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 祖父は死ぬのだろうか。斧を振り降ろしながら、ふと思った。毎日、血を吐いている。それでも夜中には外に出て、半刻近くも刀を構えているのだ。死ぬとしたら、死ぬ間際まで剣を振って、一体なんになるというのだ。
「いい腕だ」
 声をかけられた。芳円だった。世話になっている。そうは思うが、景一郎はこの僧を好きにはなれなかった。覗き見られているような気分が、いつもある。
「毎日、真剣を振っているからな、景一郎殿は。手の内の絞りが、やはり違う」
 芳円は、十年前まで祖父の弟子だったのだという。なぜ僧になったのかは、知らない。
「道場破りでは、相手が防具をつけていることもあろう。そういう時でも、素面、素籠手で立合うのか?」
「はい」
「相手を左一文字に打ったとして、真剣ならばそこで勝負がつくが、竹刀だと遅れて面に来るだろう。それはかわせまい?」
「かわします。ただ、防具をつけた相手の胴を取ることはほとんどありません」
「そうだな。勝っているのに、面を打たれたのではかなわん」
「突きだけを、狙います」
「日向流に、突きの極意があったかな?」
「あるのでしょう。祖父に教えられました」
 防具をつけた相手だと、面垂れの下から、のどを狙って突く。決まれば、大抵はそれで悶絶もんぜつする。突きの稽古は、木の枝に三つものをぶらさげてやった。木片のこともあれば、まりのこともあった。静止したものを、続けて三つ突くのは、それほど難しくない。それぞれに動くものを三つ突く。それもできるようになった。面垂れの下を確実に狙えるようになったのは、そのころからだ。
 芳円が、薪をひと抱え持ちあげた。景一郎は薪を割り続けている。
 斧を振りあげた時、いきなり薪が飛んできた。四本。景一郎はそれを、叩き落とすのではなく、斧の先端に当てて落とした。
「いい眼をしている」
 芳円が言った。
「突きだけは、私はうまくならなかった。眼がよくないのだ。遠眼がきくとかそういうものではなく、動くものを見きわめる眼がない。鍛えてできる眼ではなく、持って生まれたものだろうと思ったものだよ」
「戯れはおやめください、芳円殿」
「すまぬ。しかし、軽々と落としたものだ。いくつまでなら、落とす自信がある?」
「わかりません。二カ所から同時に狙われたら、片方は当て、片方は払うしかありませんし、数の問題ではないと思います」
「言われればそうだ、確かに。そんなこともわからなかったから、私は強くなれなかったのだろう」
「芳円殿はお強い、と祖父が申しておりました。剛直な剣を遣われると」
「力押しの剣であった。その力も、景一郎殿にはかなうまい」
 芳円が、白い歯を見せて笑った。そうすると若々しく見える。実際いくつなのかは、知らなかった。五十に見える時もあれば、三十ぐらいかと思う時もある。
 景一郎は、また薪を割りはじめた。
「真剣での立合は、景一郎殿?」
「ありません」
「なぜ?」
「機会がありませんよ。それに、真剣で斬り合うような時代でもないと思います。いまは、武芸が大事と思う人は少ないでしょうし」
「しかし、斬り合わねばならぬ時があるぞ、多分。先生は、ずいぶんと真剣の立合もなされた」
「私の性格からして、そんなことはないと思います。争いは好みませんし」
「そうかな。武士はみんな太刀をいているではないか」
 自分がその気がなくても、相手が抜けばどうするのか、と芳円は問いかけているのだろう。あれほどの道場破りをくり返しても、一度も真剣で立合おうと言い出してくる者はいなかった。祖父が真剣で立合うところすら、見たことはないのだ。
「抜き合わせるようになれば、その時のことです」
「自信はあるのか?」
「太刀を、竹刀と思い定めれば、負けることはないだろうと思います」
「負けることはないか」
 皮肉な口調だったが、気にせずに景一郎は薪を割り続けた。
「そうだ、それだ」
