東中野に佇む昭和レトロな喫茶店。そこにひっそりと置かれた大型置時計が過去と今をつなぎ、悩めるお客たちに小さな奇跡を起こす。『土曜日はカフェチボリで』の内山純さんが文庫書き下ろしでお届けするのは、店主ハツ子(88歳)の優しさがたっぷり詰まった美味しい物語です。
「小説推理」2023年10月号に掲載された書評家・松井ゆかりさんのレビューで『レトロ喫茶おおどけい』の読みどころをご紹介します。
■『レトロ喫茶おおどけい』内山 純 /松井ゆかり[評]
大時計の鐘の音が鳴るとき、悩める者たちは時間を超える。
店主と孫が提供するのは、優しさとどこか懐かしいメニュー。
あなたもどうぞ、いらっしゃいませ。
喫茶店には独特の魅力がある。違いを厳密に定義するのは難しいけれど、日射しがふりそそぐ明るい店内を風が吹き抜けるような空間がカフェだとすると、喫茶店はもっと昔風でひっそりとしていて照明も柔らかなイメージだ。かつ、定番のデザート(「スイーツ」ではない)や食事を食べられるところ。そんな時間が止まったかのような場所であれば、何かの拍子に時が巻き戻ったりすることもあるかも……と思わせてくれる。
《喫茶おおどけい》は、東京・東中野にある昭和レトロな店。ドアを入ると、振り子式の大時計が存在感を放っている。孫でバイトのハヤテとともに店を切り盛りしているのは、店主のハツ子さんだ。偶然来店した人々は、ハツ子さんたちの温かさと店内のほっとできる雰囲気に背中を押されて、心の内を語り始めることに。
連作短編集である本書には5つの作品が収められている。目立たずおとなしいため、周囲からないがしろにされがちな会社員。子どもを産むまでは万事計画通りに生きてきたのに、思うようにならない育児で疲れきった母親。バイオリンの道に進むのが夢だった母からの期待に押しつぶされそうになっている小学生。良妻賢母だった母が認知症になり、妄想や暴言に疲弊する主婦。優秀な弟への引け目や自分の要領の悪さに嫌気がさして、怪しいバイトに手を染めようとする大学生。《喫茶おおどけい》にやってきた人は、誰もが悩みを抱えていた。
彼らの心を癒やすのにぴったりのメニューは、ハツ子さんの記憶と分かちがたく結び付いている。大時計が0分ちょうどでもないのに鐘を鳴らすと、彼らは急に眠気に襲われ、気づいた時には若かりし頃のハツ子さん(と、ある1話だけ別の人物)が存在する過去にタイムスリップしているのだ。お客さんたちは、過去に身を置くことで現実の人生で自分が進むべき方向を見出していく。
ハツ子さんは御年88歳。いつ命を落としてもおかしくない、食料も物も不足していた戦中戦後を、明るさや機転で乗り切りながら生きてきた。時代は違っても人の悩みには共通するところも多いということを、本書を読んで改めて実感させられる。いつの世にも、人間には寄り添ってくれる存在が必要なのだ。それが人であれ、おいしいメニューであれ、あるいは本であれ。近所に喫茶店がなくたって、この本を開けば私たちはいつでも《喫茶おおどけい》を訪れることができる。