1
刀身が、白い光を放っている。
闇にむかって刀を構える日向将監の姿を、芳円は毎夜見ていた。
闇以外に、なにもない。将監の姿がぼんやりとしか見えないのに較べ、刀身の光だけはいつもはっとするほど鮮やかだった。
地摺りか正眼に構えられた刀は、半刻近く動くことはない。将監がなににむかい合い、なにを見ようとしているのか、芳円は考えないようにしていた。
いずれ、将監は死ぬだろう。それは明日かもしれず、十日後かもしれない。
青梅村のこの寺へ将監が来て、十四日が過ぎていた。十八歳になる、孫の景一郎が一緒であった。景一郎を、芳円はほとんど知らなかった。母の満乃は、知っている。
風が吹き、樹木が戦いでも、なにかが動いているという気に、芳円はならなかった。将監が立っている間は、なにも動かず、音もなく、その姿が消えた時、不意に息を吹き返したように、木が戦ぎ、虫が鳴くのだった。
将監が立っている間、境内はすべて死に満ちている。
構えられた刀身が振られるのを、芳円は一度も見ていない。鍔鳴りもさせず、刀身はいつも静かに鞘に収められる。そして闇に吸いこまれるように、将監の姿は消えるのだ。
打ちこめるだろうか。芳円は一度そう考えたことがあった。隙は見えない。しかし気が満ちているようでもない。打ちこめば、崩せそうにも思えた。昔なら、打ちこんだかもしれない。そして斬られただろう。打ちこめるかと考えた瞬間に、芳円は不気味なものを感じたのである。それは将監の剣気ではなく、全身に湛えられている、死に引きこまれてしまうような、とらえどころのない不安に似たものだった。その不安に似たものが、やがて自分を魅了するだろうということを、疑いようもなくはっきりと感じた瞬間に、打ちこめるかもしれないと考えるのを芳円はやめたのである。
いまは、将監の死だけを、芳円は見つめている。将監は、自ら死に踏みこんでいくことはせず、死に吸いこまれていくこともないだろう。死と溶け合う。生が死をいつも抱いているものなら、ある時からそれが入れ替り、死が生を抱きこむ。そうやって人が死にゆく姿を、見られるかもしれないとだけ芳円は考えているのだった。
将監が、刀を鞘に収めた。その時はすでに将監の姿は闇に呑みこまれかかっていて、すぐに視界から消えた。
境内が息を吹き返した。虫が鳴きはじめるのを耳にしてから、芳円は静かに障子を閉めた。
夜明け。外が明るくなるころに、空気を切り裂くような音が聞えてくる。景一郎だった。振っているのは、真剣である。一刻ばかりそれは続いたが、芳円は床の中でその音を聞くだけだった。生気に満ちている。どうしようもないことだが、景一郎の発する気は、夜明けのように生気に満ちていて、将監の立ち姿とはまるで違った。
夜明けに素振りをするのは、長い習慣のようだった。はじめは、将監に命じられたのかもしれない。
芳円は起き出して、本堂へいき、朝の勤行をはじめた。僧らしいことをやるのは、この時だけだった。
勤行が終ると、いつも粥を炊くが、このところそれは景一郎の仕事になっている。
芳円は、離れの将監の病床を訪った。
「闇が斬れぬ」
呟くように、将監が言った。毎夜自分が見つめているのを知っているのだろう、と芳円は思った。床に就いた将監は、痩せ細った躰に、老いを剥き出しにしている。
労咳で死ぬ者を何人も見たが、みんな若かった。この世に残す思いと、闘いながら死んでいくというように、芳円には見えた。年老いた者は、労咳かどうかもわからず、老いに命を奪われていくように見えた。
将監は、そのどちらとも違った。
「喜重郎、刀で斬れぬものが、この世には多いな」
「わずかなものでございましょう、刀で斬れるものは」
「おまえが、それをわしに教えるのか」
笑い、咳をし、将監は晒で痰を拭いとった。晒には赤いしみがいくつも付いている。傷から出る血と違い、その血は時が経っても褪せて赤黒くならず、鮮やかに赤いままだった。
