逆神研こと情報科学第四研究室では、VJの開発主担当である西田主任が、童顔の眉間にしわを浮かべて考え込んでいる。交差点での事故の直前に、加害者の篠田一輝が叫んでいる言葉の内容を推定できないかという難題を持ちかけられたからだ。現在は映像しか記録していない交差点の3D防犯カメラシステムにマイクを設置して音声を記録すること自体は容易だが、そこには問題が二つある。単純な録音だけでは、話し声は騒音に埋もれてしまい、映像に映っている誰が発話者か判らないという技術的問題と、現在は認められていない盗聴――警察ではなぜか「秘聴」というが――捜査に当たるという法的問題だ。
「ですが逆神さん。法律問題さえクリアできれば、これはVJ改良の大ヒントかもしれませんよ」西田は声をかけた逆神を振り返り、明るい声で言った。
「何か名案が浮かんだかい」
「まだ構想段階ですが、四つの防犯カメラと軸を合わせて無指向性の集音マイクを設置し、交差点内の音声を残らず拾えば、それを利用して雑音消去っぽいことができるかもしれません」
西田が言うのは、特定の音声のみを残し、他の不要な雑音を消去または大幅に軽減する技術のことだ。
「なるほど、四チャンネルあるんだから、録音された音声には位相差というか時間差が生じるな」逆神にも西田のアイデアが少し伝わってきた。
「しかも発話者の位置は映像から特定できるのですから、これは案外手堅い手法かも」
西田は手元のe-ペーパー端末に交差点の図や数式を書き付けはじめた。逆神への説明は終わったらしい。研究者なら誰しも思案に没頭して周囲の人間が眼中になくなることがあるが、西田の場合は少々度が過ぎている。
逆神は、今それを伝えるのはちょっとアンフェアかなと思いながらも、木戸副長官が言う「現在の研究プロジェクト」に西田を残そうと決めた。VJの主開発者だし、この新規改良ができるのも彼だけだからだ。
「いまの『特異行動パターン抽出』と合わせて、そのアイデアを来春の研究会で発表できないかな」
「やるなと言われたってやりますよ。うまくいけば、交差点内の会話はすべて筒抜け、というところまで持っていけるかもしれません」
自分たちはいま、警察の新規捜査技術を開発する視点から議論している。だが、市民の側から言えば、これはプライバシーのさらなる侵害になる。誰にでも開かれた技術であるAI分野で、警察は技術的優位性を保ち続けなければならないが、民主国家の倫理は高い壁となって立ちはだかる。それがAI捜査が直面する二律背反だ。
逆神は木戸副長官からのメールを何度か読み、全員を会議スペースに集めた。逆神研のメンバーは六名。
研究室長の逆神崇
室長補佐の井伏健二
主任の西田宙
同じく主任の小森田信吾
配属三年目の物原瞳
今年配属された新人の須田マクシミリアン
新設の研究室だから少ないわけではない。科警研には五部二十四研究室があるが、研究員は百数十名しかいない。予算は年間三十億円。天下の科学警察研究所とは中小企業並のささやかな所帯なのだ。
いや、逆神研にはもう一人、「準メンバー」と言うべきジーヴスがいる。英国のユーモア作家P・G・ウッドハウスが描く天才執事の名だ。VJ自体は巨大な深層学習ネットワークだが、自然言語処理とヒューマンインタフェースを専門とする物原瞳が、隠れ仕事で3DCGの容姿と声を与え、画面上で直接対話できるキャラクターに仕立ててしまった。彼はいま、アングロサクソン風の顔立ちを会議テーブルの画面にのぞかせている。
逆神は全員の顔を見渡した。自分はこの得体のしれない任務を、AI捜査の普及と発展のために引き受ける決心をしているが、部下たちの意見も聞いておきたい。一方、困惑もあった。木戸の依頼は余りに漠然としていて、自分でも論理的に説明できる自信がない。その筋道を見つけるのがVJの役割ということらしかった。
副長官のメールには、ABCという記号を振られた案件が並んでいるだけだった。
A 日本海側各県における無戸籍児童増加の背景調査
