刀身が、白い光を放っている。
 闇にむかって刀を構える日向ひなたしようげんの姿を、芳円ほうえんは毎夜見ていた。
 闇以外に、なにもない。将監の姿がぼんやりとしか見えないのにくらべ、刀身の光だけはいつもはっとするほど鮮やかだった。
 地摺じずりか正眼に構えられた刀は、半刻はんとき近く動くことはない。将監がなににむかい合い、なにを見ようとしているのか、芳円は考えないようにしていた。
 いずれ、将監は死ぬだろう。それは明日かもしれず、十日後かもしれない。
 おう村のこの寺へ将監が来て、十四日が過ぎていた。十八歳になる、孫の景一郎けいいちろうが一緒であった。景一郎を、芳円はほとんど知らなかった。母の満乃は、知っている。
 風が吹き、樹木がそよいでも、なにかが動いているという気に、芳円はならなかった。将監が立っている間は、なにも動かず、音もなく、その姿が消えた時、不意に息を吹き返したように、木が戦ぎ、虫が鳴くのだった。
 将監が立っている間、境内はすべて死に満ちている。
 構えられた刀身が振られるのを、芳円は一度も見ていない。つばりもさせず、刀身はいつも静かにさやに収められる。そして闇に吸いこまれるように、将監の姿は消えるのだ。
 打ちこめるだろうか。芳円は一度そう考えたことがあった。隙は見えない。しかし気が満ちているようでもない。打ちこめば、崩せそうにも思えた。昔なら、打ちこんだかもしれない。そして斬られただろう。打ちこめるかと考えた瞬間に、芳円は不気味なものを感じたのである。それは将監の剣気ではなく、全身にたたえられている、死に引きこまれてしまうような、とらえどころのない不安に似たものだった。その不安に似たものが、やがて自分を魅了するだろうということを、疑いようもなくはっきりと感じた瞬間に、打ちこめるかもしれないと考えるのを芳円はやめたのである。
 いまは、将監の死だけを、芳円は見つめている。将監は、自ら死に踏みこんでいくことはせず、死に吸いこまれていくこともないだろう。死と溶け合う。生が死をいつも抱いているものなら、ある時からそれが入れ替り、死が生をいだきこむ。そうやって人が死にゆく姿を、見られるかもしれないとだけ芳円は考えているのだった。
 将監が、刀を鞘に収めた。その時はすでに将監の姿は闇に呑みこまれかかっていて、すぐに視界から消えた。
 境内が息を吹き返した。虫が鳴きはじめるのを耳にしてから、芳円は静かに障子を閉めた。
 夜明け。外が明るくなるころに、空気を切り裂くような音が聞えてくる。景一郎だった。振っているのは、真剣である。一刻ばかりそれは続いたが、芳円は床の中でその音を聞くだけだった。生気に満ちている。どうしようもないことだが、景一郎の発する気は、夜明けのように生気に満ちていて、将監の立ち姿とはまるで違った。
 夜明けに素振りをするのは、長い習慣のようだった。はじめは、将監に命じられたのかもしれない。
 芳円は起き出して、本堂へいき、朝のごんぎようをはじめた。僧らしいことをやるのは、この時だけだった。
 勤行が終ると、いつも粥を炊くが、このところそれは景一郎の仕事になっている。
 芳円は、離れの将監の病床をおとなった。
「闇が斬れぬ」
 呟くように、将監が言った。毎夜自分が見つめているのを知っているのだろう、と芳円は思った。床に就いた将監は、痩せ細ったからだに、老いを剥き出しにしている。
 労咳ろうがいで死ぬ者を何人も見たが、みんな若かった。この世に残す思いと、闘いながら死んでいくというように、芳円には見えた。年老いた者は、労咳かどうかもわからず、老いに命を奪われていくように見えた。
 将監は、そのどちらとも違った。
「喜重郎、刀で斬れぬものが、この世には多いな」
「わずかなものでございましょう、刀で斬れるものは」
「おまえが、それをわしに教えるのか」
 笑い、せきをし、将監はさらしで痰を拭いとった。晒には赤いしみがいくつも付いている。傷から出る血と違い、その血は時が経っても褪せて赤黒くならず、鮮やかに赤いままだった。