二十年も前から、芳円は将監の門弟だった。道場に通ったのは、十年というところか。江戸両国広小路、薬研堀の小さく粗末な道場だった。門弟はいつも、五、六人しかいなかった。素面、素籠手の稽古を変えようとしなかったからだ。組太刀の型稽古ではなく、竹刀とはいえ実際に打ち合うので、怪我人は絶えない。
そこで十年も耐えたのに、これという理由はない。耐えたという気さえ、なかった。
そこそこは、強くなったのかもしれない。ひと太刀で、人を斬り殺すことができたのだ。十年前のことで、一応の吟味は受けたが、五分の疵とみなされた。つまり喧嘩である。芳円も胸から腹にひと太刀浴びていて、寒くなればその傷が痛む。
景一郎が、粥を運んできた。芳円の分もある。
礼儀正しく、躾られていた。朝の素振りも欠かしたことがない。四年前将監が道場を畳んでから、ずっと祖父に連れられた旅の日々だったようだ。二人で、道場破りにいく。まず景一郎が出る。大抵はそこで終り、師という触れこみの将監が出る必要はなかったらしい。その時の道場から出る礼金を蓄えたらしく、この寺へ来た時もそれほど金に困っているようではなかった。
将監は、自分が死んだあと景一郎がどうなるのか、考えてもいないようだった。自分の死以外、将監にとってはすべて関心の外にあるように見える。
「毎朝、精が出るな、景一郎殿」
「はい」
言葉も、少なかった。
芳円は粥を啜りこんだ。将監も、床に端座して一応箸は取る。指のさきが、熱でふるえているのがよくわかる。どうしようもなかった。水で額を冷やすのさえ、嫌がるのである。
「もうよい」
将監が、景一郎に椀を返した。粥は半分も減ってはいない。
離れを出ると、芳円は境内を歩き回った。雑草は抜いてある。気がむいた時に、落ち葉も掃き集める。一応は、きちんとした寺だった。月のうち八日、やくざがやってきて本堂で賭場を開く。布施という名目でやくざから払われる金で、たまには江戸にも遊びに行けるのだった。出家したからといって、俗世を離れてはいない。十年前、人を斬った時に、無理矢理出家させられたようなものだった。
直参旗本千二百石。高久家の次男であり、兄は幕府御使番を勤め、御先手頭も狙おうかというところにいた。喧嘩沙汰とはいえ、人を斬った弟をそのままにしておくのは、出世にも響くと考えられたのである。
いま、兄がどこまで出世したかは知らない。俗世とは縁が切れないが、高久家とは芳円の方から縁を切ったつもりでいる。あそこで縁を切れたのは、自分の人生にとっては幸いだった。他家へ養子へ行くか、分家して小普請組入りを兄から強要されていたところだったのだ。
景一郎が、山門を出て村の方へ歩いていくのが見えた。米や味噌は、村人からの布施でまかなえた。景一郎が買いにいくのは、酒である。朝、粥を啜ると、宵の口に酒を飲む以外、将監はほとんどなにも口にしない。
草むらで、もの音がした。犬かと思ったが、狸だった。芳円は、かすかに気を送り、間合を詰めた。驚いたように、狸は芳円を見ていたが、草むらの中に消えた。
刀でも振ってみたくなったか。自嘲するように、芳円は呟いた。出家してから、刀などは執っていない。別段の決意があったわけではなく、必要がなかっただけだ。
事実、女は必要で、これは前髪の小姓姿にして、離れに囲った。一年ほど前までは、三年囲った女がいたが、博徒と語り合って逐電した。それからは江戸に買いに行くだけで、囲ってはいない。気に入った女が見つからない、というだけの理由だ。
秋だな。芳円は晴れた空を見て呟いた。狸にむかって、気を送ったりした自分を、忘れようとしたのだ。闇が斬れぬように、空も斬れぬ。そんなことを思っている自分に気づいて、芳円は苦笑した。
2
村の酒屋で一升の酒を買うと、景一郎はそのまま街道に出て帰ろうとした。
祖父は、ひと晩に一合ほどしか飲まない。とすれば、十日は買わなくても済む。一年前までは、ひと晩に一升近くは飲んでいたものだ。