二〇二四年から二七年にかけて、石川県を中心とした日本海側の各県で、戸籍に登録がなく保護者もいない「ストリートチルドレン」が急増しているという報告がある。金沢中警察署生活安全課の任田巡査部長が、関連する少年たちの個人特定と目撃証言の収集管理に当たられている。失踪届は出ていないので、事件としての捜査はされていないが、その原因を解明し、背後に何らかの組織が関与しているのかを網羅的に調査されたい。当該児童らの保護や補導が目的ではないので、彼らの行動に影響しないよう、細心の注意を払うこと。
B 防衛省管内における連続不審事象の真相解明
二〇一〇年代から始まり、この数年で十数件発生している防衛省幹部職員の事故死、省内ネットへの侵入および改竄、航空自衛隊の戦闘機部隊での航空機事故などに相互関連がないか調査されたい。機密を要する事案の性質上、その内いくつかは正式な事件捜査としてではなく、警視庁の外事三課が二三、四年度にかけて監視した経緯がある。本案件については防衛省情報保全隊の鷲津一佐と協力して、できれば犯人特定に至ることが望ましい。
C 東北各県における「卒業アルバム」損壊多発事件の背景調査
二〇一〇年代初頭、東北各県の公共図書館を中心に、中高の卒業アルバムからページが破り取られ、持ち去られる事案が短期間に百件以上発生した。地元警察へ通報されたが、表面上は単なる器物損壊事件として処理され、踏み込んだ捜査はなされなかったという。唯一、いわゆる「背乗り」との関連を疑い、精力的に資料収集に努められた、山形県警酒田署文書課の穂積巡査部長と連携し、この事件の背景を調査されたい。
以上三つの案件を単独で調査すると同時に、もし相互に関連が疑われる場合には、即時報告すること。また、警察捜査とは密接に協力するものの、犯人の逮捕――すなわち責任追及ではなく真相究明こそ第一義と考えてほしい。
全員が読み終えた後、会議テーブルの上空にはポカンとした沈黙が居座っていた。
「何のことやら、さっぱりでんな」井伏室長補佐が口火を切った。
「よくわかりません」
「この三つに関連があるかを調べろと言いますけど、そもそも木戸副長官はどうして関連があるかもしれないと疑っているんですか」
「なぜ警視庁の捜査員ではなく、私たちが動員されるんでしょうか」
などなど、まあ想定内の反応だ。一通り聞いた後で締めくくった。
「私も君らと同感だ」
「もう一度、木戸副長官に目的を確認はできんのですか」
「なぜこれらが重要か、どういう関連を疑っているのか、副長官がすぐに教えてくれることはなさそうだ。多分、ご自身でも筋道だった説明ができないのだろう。だから、われわれがまず動いてみるしかない」
「VJが活用できる事案なんですかね」開発リーダーである西田が、童顔なりに真剣な顔付きで言う。
「そうでなければ、この研究室に声がかかることはないはずだ。さきほど話してよくわかったが、副長官がわれわれの守備範囲やVJの本質を誤解している節はまったくない。逆に、よくこれだけ理解したものだと感心したほどだ。要するにご自身も、この三つの案件がより大きな何かに関連していると漠然と疑っておられるが、確かめる術がないし、何らかの理由で表沙汰にもできない。そこでデータからの帰納的な推論で客観的な根拠に結びつけられるかどうか、うちの資源で検証したいということだろう」
「より大きな何かって、何ですか?」新人の須田マクシミリアンが口を挟む。
「わからない。副長官がそれについて何も示唆しなかったのは、われわれに予断を与えたくないからだ。だからわれわれの調査によって、副長官の懸念が裏付けられても、杞憂に終わるにしても、意義はあったということだ」
「じゃ、やれる範囲でやればいいということですか」
「その通り。それとも君ら、よくわからないことをするのは嫌か?」
逆神は奥の手を出した。研究室長になってからの数年で、部下たちの習性は熟知している。答は全員の顔に書いてあった――わからないから面白い。