 ひと抱えもありそうな薪を、なんの抵抗もなく割った時に、芳円が声をかけてきた。
「人を斬るのも、いまのような感じさ。斬った手応えすらなく、ほとんど両断するように斬ってしまっているのだ」
 芳円は、人を斬ったことがあるのだろうか。昔は武士で、弟子が居つかなかった祖父の道場に、十年も通っていたという。荒稽古を売り物にしている道場はいくつもあったが、防具なしで打ち合うところはなかった。そこに十年もいたのだから、人ぐらい斬っていてもおかしくないという気もする。
 それからしばらく、芳円は薪を割る景一郎をながめていたが、もうなにも言わなかった。
 芳円が立ち去ってから、景一郎は割った薪を集めて束ね、積みあげた。
 やることは、いくらでもあった。縁や本堂の拭き掃除をはじめる。十日に一度ぐらい、村から数人やってきて掃除をするようだが、その時までは汚れっ放しだった。井戸で洗濯もし、夕食の仕度もする。その合間に、離れの祖父を覗いてみる。このところ、祖父はいつも眠っていた。熱は高いようだが、額に触れると叱られた。どれほど熱が高くても、宵の口に必ず一合の酒は飲む。
 夕刻、離れを覗いてみると、祖父は床に起きあがって、書状をしたためていた。
「芳円を呼べ、景一郎」
 景一郎は、庫裡まで駈けて、芳円を呼んできた。二人で、なにか話しこみはじめた。あがれと言われないので、景一郎は庫裡へ行って芳円と自分のゆうの仕度をした。
「景一郎殿、毎朝振っている刀を、私に見せてはくれぬか」
 仕事をしている時は刀は邪魔で、庫裡の一室に置いてある。
「いまですか?」
「できれば」
 芳円の懐から、祖父が認めた書状が覗いている。景一郎は曖昧に頷き、大刀だいとうをとってきた。
 立ったまま芳円は鞘を払い、刀身を夕方の光の中にかざすようにした。
「大した刀ではないな」
 鞘に刀身を収めてから、芳円が言った。
「使うことはありません。御大層なものを佩いている必要はないと思います」
 理由もなくあざけられたような気がして、言い方は反抗的になった。
「武士の魂と言うではないか」
「高いきんあがなったものを佩けば、魂も崇高なものになるのですか?」
「これは一本取られたな。しかし、身をまもるものは、刀しかない。あまり粗末に扱ったりはしないことだ」
「祖父が手入れをする時、私はいつも一緒にさせられます。手入れが悪いとは思えませんが」
「気持が籠っておらぬ。刀も生きていて、持主の思いが乗り移ると私は思っているのだがな」
「気をつけます」
 なぜこんな時に、刀を見られるのか景一郎にはわからなかった。犬でも斬って、血の曇りがあるとでも思ったのだろうか。
「秋だなあ。陽が落ちるのが早い」
 芳円は、関係ないことを口にした。



 また、あの男たちだった。
 芳円の供をして、村まで来ていた。村といっても、旅籠はたごが並んだ通りがあって、人の数は多い。青梅街道の、江戸へのとば口になる宿場でもあった。
 芳円に言われたものを買い集めている時に、くわしてしまったのだった。
「ちょっとでいいから、付き合いなよ。この間みてえに、荒っぽいことはやめにしよう」
 人数が二人増えていて、六人になっていた。簡単には振り切れそうもない。芳円は、村の年寄の家に行っていた。
「どこへ行けばいいんです?」
「すぐそこさ。かさの裏の方だ」
 傘職人は多いところだ。作られた傘のほとんどは、江戸へ運ばれている。
「いいでしょう」
 景一郎は、ちょっとばかり腹を立てていた。しつこすぎる。一度、はっきりと話をした方がいいかもしれない。
 裏へ回った。傘の材料の竹が、山のように積みあげてある。
「俺たちはよ、つきは賭場へ出入りしちゃなんねえんだと。てめえらで、博奕をやったって面白くもねえ。そこで、おまえに相手をして貰おうってわけさ」
「断ります」
 六人とも、二十二、三というところだ。なにを生業なりわいにしているのか、やはりわからなかった。
「おう、さんぴん。大人しく頼んでるのに、断るだと。てめえんとこの寺じゃ、いかさま博奕をやってるじゃねえか。てめえは、それを手伝ってるじゃねえか」