男が四人、村のはずれのところに立っていた。懐手で、にやにやと笑いながら景一郎を見ている。寺に、博奕に来ている男たちだった。この間はひとりが負けて大暴れをし、やくざに長脇差を突きつけられると、見ていた景一郎の頬を殴りつけ、捨て科白を吐いて逃げ出したのだった。
本堂で賭場が開かれる時、景一郎は芳円に命じられて、下足番をしたりするのだ。
「よう、さんぴん」
ひとりが言った。景一郎は、四人を避けて通りすぎようとした。ひとりがまた、景一郎の頬を殴りつけてくる。かわした。
「野郎、よけやがったな。寺侍みてえなことをしながら、てめえはあそこの坊主に尻を貸してるんだってな」
この間、暴れた男だった。よほど、負けが納得できないでいるのだろう。いかさまだと、あの時も騒ぎ立てていた。
この村で、なにをやっている連中なのかはわからなかった。田畠を耕しているわけではなさそうだ。村では、こんな男たちをわずかだが見かける。村をはずれると、どこの家も農家だった。
「坊主に酒か、おい。まったく、おおっぴらにやりやがって。てめえ、ここで俺に尻を出してみな。酒を買うのがおおっぴらなら、そっちもおおっぴらにできるだろうが」
徳利を割ると面倒だ、と景一郎は思った。祖父は叱りもせず、静かにまた買ってこいと言うだけだろう。しかし、金は一升分しか渡されていないのである。
「なんだよ。なんで黙ってんだ」
「この酒は、青林寺の離れで臥している、私の祖父のためのものです」
「あの爺さん、労咳で死にかかってて、あそこの和尚が死に場所に離れを貸してるって話じゃねえか。死にかかったやつが、酒なんか飲むわけはねえよな」
「嘘ではありません」
「嘘だっていいんだよ。その酒を、俺たちにも振舞ってくれりゃよ」
「それはできません」
「おめえな、殴られる前に、さあどうぞと差し出しゃいいんだ。馬鹿じゃねえか。殴られてから全部奪られるより、その方がよっぽどいいじゃねえかよ」
ひとりが、いきなり殴りかかってきた。景一郎は、徳利を抱くようにして背を丸め、その男を肩で弾き飛ばした。もうひとり。左の手刀で、首筋を打った。弾き飛ばされて昏倒した男と、膝から折れるように崩れた男を束の間見降ろし、景一郎は走りはじめた。
街道ではなく、原道を駈けて行く。玉川上水から分水された小川がいくつかあり、それを跳び越えた。それから水車小屋のかげにうずくまり、しばらくじっとしていた。
かなり回り道をして、青林寺に戻った。
祖父は、眠っているようだった。薪を割れと芳円に言われていたことを思い出し、庫裡の裏に回って割りはじめた。数日前鋸で切った丸太が、まだ山ほどあった。
斧を叩きこむ。刀の扱いとはまた違って、力は入れず、振り降ろす勢いで割ればいいのだ。
躰を動かしているのが、好きだった。躰を動かしている間は、余計なことは考えなくて済む。余計なことを考えると、気持が斧に行かず、掌にしびれが走った。そして、薪は割れていないのだ。そういうところでは、薪割りも刀も同じだと思うと、それも面白かった。
晴れていた。陽の光も、景一郎は好きだった。陽の光の下で汗を流すと、躰が洗われたような気持になれる。
なぜ四年間旅を続けているのか、あまり考えないようにしていた。月に一度ぐらいの割りで、道場破りをやる。それで、路銀はなんとかなった。豊かな旅とは言えなかったが、それほどの不自由もなかった。竹刀で人とむき合うのを、怕いと思ったことはない。もの心がついたころから、ずっと素面、素籠手の稽古を積んでいて、竹刀で打たれたぐらいでは死なないと、躰が知っている。
道場破りでは、最初に立合うのは自分だった。負けたのと、勝つことができなかったのが、それぞれ一度ずつある。祖父が出て行って、打ち負かした。だから、祖父は強いと景一郎は思っている。祖父のように、強くなりたいと考えたことは、一度もない。竹刀を握った時から、祖父はずっと自分より強かったのだ。
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