こんな会、引き受けるんじゃなかった……
 藤代加奈は密かにため息をついて《喫茶おおどけい》を出た。会合メンバーとともに狭い路地を進み、人がたくさん行き来する通りに出る。“東中野ギンザ通り商店街”という名が付いているが、本物の銀座とはほど遠い、ごくありふれた商店街だ。
 店はその通りからさらに奥まっており、一見の客が入ることも少なそうだ。進行係になったハヤテさんは二十代後半くらいの長身のイケメンだから、彼目当てのお客さんはいるかもしれないけど、とにかく儲かっていなそうな感じだった。
「こんな時代遅れの店で時代遅れの会合なんて、まったく意味がないわ」歩きながらつぶやく。「あたしにはそんな暇ないのに」
 また、ため息をつきそうになる。

 加奈は、ごく平凡な家庭に生まれ育ったと思っている。父は新宿の中規模の食品会社に勤めるサラリーマン、母は近所の生花店でパート勤めをしている。
 小、中、高と公立で、勉強もスポーツも並程度だった。突出した才能があるわけではないが、大きく世間からはみ出すこともなかった。ルックスは並より少し上くらい。目は細めで鼻と口は小さい。えらが少し張っているが目立つほどでもない。色白できれいな肌を褒められることはある。背が低めだが、痩せ気味なのでバランスは取れていた。
 人生はトータルで中の上あたり。普通に楽しく生活して、普通に幸せだと思っていた。
 だが一年少々前、加奈の人生観を変えるできごとが起きた。
 全国的に有名な伝統のある小規模な私立大で、付属校がいくつもあるため狭き門と言われている優星学園女子大学を、記念受験と思って受けたところ合格したのだ。両親も親戚一同も大喜び。もちろん加奈も。
 期待に胸を膨らませて入学した。
 だがすぐに、夢見ていたようなキャンパスライフとは異なることに気づく。
 ずっと公立高校で過ごし男子とも気さくに話してきた加奈にとって“女子しかいない教室”は、そうとわかっていてもなかなかの衝撃で、同性しかいない気の緩みのような空気と、逆にライバルしかいないピリピリ感の両方を感じた。おまけにクラスには東京の付属高校から上がってきた子たちの大きなグループがあり、地方の付属校の子や一般受験で入ってきた者たちは肩身の狭い雰囲気があった。
 四月下旬、一般教養の授業でたまたま隣に座った子から声をかけられた。
「あなたのノート、すごく整理されて書かれているわ。頭いいのね。よかったら一緒にランチしない? いつも行くお店があるの」
 彼女の名は桜子。例の付属校グループのリーダー的存在で、キャンパスを歩くと皆が注目するような派手な美女だ。資産家のお嬢様で小学校から優星学園だという。
 連れていかれた大学近くのおしゃれなフレンチ・カフェには、グループの子が集まっていた。皆、最新のメイクやネイルを施し、着ている服も持っているバッグも高級そうだ。加奈が桜子の隣に座ると全員がねっとりと視線をよこした気がして、恐縮した。彼女たちは加奈に構わず会話を続ける。
「今日、とてもいい香り」「ミスディオールなの」「ああ、やっぱり」「プチプラも試してみたけれど、私にはイマイチ合わなかったわ」
 プチプラばかり使っている加奈には耳が痛い。
「ゴールデンウイークはどうするの? 我が家は毎年ハワイなんだけど」「うちはおばあさまが一緒に軽井沢の別荘に行こうってうるさいから、お供するの」
 千五百円以上するランチプレートを食べながらこんな会話が飛び交っている。自分とは別世界だな。加奈は心の中で苦笑した。
 ランチの終わりごろ、桜子がノートをコピーさせてほしいと言ってきた。高校時代は特に優秀だったわけでもないので、驚きつつも快諾する。
「加奈って、落ち着いている感じがステキ」彼女は屈託なく言う。「明日も一緒にご飯食べようね」
 女王様気質の一方でどこか幼さを併せもつ彼女はなかなか魅力的で、気に入られて悪い気はしなかった。だが、毎日こんな高いランチを食べていたらファミレスのバイト代はあっという間に飛んでいきそうだなと思った。
