第2章 地下回廊
統合幕僚監部の担当者は思いもよらない場所を指定してきた。東京駅の八重洲地下街に直結する都営駐車場である。
逆神と井伏は「東京ラーメンストリート」の一角にある評判の名店で昼飯を済ませた。井伏はラーメンに限らず麺類オタクで、たびたび行動を共にする逆神は辟易させられている。
「『ア・フュー・グッド麺』ですからね。機会があるときには食べなきゃ」井伏は理由にもならない駄洒落を言う。「科警研の食堂は味とボリュームこそ合格点ですけど、麺類のバリエーションに欠けます」
科警研の最寄駅はつくばエクスプレスの「柏の葉キャンパス」で、妻子と流山のマンションに住む井伏は車で通勤している。独身の逆神など、東大の柏キャンパスに通っていたアパートに二十年以上も居座っている。最近は駅前に飲食店も増えたが、科警研は駅からバスに乗りたくなる距離で、普段は職員食堂の単調なメニューから選ぶしかない。
「現代社会は多様性を尊ばなければ……」
「わかった、わかった」多様性と言っても麺限定だろうに。
約束の午後一時、二人は地下街から階段通路をさらに下り、八重洲パーキング西駐車場に下りた。いつもながら満車に近い。指定された区画は外れの一角にあり、都内の至る所で見かけるボックスタイプの自動運転タクシーが駐まっていた。二人が中を覗くとドアが開いた。ダークスーツに身を包み、手入れのよい口髭を蓄えた四十絡みの人物が乗っている。「まずはお乗りください。ご挨拶は後ほど」
逆神と井伏は向かいの座席に並んで乗り込んだ。巨体の井伏と並ぶとやや窮屈だ。オートキャブに限らず、最近の自動運転車はレストランのような対向シートが主流で、手動運転が必要な場合にも手元のタブレットで行うので、外観だけでは前後の区別もつきにくい。三人を乗せた車はすぐに動き出し、地下車路から直結した首都高速道八重洲線に合流した。八重洲線から神田橋ジャンクションを経て、都心環状線内廻りに入ったところまでは判ったが、そこで液晶ブラインドが作動して車窓の景色が見えなくなった。新都市交通などで昔から使われている技術だ。
「この経路を使う時は自動的にこうなるのですよ」向かい合った男が初めて口を開いた。「お忙しいところをご足労いただき感謝します。防衛省統合幕僚監部の鷲津です」
防衛省統合幕僚監部自衛隊情報保全隊本部 情報保全官 一等空佐 鷲津吾郎
着信したe名刺を見ながら、逆神は考えた。木戸副長官のメールを読んだときから考えていたが、内局の背広組、つまり文官ではなく、この男のような諜報のプロが窓口になるのはなぜだろう。
窓ガラスが透明に戻った時、車は単車線のトンネルから、ビルの地下駐車場にすべりこむところだった。八重洲の地下からわずか十分足らずだ。上層階の会議室に案内されて初めて、そこが市谷本村町の防衛省庁舎だと知った。鷲津より一回り下の女性隊員が最敬礼で迎え、第二情報保全室所属の来嶋一等海尉と名乗った。
「ここが首都高速に直結しているとは、知りませんでした」
逆神は正直な感想を口にしたが、こんな秘密めかしたやり方で連れてこられた理由は解らなかった。まさか子どもじみた自慢でもあるまい。
「誰もが知っていては困ります。とは言え、お二人にとっての本丸・桜田門にも同じ地下通路はありますよ。お濠の向こう側にも。この十年で首都の地下は様変わりしているんです」
「警察庁ちゅうても私らは柏の田舎暮らしで、なかなか桜田門なんぞにお呼びはかからんのです」
車中で巨体を縮めていた井伏は、身体を伸ばしたついでに緊張も解けたようだ。
四人はIT装備を施した会議テーブルを囲んだ。逆神は木戸副長官からの指示で鷲津一佐にコンタクトするよう伝えられただけで、予備知識は皆無だと打ち明けた。
「副長官……」来嶋一尉が独り言のようにつぶやいた。鷲津一佐が話を切り出す。
「貴庁の木戸さんからもそう伺っております。まずは最近、防衛省や自衛隊で相次いでいる事件について説明させていただきますので、真相究明のために忌憚ないご意見をいただきたいのです。より長期的には、警察庁と私ども国防側との『連絡官』になっていただきたい。私どももそのつもりでこの場におります。つまり、われわれ全員が両組織のパイプ役になるわけです」