「じゃあ決まりだ。期間は今年度末までの九か月。表向きは従来の研究テーマを継続中ということだから、全員がかかりきりにはなれないが。それから任務の終了条件、または例外事象がある。つまり、君らの身に危険が及ぶと判断した時は、捜査権を持つ警視庁なり、木戸副長官直属の《実働部隊》に引き継ぐということだ」
「ほな、細かい話に進みましょか。三つの案件は手分けして調べるんでしょ。分担はどうします?」
「B案件は防衛省や航空自衛隊が絡むし、副長官や部長に連絡や根回しをお願いすることも多いだろうから、最初のコンタクトは私と井伏が取ろう。ストリートチルドレンの背景を調査するA案件は、物原と須田に担当してもらう」
「わかりました」「了解」二人が声を合わせる。
「須田マックス、瞳ちゃんをしっかり守れよ。背後には児童誘拐犯がおるかもしれんからな」井伏が軽口を叩く。
「井伏室長補佐。僕を『須田マックス』って呼ばないでくださいって言ってますよね」
「なんでや。『須田マクシミリアン』じゃ長すぎるし、こっちの方が便利やで」
「仇名が嫌なんじゃなくて、子どもの時から大きい、大きいって言われ続けてウンザリしてるんです」
「そりゃ失礼。じゃあ、ぐっと可愛く『スダッチ』にしよ」
「僕は柑橘類ですかっ」
帝政ロシア時代のロカタンスキー伯爵家を祖先に持つ須田には、白系ロシア人の血が四分の一混じっているが、漆黒の髪に蒼い目、一メートル九十センチを超える巨体は、どこから見てもスラブ系白人だ。この春に配属された彼を連れて各研に挨拶回りした逆神は、「うちの大型新人をよろしく」と冗談半分に紹介したものだ。
「C案件の卒業名簿は、まだ事件未満のあやふやな話に過ぎないし、昔の話でもあるから、小森田が酒田署にコンタクトして情報収集に当たってくれ。一見すると悪戯とも思えるこの案件に副長官が興味を持った理由も、その中で解ってくるだろう」
「わかりました」
小森田はいわゆる「陰キャ」ではないが、仕事に必要なこと以外は話さず、他のメンバーとの雑談にもめったに乗ってこない。情科四研で異色の存在で、口の悪い井伏に言わせれば「浮いている」が、本人は気にもかけない。むしろ変人揃いで学生気分が抜けない逆神研の中で、自分こそまともな警察職員だと自負しているようだ。
小森田のキャリアは警視庁警備部から始まった。学生時代はスポーツ射撃の選手としてならした小森田は警備部警備課、いわゆるSPを希望したが、人事部は身体能力より知的能力に注目したらしく、蓋を開けると警備計画の立案を行う警備第一課に配属されていた。
二〇二一年の東京五輪では、未遂に終わったものの自動運転車を使ったテロが発生し、警察は警備体制の整備に躍起になっていた。テロを未然に防止する警備計画を立てることは、近年ますます困難になりつつある。学生運動が華やかなりし時代なら、どのセクトに機動隊を何人、どの道路に何人、といったどんぶり勘定でも足りたが、起こりうる事態の種類と潜在的危険が飛躍的に増加した現代の警備計画は、高度なシミュレーションと化した。軍の戦略立案と同様、敵と味方に関するあらゆる情報を収集・入力しなければならない。しかもテロの場合「敵」が事前にわかっていることはまずなく、不確定要素が増えるほどシミュレーションは指数関数的に困難になるのだ。
警察庁の警備局国際テロリズム対策課、通称「国テロ」に出向した経験もあり、海外の現場での捜査は警備計画を策定する上で大いに役立った。入庁後十年余りの間に、新世代の警備計画策定に関わる第一人者と目されるまでになったのだ。その過程で、深層学習や量子アニーリング技術に触れ、逆神や井伏と面識を得た。
そして彼のキャリアに、集大成と言うべき晴れ舞台が訪れた。二〇二五年の大阪万博だ。警備計画策定の任務を負ったまま逆神研に配属されたのはその前年、つまり五年前のことだ。捜査員から研究者という異例の転属は、大規模警備計画がいまやAIと切っても切れない関係にあることを悟った上層部の意向を汲んだ措置で、まずは英断だろう。