 桜子は、その後もいろいろなことに加奈を誘ってきた。銀座での買い物。知人のクラシック・コンサート。青山のレストラン。白金台のショコラティエ……
 全部はとても付き合えず予定があるからと断ると、彼女は子供のように拗ねてしまう。悪いことをしているような気分になり、結局、お付き合いする羽目になる。煌びやかな世界に触れるのは悪くないが、少し疲れた。
 大学生になって二ヶ月ほどしたころ、ふと、高校時代の友達がどうしているかとSNSを覗いてみた。それぞれ充実した生活を送っている様子だ。
 中学時代に仲のよかった友人にも久々に電話してみた。彼女は製菓の専門学校に通っていて、毎日大変だが楽しいという。
『加奈は優星学園だから、すっかりセレブな生活していたりしちゃうの?』
 声に嫉みのようなものを感じ、加奈は戸惑った。
 自分は相変わらず“普通”で、周囲についていくのに必死だ、などと愚痴めいたことを言うと、友人はあっさり返してきた。
『加奈は地味だからね~』
 電話を切って、モヤモヤした。あたしだって桜子から気に入られているし、華やかなグループの一員だけどな。
 桜子からメッセージが届く。
──良さげなイタリアンレストランを見つけたの。二人だけで行きましょ。最近、舞子や妃美香と一緒にいるのがどうもね。私が目立っていることが面白くないみたいで、嫌味っぽいこと言ってくるから
 女子同士の水面下の抗争に巻き込まれるのは面倒だ。あたしは、ごく普通にしていたいだけなのに。
 しかしつい最近、桜子の機嫌を損ねてグループからはじき出された子がいた。その子は今クラスで孤立していて、ランチを共にする人もいない。もし自分も追い出されたら、“普通”以下になってしまうのだろうか……
 結局、桜子と二人で話題の高級イタリアン、セ・ラ・ヴィへ行った。洗練された接客、大輪のカサブランカや深紅のバラや上品な紫色のラベンダーが飾られている豪華な店内、美味しいランチ。そんな華やかな場を、加奈は楽しむことができた。桜子も二人きりのランチに大満足したようだった。
「私のおばあさま、イタリアンが大好きだから今度連れてきてあげよう」
 加奈は自分の祖母の庶民的な顔を思い浮かべた。セレブとは程遠い生活をしているおばあちゃんは、こんなお店の入口に立っただけで緊張してしまうだろう。
「加奈は中野に住んでいるのよね。便利そうでいいなあ。私の家は成城で、家のまわりは住宅地でつまらないの。中野は駅前になんでもあって楽しそう」
 加奈が住んでいるのは、正確には東中野だ。大学やデパートや規模の大きい商店街がある中野駅とは異なり、今一歩あか抜けない。今度遊びに行ってもいいかと聞かれ、まあそのうちに、とお茶を濁した。
 桜子と別れて東中野に戻ってきて、我が家の前に立ちしみじみと見つめた。
 祖父が四十年前に建てた木造住宅は加奈が生まれたころに二世帯住居に改装されたが、それからも二十年近く経っているので古さは否めない。継ぎ足しで建てたため一階と二階の色合いが異なり、バランスも悪い。申し訳程度の庭の低木は手入れ不足で枯れ気味だ。石塀もあちこち欠けて見場が悪い。
 こんな家に桜子を連れてくることはできないなあ。
 家に入ると、母の登代子が生花店の仕事から帰ったところだった。明らかに咲きすぎた花を大きめのコップに活けている。カサブランカと薄いピンクのバラ、ミニひまわり。
「これ、もう売れないから、もらってきたの。まだきれいだものね」
 母が嬉しそうに言ったが、加奈はレストランの豪華な花を思い出していた。やっぱり、あっちのほうがだんぜんいい。
 せっかく優星学園に通っているんだし、あたしは“普通”以上を目指そう。そのためには、やはりお金が必要だ。

 

『さかのぼり喫茶おおどけい』は全3回で連日公開予定