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 とぼとぼと歩いて、ギンザ通り商店街に入った。コーヒーでも飲んで落ち着こうと思ったが、携帯しか持ってこなかったことに気づく。電子マネーはいくらか入っていたっけ……
「あら、藤代加奈さんよね」
 声をかけられ振り向くと、小柄なおばあさんがにこにこ笑っていた。メイドエプロンをしたままでスーパーの袋をぶらさげている。《喫茶おおどけい》のハツ子だ。
「ピーマンが切れてしまって、慌てて買ってきたのよ」
 ウェーブのかかった顎あたりまでの長さの髪は潔いほど真っ白だ。背筋がぴんと伸び、黒目勝ちの瞳がきらきらと輝いていて、今にも踊り出しそうな快活な雰囲気を醸し出している。
 ハヤテからのメッセージをろくに見ていなかったことを思い出し、気まずくてすぐに去ろうとすると、加奈よりさらに背の低い彼女が正面から顔を覗き込んでくる。額や目尻にシワはあるけれど頬は丸くて艶があって、笑顔があどけなくてかわいらしい。
 彼女は、いたずらを思いついた子供みたいに声を弾ませた。
「ちょっと寄っていかない? ご馳走するわよ」
 結構です、と言おうとしてお腹が鳴り、赤面する。喫茶店の店主は加奈の背中を楽しそうに押した。
「若いっていいわねえ。さ、行きましょ」