「私は、博奕の手伝いなどしていない。博奕をやろうと考えたこともない。これ以上、私につきまとうのは、やめてくれませんか。やめなければ、私にも考えがある」
「ほう、その考えというのを、聞かせて貰おうじゃねえか」
「痛い思いをしますよ」
 傘の長さの竹を一本、景一郎は山の中から抜き取った。
「舐めてやがんのか、さんぴん。おりゃ、気に食わねえぞ。賭場の手伝いをしながら、俺たちを見下してやがる。博奕を打つやつは馬鹿だって眼で見やがる。痛い思いをするだと。てめえ、百敲ひやくたたきをする役人にでもなったつもりかよ」
「帰りなさい。悪いことは言わない」
「なんだ、そのつらは、てめえ」
 後ろにいたひとりが、進み出てきて、いきなり匕首あいくちを抜いた。全身が、ぴくりとふるえるのを景一郎は感じた。短いが、刃物だ。
 男は、じわじわと間合を詰めてきた。竹の棒を握りしめたまま、景一郎は二歩退がった。刃物だと思わなければいい。こんな手合が五人いようが六人いようが、竹の棒一本あれば充分だ。きらきら光るものは、刃物ではなく、ただの板きれだ。そう自分に言い聞かせたが、全身の肌からは、冷たい汗が噴き出していた。
 真剣。匕首とはいえ、真剣には違いなかった。それをむけられることは、想像した以上に脅威で、景一郎はおびえかかっている自分に気づいて、いっそううろたえた。
「腕の一本も、斬り落としてやらあな。侍のくせして、こいつあおい顔してやがる」
 六人が、取り囲むような恰好になった。匕首を握っているのは、正面のひとりだけだ。ほかの五人は気にならず、匕首だけが圧倒してくるようだった。五人も、それぞれに竹の棒を掴んでいる。
 道場でやることと同じだ。思いこもうとした。匕首が、眼の前を音をたててよぎった。音は、空気を斬り裂いたものだろう。無意識のうちに、避けていたようだ。
 また、斬りつけられた。とっさに、景一郎は竹の棒をあげ袈裟けさりあげた。なにかを打つ音がしたが、なにを打ったかは見ていなかった。景一郎が見たのは、宙から落ちてくる匕首だった。
「野郎」
 怒声が聞えた。打ち降ろされてくる竹の棒をかわした。その時は、ひとりの胴を打ち、もうひとりの面を取っていた。額から血を噴いた男が、叫び声をあげている。
 次にどう動いたのか、自分でもわからなかった。気づいた時は、六人とも倒れ、うめき声をあげていた。握った竹の棒は、ささらのように割れている。
「町人を相手に、むごいことをするではないか」
 声をかけられ、景一郎は弾かれたようにふり返った。武士がひとり立っていた。がらで、そでに袴という軽装だった。
「いや、私は」
「見たところ、おぬしかなり腕が立つな。斬らなければいいということではあるまい。見ろ、こいつらは四、五日は寝こむことになるぞ」
「私はただ、自分の身を護ろうとしただけです」
「おかしな言い訳だな。自分の身を護るために、六人もの男の足腰を立たなくする必要があるのか」
 すでに、三十は超えているだろう。声に底力があった。
直心影じきしんかげ流かね、いまのは」
「いえ、私は」
「手合せをしたくなった。抜かぬか?」
 男が、間合を詰めてくる。詰められた分だけ、景一郎は退がった。どこまでも、男は踏みこんでくる。ほとんど、走るような恰好になった。
「待ってください」
 叫んだ。白い光。匕首とはまるで違う音。全身が硬直した。上段に構えられた。見えるのは、刀だけだ。息を吸おうとしても吸えず、手も動かなかった。
「抜け。でなければ、このまま斬るぞ」
 待ってくれ。言おうとした。声まで出なくなっていた。刀が、ぴくりと動いた。悲鳴をあげながら、景一郎は刀を抜いた。なにか、別のものを持ったように、重たかった。なんとか、正眼に構えた。
「ほう」
 男の口から、声が出た。
 突ける。そう思った。相手は上段である。突いてくれとでも言うような、構えではないか。腕をのばすのではなく、踏みこんで突く。竹刀でできることは、真剣でもできるはずだ。
