てきて、加奈はため息をついた。みんなやる気がなさそうだし、なにより、こんなことしてなんになるの?
「こんな時代遅れの店で時代遅れの会合なんて、まったく意味がないわ」歩きながらつぶやく。「あたしにはそんな暇ないのに」
数日後の土曜日、珍しくバイトもなにもないので寝坊して、昼すぎに目覚めると律人からメッセージが来ていた。
今月中に追加の資金を入れられないと今までの投資が全て無駄になると言う。
『そういえば、今月誕生日だったよね。二十歳になればカードでキャッシングもできるよ。それも検討しておいて』
前に誕生日を聞かれたことがあったが、それってそういう意味だったの……
『それか、大学の友達を紹介してくれたら今回の分はこっちで処理してもいいよ。お金持ってて、もっと増やしたいって子、いるでしょ』
桜子の顔が浮かんだ。
これまでの投資がすべて無に帰すか、カードで借りるか、桜子を紹介するか。
どこに転んでもいいことはない気がした。だが、お金がなくなるのが一番悔しい。あんなに苦労してバイトしたのに。
絶望的な気分でリビングに行くと、母が仕事から戻っていた。手指のひび割れに絆創膏を貼っている。
「今日は早朝勤務で忙しかったわあ。入学シーズンもお花が動くのよね」
水仕事が多いせいだろう、母の手はいつもボロボロだ。
「加奈もなにか食べる? お母さんこれからお昼だから」お腹が空いていることに気づき、うんとうなずく。「スパゲッティでいいよね」
加奈はダイニングの椅子に座り、古びた狭いキッチン、数十年ものの食器棚、コップに活けられた開きすぎのチューリップなどを見回した。なんだか惨めだ。
母が立ち働く姿に視線を移す。
今年、五十歳。髪には白いものがちらほら。いつもメイクをほとんどせず、服装も構わない。今日も着古したシャツとジーンズ姿だ。
「お待たせ」
出てきたのはスパゲッティ・ナポリタンだった。大きめの皿にこんもりと載っている。急いで作ったせいか、ピーマンがちゃんと切れていなかったりソーセージの大きさがまちまちだったり、皿の端にもケチャップのオレンジ色があちこちはみ出ていたりして、見た目が悪い。
野暮ったいな。
むしゃくしゃしながら一口食べた。麺がもっさりしているように感じる。
「ぜんぜんアルデンテじゃないね」
「え?」母はフライパンを洗っている水音で聞こえなかったのか、大声を出した。「なんか言った?」
急に怒りがこみ上げてきて、加奈はフォークをがちゃんと置いた。
「ぜんぜん、パスタじゃない。こんなのうどんと一緒! 美味しくない! 一流のイタリアンのパスタはもっと歯ごたえがあって、洗練されていて、スマートだよ!」
「加奈」母は戸惑いながら水を止めた。「どうしたの?」
「あたしはこんな生活から抜け出すの! お母さんみたいにはならない!」
加奈は言い捨てると、家を飛び出した。
サイテー。こんな家も、お母さんも。
そして、あたしも。
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