「ですが本庁の警察官でもない、科警研の研究員に過ぎないわれわれに、そんな大役が務まるでしょうか」前半はともかく、後半は話が大きすぎる。何か誤解してはいないか。
「もちろん『連絡官』と言っても公式のものではありません。それなら今日のような秘密めかしたご案内をする必要もない。もちろんこれが木戸さん自身の意向でもあることは、後ほどご確認なさればよいと思います」
「わかりました」
逆神と井伏は顔を見合わせ、まずは聞き役に徹することにした。携帯電話を会議テーブルに置く。これだけで音声で会議録が取れ、会議テーブルの装備と連携してプレゼンもできる。ノートPCが並ぶ会議風景はすでに過去のものだ。逆神研のメンバーが持っているのは、警察職員に支給される通称Pフォンに、VJの僕というべきジーヴスが動作できるだけのAI機能を拡張した特製品で、「木戸ミッション」の開始以来、木戸副長官や岩倉部長の分も含め、数台を追加で配布した。
「ご相談したい『不審事象』とは、防衛省や自衛隊内の失踪や自殺、事故死といった事柄です。どちらも巨大組織ですから、残念ながらこうした事案が昔からある程度は発生しています」鷲津は言いにくそうに打ち明けた。
「われわれ警察も似たようなものですよ」
「ですが、今年度に入ってからの三か月でその頻度が激増したように思われることと、二週間ほど前になりますが、際立って特異な事件が発生したもので、木戸さんを通してご相談した次第なのです」
「際立って特異とは、失踪や自殺ではないと」
「ええ、犯人は自殺しましたが、その前に起きたことは明らかに殺人です。ですが、順を追って、三つの事件を時系列に沿ってお話しすることにします」
逆神はテーブルの上面に浮かび上がった仮想キーボードでメモを取りながら、四月中旬に起きた失踪事件の説明を聞いた。防衛省情報本部に勤務する三十一歳の主任職員が、週末の金曜日を最後に姿を消した。職場は翌週半ばまで、ストレスが高じての発作的な無断欠勤かもしれないと対応を保留していたが、警察に捜索願を出したいという家族に同意した。だからこの件は警察データベースにも記録されているはずだが、結果から言えば、現在までに何ら手がかりは発見されていない。
「国家機密に携わる仕事をする者はつねに強度のストレスにさらされていますから、中には『燃え尽き』てしまう者もいるのです。ですがその男性職員は結婚を間近に控えて張り切っていましたし、そんな状況にはなかったと周囲は証言しています」
「なんで、その事件が最初の糸口だと思われはったんです? 同様の事件は、それまで長いことなかったちゅうことですかね」井伏が聞いた。
「いえ、そこは先ほど申し上げた通りです。実は、この失踪を今日お話しする三つに含めたのは、後続の事件との関連性を疑っているからなのです」
鷲津はそう前置きし、二つ目の事件の説明を始めた。その関連性を探るのは、むしろ自分たちの仕事かもしれないと逆神は思った。
「それは五月下旬に市川の高級住宅街で起きた幹部職員の転落事故です。制服組の課長クラスの職員で、警察の捜査で発見された駅の監視カメラ映像から、午後七時過ぎに総武線市川駅の改札を出たことが判明しています。その後の移動経路は不明ですが、翌朝になって、ある個人宅の庭にある水を抜いたプールの底で倒れているところを発見されたのです。本人の自宅は市川ではなくその先の津田沼にあることや、普段はさほど飲まない男なのに、血中アルコール濃度が高かったとか、不審点はいくつもありますが、今のところ千葉県警は、酔った被害者が道を間違って民家の庭に迷い込み、プールの縁から転落した事故死という見方を強めています」
鷲津の口ぶりには、県警の見方に承服できないという不満が表れている。もしかすると、この被害者と顔見知りなのかもしれない。
「VJによってその見方を覆すような新情報が得られることはあり得ます。確約はできませんが」
「期待しております」鷲津の表情が緩んだ。これで仲間の無念が晴らせると言うように。「実を言えば、われわれ国家機密に関わる仕事をしている人間は、警察捜査に全面的にご協力できない場合があるのです。ご理解いただけると思いますが」