 店はそこそこ客が入っていたが、順番にお会計をしているようだった。店内の大時計を見ると、一時四十分過ぎ。ランチタイムが一段落したのだろう。
「そちらにどうぞ。悪いけど、ちょっと待っていてね」
 カウンターを示され、加奈は素直に座った。
 改めて店内を見回す。
 全体的に茶色い。そして古びていた。入口脇の加奈の背よりも高い置時計、五卓あるテーブルや椅子、キャビネットやピアノはどれも年季が入っている。そこここに形の異なるステンドグラスのテーブルランプがあり、それはきれいだなと感じた。壁際の棚にはごちゃごちゃと雑貨が並ぶ。
 一枚板のカウンターは分厚くて堂々たるものだが、小さな傷があちこちに刻まれているので相当古そうだ。端には骨とう品店で売られていそうなレジスターや、今どき見ないピンク色のダイヤル式公衆電話が置かれていた。
「いらっしゃいませ」
 黒いソムリエエプロン姿のハヤテがおしぼりを渡してくれた。やわらかなウェーブの短髪といいすっと通った鼻筋といい、美形要素満載なのになんだか影が薄く感じられるのは、祖母である店主に華がありすぎるせいかもしれない。
 加奈は視線を逸らして謝った。
「すみません、メッセージに返信してなくて」
「いえ」彼は小声でつぶやいた。「みなさんお忙しそうで、返信はないので」
 ますます申し訳ない。
 だけど、みんな忙しいのは事実よ。会社員の人とか、お店やってる人とかでしょ。お年寄りの暇つぶしみたいな会のために、たくさん時間を割けないわ。
 やがて最後の客が帰り、加奈のみが残った。
「今日のランチは慌ただしかったわねえ」
 ハツ子はやれやれというように腰を伸ばすと、テーブルの皿を片付け始めた。
 加奈はふと思いついて聞いてみる。
「ハツ子さんは、何年くらいこのお店をやっているんですか?」
 彼女は嬉しそうにこちらを向くと、首をかしげた。
「それらしきものを始めたのは戦後少ししてからだから、七十年近くになるわね」
「そんなに長く?」
「今の内装になったのは昭和三十九年だから……それからでも五十年以上経つわ」
「じゃあ、うちの母が生まれる前から」
「登代子さんが生まれたのは改装の二年後だったわね。よく覚えているわ」そんな昔のこと、想像もできないな。「加奈さん、ってお呼びしてもいいかしら」
 はいとうなずくと彼女は続けた。
「あなたも小学生くらいのころはツミちゃん……いえ、ツミさんに連れられて、よくここに来ていたわよね」
 おばあちゃんを“ちゃん”付けするなんてすごい。そういえば祖母と訪れたことがあったかも。今まで忘れていたので、言い訳めいたセリフを吐く。
「あたし、中学から部活が忙しくなって、おばあちゃんと出かけることもなくなってしまって」
 ハツ子は小さくうなずく。
「ツミさん、『子供はすぐに大きくなって自分の世界を持つようになる。それはすばらしいことだから、年寄りは邪魔しちゃいけない』ってよく言っていたわ」
 祖母はさばさばしていて“去る者は追わず”みたいなところがあったけれど、そんなふうにきちんと孫のことを考えてくれていたのか。あたしはおばあちゃんのこと、よく知らなかったかもしれない。
「おばあちゃんって若いころ、どんな人だったんですか」
 ハツ子は断言するように言った。
「一言でいうと、さっぱりした性格で、細やかな心遣いのできる子だったわ」
 ハヤテがぼそりと口を挟む。
「それは、一言ではなくふたことでは?」
 ハツ子は唇を尖らせた。
「まとめて一言なの。ハヤテさんはそういうところがモテない要因だと思うわ」
 ハヤテは微かに肩をすくめるのみ。
 孫なのに“さん”付けなのね。店員さんだから? いい関係だな。
 ハツ子は笑顔を加奈に向けた。
「ツミさんはこの近所で生まれ育ったのよ。お父さんが太平洋戦争で亡くなってしまってねえ。終戦のときに彼女はまだ七歳で、おうちは経済的にも大変だったけれど、働きに出たお母さんを支えて小さな妹と弟の面倒をきちんとみていたわ」
 ぜんぜん知らなかった。
「この近くに『恵みの園』という戦争孤児のための施設があったのだけど、そこに引き取られた子たちとも仲良くしていたわ。彼女、身寄りのない子をさりげなく励ますのが上手で、小さい子から慕われていたのよ」
「そう、だったんですね」
 祖母をよく知る老店主は思い出すように上方を見やった。
「ツミさん、よく言っていたわ。『元気はタダよ。お金なんかなくたって元気はいくらでも持てるのよ』って」
 ずうんと重い塊を、胸のうちに感じた。
「もっとも」彼女は快活に笑った。「お腹が空いていたら元気を出すのも大変だから、食べるものを買えるくらいのお金はあったほうがいいですけどね」
 加奈は急に、この優しそうな老店主に告白してしまいたくなった。
「実はさっき、お腹が空いていたせいか母に冷たいこと言ってしまって」
 ハツ子は、あら、というように微笑む。その笑みに励まされ、加奈は続けた。
「ナポリタンを作ってくれたんですけど、すごく野暮ったくて、それで」
「野暮ったい?」
「まるでうどんみたいだったんです。パスタってコシがあるものでしょ。母の作るナポリタンは麺がのびてるっていうか」
 気持ちが昂り、いろいろ打ち明けてしまう。大学で派手なグループに所属してしまったこと、そのグループにいるためにはお金が必要でメイドカフェのバイトを始めたこと、律人のこと、投資のことも余さず話した。
 ハツ子は隣に座り、穏やかな佇まいで聞いている。その面はマリアさまみたいに慈悲深く見えて、加奈は、心の中に溜まっていた澱をすべて吐き出した。
「なんか、疲れちゃいました。あたし、いったいなにをしているんでしょうね」
 ハツ子の手が加奈の背中にそっと触れた。あたたかい。そういえば子供のころ、母がよく背中をさすってくれたっけ。こんなぬくもり、いったいいつ以来だろう。どうして大きくなると誰も背中をさすってくれなくなるんだろう……
 ハツ子はぽんぽん、と背中を柔らかく叩いたあと、加奈の顔を覗き込んで微笑み、顔を上げた。
「ハヤテさん。ナポリタンを作ってちょうだい。二番目の引き出しにあるレシピでね」
 彼はうなずくと、キッチン内の引き出しから古びたノートを取り出した。店のオリジナルメニューでも書かれているのかもしれない。
 ハツ子はゆったりと動いて大時計のほうに行く。
「ちょっとレコードでも聞きましょうか」
 時計の隣にある小さな棚の前に立った。上に載っている家庭用プリンタ大の箱の蓋をあけると、それはポータブル蓄音機だった。ユーチューブでしか見たことないな。どんな音を出すんだろう。
 棚の引き出しから出された黒い円盤が台の上に置かれた。ハツ子は元気よくレバーを回し、針をそっと操作する。
 独特のジジ、という音のあとにメロウな音楽が流れてきた。すぐに歌が始まる。けだるい女性の声で、日本語だ。
 好きな男性がささやくのは本当の愛なのだろうか、その愛を信じたいけれど……といった内容が甘やかに歌われる。優しい間奏が入り、二番は英語の歌詞。ハスキーな低い声がなんともロマンティックだ。明るい曲調だが、なんだか哀しくなった。
 英語で“もしフラれちゃったら死んじゃう”というフレーズがあった。そんな恋愛はまだ経験がない。そもそも、あたしは律人のことが好きなのかもわからない……
「『嘘は罪』っていうのよ。あなたのおばあちゃん、これを聞いてよく笑いながら言っていたわ」
──あたしの名前はツミだけど、嘘はつかないわよ
 嘘は罪、か。
 短い曲はすぐに終わった。
「もう一回、かけてもらってもいいですか」
 ハツ子は微笑んで、再び蓄音機を回す。
 ハヤテがフライパンを火にかけた。ジュウジュウという音とレコードの音が重なる。
 ふいに大時計が時を告げた。
 時刻はちょうどを示していないのに、何度も鐘が鳴っている。古そうな時計だから壊れているのかしら。
 文字盤をぼんやり見つめていると、針が突然ぐにゃりと曲がった。
 おかしい。必死に目をこらすが、頭がぼうっとしてくる。
 調理音とレコードの音と、時計の間延びしたような“ボウワワァァ~~ン”という夢見心地の響きが相まって店内に充満し、加奈は眠くてしかたなくなる。ああ、目を、開けていられない……
 加奈はカウンターに突っ伏してしまった。

 ざわざわという人の声に、ようやく目を開ける。
 いやだ、喫茶店で寝ちゃったのね。
 顔を上げると、店が急に混んでいた。一瞬だけ目を閉じたくらいだと思っていたのに、長時間寝ていたのか。恥ずかしい。
 なんだか、店内がケムたい。
 はっと頭が冴える。大テーブルの男性客たちはタバコを吸っていた。今どき禁煙じゃないなんて。
「ハツ子さん、おあいそ!」
 大テーブルにいた中年男性の一人が勢いよく叫んだ。すぐに、顎くらいまでの黒々としたウェーブヘアの女性が出てきて答えた。
「コーヒー五杯で、千五百円です」
 男は分厚い長財布を出すと、一万円札を二枚取り出す。
「ハツ子さん、おつりはチップに」
 ……この女性もハツ子さん? 五、六十代にしか見えないから別の人だろう。彼女もメイドエプロンをつけている。お店だから同じものを着ていても不思議ではないけれど、なんだか雰囲気がそっくりだ。

 

『さかのぼり喫茶おおどけい』は全3回で連日公開予定