 二十年も前から、芳円は将監の門弟だった。道場に通ったのは、十年というところか。江戸両国広小ひろこう研堀げんぼりの小さく粗末な道場だった。門弟はいつも、五、六人しかいなかった。めん素籠手すごての稽古を変えようとしなかったからだ。組太刀の型稽古ではなく、竹刀しないとはいえ実際に打ち合うので、怪我人は絶えない。
 そこで十年も耐えたのに、これという理由はない。耐えたという気さえ、なかった。
 そこそこは、強くなったのかもしれない。ひと太刀で、人を斬り殺すことができたのだ。十年前のことで、一応の吟味は受けたが、五分のきずとみなされた。つまり喧嘩である。芳円も胸から腹にひと太刀浴びていて、寒くなればその傷が痛む。
 景一郎が、粥を運んできた。芳円の分もある。
 礼儀正しく、躾られていた。朝の素振りも欠かしたことがない。四年前将監が道場を畳んでから、ずっと祖父に連れられた旅の日々だったようだ。二人で、道場破りにいく。まず景一郎が出る。大抵はそこで終り、師という触れこみの将監が出る必要はなかったらしい。その時の道場から出る礼金を蓄えたらしく、この寺へ来た時もそれほど金に困っているようではなかった。
 将監は、自分が死んだあと景一郎がどうなるのか、考えてもいないようだった。自分の死以外、将監にとってはすべて関心の外にあるように見える。
「毎朝、精が出るな、景一郎殿」
「はい」
 言葉も、少なかった。
 芳円は粥をすすりこんだ。将監も、床に端座して一応箸は取る。指のさきが、熱でふるえているのがよくわかる。どうしようもなかった。水で額を冷やすのさえ、いやがるのである。
「もうよい」
 将監が、景一郎にわんを返した。粥は半分も減ってはいない。
 離れを出ると、芳円は境内を歩き回った。雑草は抜いてある。気がむいた時に、落ち葉も掃き集める。一応は、きちんとした寺だった。月のうち八日、やくざがやってきて本堂で賭場とばを開く。布施ふせという名目でやくざから払われる金で、たまには江戸にも遊びに行けるのだった。出家したからといって、俗世を離れてはいない。十年前、人を斬った時に、無理矢理出家させられたようなものだった。
 直参じきさん旗本はたもと千二百石。高久たかひさ家の次男であり、兄は幕府使つかいばんを勤め、さきがしらも狙おうかというところにいた。喧嘩沙汰ざたとはいえ、人を斬った弟をそのままにしておくのは、出世にも響くと考えられたのである。
 いま、兄がどこまで出世したかは知らない。俗世とは縁が切れないが、高久家とは芳円の方から縁を切ったつもりでいる。あそこで縁を切れたのは、自分の人生にとっては幸いだった。他家へ養子へ行くか、分家して小普こぶしんぐみ入りを兄から強要されていたところだったのだ。
 景一郎が、山門を出て村の方へ歩いていくのが見えた。米や味噌は、村人からの布施でまかなえた。景一郎が買いにいくのは、酒である。朝、粥を啜ると、宵の口に酒を飲む以外、将監はほとんどなにも口にしない。
 草むらで、もの音がした。犬かと思ったが、たぬきだった。芳円は、かすかに気を送り、間合を詰めた。驚いたように、狸は芳円を見ていたが、草むらの中に消えた。
 刀でも振ってみたくなったか。ちようするように、芳円は呟いた。出家してから、刀などは執っていない。別段の決意があったわけではなく、必要がなかっただけだ。
 事実、女は必要で、これは前髪の小姓姿にして、離れに囲った。一年ほど前までは、三年囲った女がいたが、ばくと語り合って逐電した。それからは江戸に買いに行くだけで、囲ってはいない。気に入った女が見つからない、というだけの理由だ。
 秋だな。芳円は晴れた空を見て呟いた。狸にむかって、気を送ったりした自分を、忘れようとしたのだ。闇が斬れぬように、空も斬れぬ。そんなことを思っている自分に気づいて、芳円は苦笑した。



 村の酒屋で一升の酒を買うと、景一郎はそのまま街道に出て帰ろうとした。
 祖父は、ひと晩に一合ほどしか飲まない。とすれば、十日は買わなくても済む。一年前までは、ひと晩に一升近くは飲んでいたものだ。