逆神は黙って肯いた。それは彼らが、警察からも情報が漏れる危険があると考えているからだし、彼ら自身が違法行為に片足を突っ込んでいるからでもある。スパイ防止法も、自国の諜報活動を保護する法律もないこの国ではやむを得ないことだろう。
「ですが、千葉県警の知らないことも、われわれの今回の調査では明かしてもらわなければなりませんが」逆神は念を押した。
「もちろんです。今回、木戸さんの特命で別方向から光を当てられるわけですから、できる限りの情報はお出ししますよ」
鷲津一佐が二つの事件を説明している間、来嶋一尉は何か資料を整えているようだったが、顔を上げて目顔で合図すると、鷲津が説明を促した。立ち上がった彼女は意外に長身で、長い髪をお団子にまとめた小顔は、アスリートのように引き締まっている。航空機の写真や地図、グラフなどを会議テーブルの表面に表示しながら、よく通る声で説明を始めた。
「最後の、最大の事件は、航空自衛隊における航空機内での事故です。小松基地の第六航空団所属の早期警戒機(Airborne Early Warning)が、日本海の大和堆付近を飛行中の出来事でした」
「大和堆というのは、以前北朝鮮や中国漁船の違法操業が盛んだったところですよね。その監視に当たっていたのですか」
逆神の質問に、来嶋一尉が冷たい一瞥をくれた。井伏が耳打ちする。
「逆神さん、それ水産庁と海保の仕事。百歩ゆずっても海自の仕事や」
「いいんですよ。一般の方からしたら似たようなものでしょうから」彼女はわずかに表情を和らげた。どんな凄いヤツがやってくるかと身構えていたのに、相手の程度が知れて安心したのかもしれない。「簡単に言えば、警戒機は航空自衛隊の所属で、監視対象は航空機やミサイル。哨戒機は海上自衛隊で潜水艦や艦船が対象です。ただ最近は、早期警戒機も潜水艦を探知できる能力を備えています。旧韓国との間で『レーダー照射事件』が国際問題になりましたが、あの時被害を受けたのは海自のP-1哨戒機です。もう十一年も前のことですが、覚えてらっしゃいますか」
「もちろんでっせ。それにしてもAEWが小松基地に配備されてたんは知らんかった」
井伏が興味津々で身を乗り出す。この辺の話は軍事オタクの彼に任せるほうが無難だ、と逆神は判断した。
「四年前に金沢空港が開港して、小松飛行場が航空自衛隊専用になりましたから、空を守る活動にも少し余裕ができたんです。ご存じのように、北朝鮮が急転直下、西側諸国が主張する形で核兵器の永久廃棄を決め、IAEAによる査察も受け入れたことで、南北は表向きは平和的に統一されて統一朝鮮共和国が誕生しました。これで東アジアの緊張は解けたのだから、日本も米国の核の傘から脱して大胆な軍備縮小に舵を切るべきだと主張する向きもありますが、国防を預かる私たちから見れば、半島で起きている事態が、見かけ通りだとは言い切れません。過去の歴史問題の蒸し返しも、またしても振り出しに戻ってしまいましたし、日本の安全保障にしても、情勢は不透明です。その一方、朝鮮戦争の終結宣言とともに在韓米軍は撤退しましたが、表立って中ロ軍が駐留したり、ミサイル配備が進んだわけでもありません。つまり……」
「自衛隊が装備増強を主張できる大義名分がないっちゅうことですか」
井伏が口を挟んだ。言葉を遮られた彼女だが、言いにくいことを代弁してもらい、かえって安堵もしたようだ。
「おっしゃる通りです。ですが、表面的な緊張緩和とはうらはらに、わが国にとって非常に深刻な事態が地下で進行しているのではないか。朝鮮半島全体が平和な緩衝地帯になったどころか、北と対峙していたかつての韓国の立場に今や日本が立たされ、日本海の海岸線が新たな三十八度線になったのではないかという疑念が浮上したのです。当方の国防ビッグデータの解析結果も、その仮説を強く示唆しています」
「ご心配はよくわかります。私たちの研究室も犯罪という領域で似たような大規模解析を十年近くやってきましたが、犯罪件数の増加とか凶悪化というより、犯罪が何か別のものに変容しはじめているような不気味さを感じています。ですが事故そのものに話を限定しましょう。先ほど言われた航空機の事故ではなく、機内で殺人が起きたのですね」