 突いた。男が跳び退すさった。腕だけで突いたのだろうと、景一郎はぼんやりと考えた。風が襲ってきた。景一郎も、跳んだ。後ろへだ。それを追って、さらに斬撃が来た。なにがどうなっているのか、わからなかった。続けざまに、顔を風が打つ。
 やはり、刀しか景一郎には見えなかった。刀だけが、宙で躍っているような気がする。いきなり、その刀が大きくなった。跳び退り、尻餅をつき、刀を横に構えた。
 不意に、刀が軽くなったような気がした。男が、背をむけている。刀はすでに鞘に収められていた。
 はじめて、息をした。そんな気がした。顎の先から、汗がしたたり落ちていく。それよりももっと、袴が濡れていた。
 そのことに気づいて、景一郎は、叫び声をあげた。いたたまれなくなり、走っていた。叫びながら、走り続けた。いつの間にか、青林寺のそばまで来ていた。
 息ひとつ、乱れていない。尿で、袴が濡れているだけだ。山門の手前のところで、景一郎は膝を折った。しばらく、じっとしていた。冷たさが、全身にしみた。絡みついてくるような冷たさだった。
 汗以外のもので、顔が濡れはじめた。草を掴んだ。握り潰そうとしても、力を抜くとそれはまた掌の中でふくらんでくる。何度も、景一郎はそれをくり返した。
 襲いかかってくるのは、理不尽としか言いようのない感情だった。村へ引き返し、もう一度あの武士と立合ってみたい。死ぬ気になれば、互角に闘えるはずだ。このまま叫び出したいような思いで日を送るのなら、死ぬ覚悟をした方がましではないのか。死んでもいい。草を掴んだ手に、渾身の力をこめる。草が、掌の中で潰れていく。引きちぎった。立ちあがろうとした。
 しかしすぐに、袴の冷たさが、気持の芯まで打ちのめしてくるのだった。俺はくずだ。俺のような男を屑と言わずして、なにを屑というのか。
 ちあがった。山門はくぐらず、寺の裏手の雑木林に入った。動物が動くような音がした。その気配にさえ怯えている自分を、この世から消してしまいたかった。
 なぜ、からだが動かなくなったのか。突きさえも出せなくなったのか。竹刀ならば、いくらでも出せる。怯えるというのは、それほど大きなことなのか。考えてみれば、剣の修行をしたことすらない、やくざのような男が出した匕首にも、自分は怯えていた。武士の刀は、論外だった。鞘走った瞬間に、魔物にでも襲われたような気分になった。自分がどうしたのか、途切れ途切れにしか憶えていない。立っている地面が割れていくような、どうにもならない恐怖感だった。
 自分を襲ってくる白刃はくじんが見えて、景一郎は眼を閉じた。指さきがふるえている。叫び声が出そうになるのを、かろうじてこらえた。新しい涙が溢れ出してきた。頭の中にはなにも言葉がなくなった。自分のえつを、景一郎はただ遠いもののように聞いた。
 雑木林の中で、うずくまっていた。口の中に、おかしな味がある。血が溢れていた。唇を噛み切ってしまったようだ。
 景一郎は、何度も唾を吐いた。いきなり吐気に襲われ、二度のどを鳴らして吐いた。それからまたうずくまる。腹の中のものは吐いたが、はらわたごと吐き出してしまいたいと思った。
 じっとしていた。考えるのも、動くのも面倒だった。
「そんなところにいるのか、景一郎殿」
 雑木林の外から、声をかけられた。枝の間から、芳円の墨染が見えた。
「なにをしている。もう夕刻だ。夕餉の仕度は、景一郎殿の仕事ではないか。それに今夜は、本堂で寄合よりあいがある。愚図愚図していると、人が集まりはじめてしまうぞ」
 寄合とは、本堂で開かれる賭場のことだった。景一郎は、のろのろと雑木林からい出した。やることがなにかある。それが救いだった。なにかやっている間、忘れていられるかもしれない。
 庫裡に、芳円の姿はなかった。
 景一郎は薪を運びこみ、かまどに火を入れた。井戸へ行って水を、と思いながら、しばらくは燃えあがる火を見つめていた。

 

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