 男が四人、村のはずれのところに立っていた。ふところで、にやにやと笑いながら景一郎を見ている。寺に、博奕ばくちに来ている男たちだった。この間はひとりが負けて大暴れをし、やくざになが脇差どすを突きつけられると、見ていた景一郎の頬を殴りつけ、捨て科白ぜりふを吐いて逃げ出したのだった。
 本堂で賭場が開かれる時、景一郎は芳円に命じられて、下足番をしたりするのだ。
「よう、さんぴん」
 ひとりが言った。景一郎は、四人を避けて通りすぎようとした。ひとりがまた、景一郎の頬を殴りつけてくる。かわした。
「野郎、よけやがったな。寺侍みてえなことをしながら、てめえはあそこの坊主に尻を貸してるんだってな」
 この間、暴れた男だった。よほど、負けが納得できないでいるのだろう。いかさまだと、あの時も騒ぎ立てていた。
 この村で、なにをやっている連中なのかはわからなかった。はたを耕しているわけではなさそうだ。村では、こんな男たちをわずかだが見かける。村をはずれると、どこの家も農家だった。
「坊主に酒か、おい。まったく、おおっぴらにやりやがって。てめえ、ここで俺に尻を出してみな。酒を買うのがおおっぴらなら、そっちもおおっぴらにできるだろうが」
 徳利とつくりを割ると面倒だ、と景一郎は思った。祖父は叱りもせず、静かにまた買ってこいと言うだけだろう。しかし、金は一升分しか渡されていないのである。
「なんだよ。なんで黙ってんだ」
「この酒は、青林せいりんの離れでしている、私の祖父のためのものです」
「あの爺さん、労咳で死にかかってて、あそこのしようが死に場所に離れを貸してるって話じゃねえか。死にかかったやつが、酒なんか飲むわけはねえよな」
「嘘ではありません」
「嘘だっていいんだよ。その酒を、俺たちにも振舞ってくれりゃよ」
「それはできません」
「おめえな、殴られる前に、さあどうぞと差し出しゃいいんだ。馬鹿じゃねえか。殴られてから全部奪られるより、その方がよっぽどいいじゃねえかよ」
 ひとりが、いきなり殴りかかってきた。景一郎は、徳利を抱くようにして背を丸め、その男を肩ではじき飛ばした。もうひとり。左の手刀で、首筋を打った。弾き飛ばされて昏倒こんとうした男と、膝から折れるように崩れた男を束の間見降ろし、景一郎は走りはじめた。
 街道ではなく、原道はらみちけて行く。玉川上水から分水された小川がいくつかあり、それを跳び越えた。それから水車小屋のかげにうずくまり、しばらくじっとしていた。
 かなり回り道をして、青林寺に戻った。
 祖父は、眠っているようだった。薪を割れと芳円に言われていたことを思い出し、庫裡くりの裏に回って割りはじめた。数日前のこぎりで切った丸太が、まだ山ほどあった。
 斧を叩きこむ。刀の扱いとはまた違って、力は入れず、振り降ろす勢いで割ればいいのだ。
 躰を動かしているのが、好きだった。躰を動かしている間は、余計なことは考えなくて済む。余計なことを考えると、気持が斧に行かず、掌にしびれが走った。そして、薪は割れていないのだ。そういうところでは、薪割りも刀も同じだと思うと、それも面白かった。
 晴れていた。陽の光も、景一郎は好きだった。陽の光の下で汗を流すと、躰が洗われたような気持になれる。
 なぜ四年間旅を続けているのか、あまり考えないようにしていた。月に一度ぐらいの割りで、道場破りをやる。それで、ぎんはなんとかなった。豊かな旅とは言えなかったが、それほどの不自由もなかった。竹刀で人とむき合うのを、こわいと思ったことはない。もの心がついたころから、ずっと素面、素籠手の稽古を積んでいて、竹刀で打たれたぐらいでは死なないと、躰が知っている。
 道場破りでは、最初に立合うのは自分だった。負けたのと、勝つことができなかったのが、それぞれ一度ずつある。祖父が出て行って、打ち負かした。だから、祖父は強いと景一郎は思っている。祖父のように、強くなりたいと考えたことは、一度もない。竹刀を握った時から、祖父はずっと自分より強かったのだ。

 

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