「はい。順を追って説明させていただきます。事件が発生したのは約三週間前、六月十七日の〇二〇〇――失礼、午前二時です。現場は日本海上大和堆付近を飛行中の早期警戒機E-2D『アドバンストホークアイ』の機内。搭乗員は五名――主副のパイロットとレーダー管制業務を担当する三名の電子システム士官です。早期警戒機は『空飛ぶレーダー』とも呼ばれ、わが国の防空識別圏(Air Defense Identification Zone)に侵入した外国機やミサイルをいち早く発見し、イージス艦や地上の基地に連絡する任務を負っています。錯乱状態で事件を起こした加害者は水野曹長といい、電子システム士官の一人でした。犯行時までは特に変わった様子も見られませんでしたが、同僚によれば、バイクで転倒して左脚を骨折してから体調が優れない、とよくこぼしていたそうです」
「来嶋さん、私たちの目的は犯罪捜査ではありませんし、その能力もないので、加害者の身の上について、詳細は省いて下さって結構です」
「わかりました」来嶋一尉は、競泳の息継ぎでもするように息を吸い込んだ。「加害者は突然暴れだし、取り押さえようとした同僚の首をナイフで切りつけたのです。小松飛行場に帰還したとき被害者はすでに心肺停止状態で、搬送先の病院で死亡が確認されました」
「ナイフって、サバイバルキットに入っているタクティカルナイフですか。不時着時とかに使う護身用のやつですよね」井伏が興味津々で身を乗り出すが、この場ではやや不謹慎にも映る。
「よくご存じですのね。サバイバルキットは射出座席の下に入っていますから、曹長がナイフを携行していたこと自体、ある程度の計画性を裏付けています。続けて副パイロットも肩に重傷を負い、加害者はなおも襲いかかる構えでした。主副二名のパイロットが死傷すれば、機は墜落するしかない。そこで緊急対応として、主パイロットが上半身に向けて拳銃を二発、発射したのです」
「つまり、射殺したのですか」逆神は首を傾げた。さっきは自殺と言わなかったか。
「わかりません。水野曹長はハッチを開けて飛び降りたからです」
「軍用機の乗降口はそないに簡単に開くんですか。取り押さえることはできんかったんですか」
「通常なら十秒以上かかりますし、加害者は重傷を負っていますから、残った二人が一斉にかかればその場で確保できたでしょう。ですがハッチには前もって細工がされていて、その時間さえなかった。後部ハッチは瞬時に開いた、と主パイロットも証言しています」
「つまり精神的な錯乱とか衝動的犯行ではなく、計画的だったと?」
「しかも覚悟の自殺だったことになりますね」
「自殺? 加害者の死亡は確かなのですか」
「三百メートルの高度からパラシュートなしに飛び出したら、到底生存は望めません。おまけに銃創まで負っているのですから」
「制服の下にコンパクトなパラシュートを着けてた、なんてことはないんかな」
「井伏さん、それはスパイ映画の――中だけの話ですよ」鷲津一佐が微笑んだ。さすがにスパイ映画の見過ぎとは言いかねたのだろう。
事件の発生時刻は午前二時であり、操縦席からは海面さえ目視できない。飛び降りた水野曹長の行方などわかりようもない。
「しかし人間が、何のためらいもなくそんな行動を取れるだろうか」
逆神の質問は自問に近い。衝動的にも計画的にも見える犯行――そこに具体的な目的はあるのだろうか。
先方の説明によれば、残った三人を乗せた早期警戒機は、主パイロットの操縦で小松基地に帰還。機体は数日がかりで調査されたが、ハッチへの細工を除けば異常は発見されなかった。水野曹長の最期は確認できていない。広大な海上、しかも夜間の墜死事故とあっては、遺体は永久に発見されないだろう。
これら三件の《不審事象》には異なる手触りがあるが、早期警戒機内の事件は、犯人の行動自体が際立って異常だ。錯乱して同僚を刺殺したことよりも、むしろ自分自身の始末まで、一切を冷静に準備し、ためらいもなく実行したことの方が。VJなら異常行動の新たな型として分類したかもしれない。逆神も篠田の《態度の豹変》を連想せずにいられなかった。
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