万博開催までの一年間、小森田は逆神の元で深層学習を駆使し、数万人もの警察官を動員する大規模な警備計画を立案した。施設付近の道路状況や人員配置。刻々と変化するイベント進行や観客の移動。それらあらゆる空間的、時間的要素を考慮した警備計画は、もはや人間の能力を超えた難題であり、AIとの共同作業でなければ策定できなかった。
警察上層部にもあらゆる機会にそのことを吹き込んだ。逆神の言葉を借りれば「宣教師」である。だが、警察庁警備局長が計画立案の経緯を冗談半分に口にしたせいで、現場を守る警察官の中には、AIにこき使われるのか、という不満を抱く者も現れた。古き良き時代、つまり人海戦術とどんぶり勘定の時代に育った警備局長の「機械なんぞに自分たち警備のベテランが超えられるものか」という自負と反感が生んだ失言だった。警察に限らず現代の複雑化した業務は、あらゆる方面で人間の能力を超え、AIとの協業をどう設計するかが仕事の成否を握って久しく、ベテランには「教師」としての役割が期待されているのに、それがたたき上げのプロである自分たちの否定に繋がると感じる者もまだ多いのだ。
そして結果的に、大阪万博でのテロは現実となった。しかも前世紀末に起きたカルト教団による「地下鉄サリン事件」を超える、わが国最悪のテロ事件になってしまったのだ。警備計画の策定チームも内外からの強い批判にさらされた。無理解なマスコミや警察幹部による旧態依然のAIバッシングに反論はできたが、小森田も上司の逆神もしなかった。失敗の原因を分析し、次の計画立案に活かす方を優先したのだ。原因究明と責任追及を分けろ――とは、逆神が東大時代の恩師から叩き込まれた金科玉条だが、逆に言えばそれができないことが日本社会の宿痾なのだ。
一時間足らずのミーティングが終わってメンバーは自席に散ったが、西田一人が逆神のブースの入口に立ちふさがっている。腰に手を当てて抗議の意思を示しているらしいが、戦隊ヒーローを演じる子どものように見える。
「室長、僕をハメましたね」
「人聞きが悪いな。いつ私が君をハメた」
「だってそうでしょ」西田は逆神が椅子から立ち上がれないほど近くに詰め寄った。「どうして僕だけ『ジェダイの騎士』から外されるんです?」
「何だい、それは」
「だって『ヨーダ』が召喚したんでしょう。どうしてそんな面白い……いや、重要な仕事から、僕だけ外されるんですか」
会議テーブルに残ってタブレットをいじっていた井伏が吹き出した。
「自分だけVJのお守りか、ちゅうんやろ」
「確かに『木戸ミッション』を伝える前に、君の役割に枠をはめたのは悪かった。だがあわてるな。各班が集めたデータはどのみちVJで解析するんだし、その時には全案件の内容にタッチしてもらわなければならない。システムの大刷新も君しかできないだろう」
「大刷新!」丸メガネの奥で西田の目が輝く。「そんな計画があるんですか?」
「これから立てるのさ。副長官は最新のAI技術やVJの機能について深く理解しておられるが、性能についてはだいぶ買いかぶっておられる。全国二十万交差点からの映像を処理するだけでも限界に近いのに、新たに三つのテーマを同時進行できると思うか」
「全然無理です」考えるだに恐ろしいとでも言うように、西田はせわしく頭を振る。「そうか、室長はバックエンドに量子コンピュータをつなごうと画策してるんですね」
「ホンマでっか!」
「画策とは言い得て妙だな。金額が金額だけにそう簡単ではないが、副長官の『秘密ポケット』をあてにすること自体は岩倉部長も大乗り気だから、せいぜい必要性を強調すれば話は通るかもしれない」
二〇一二年にAIの画期的なブレイクスルーとして世界に認知された深層学習技術も、テキストから画像、さらに映像に対象が拡張するにつれ、汎用コンピュータでは性能が追いつかなくなった。そこで十五年ほど前に「汎用コンピュータ一億台分の性能」という華々しい触れ込みで登場した量子コンピュータ――正しくは量子アニーリングマシンを深層学習のバックエンドに使う発想が生まれた。だが科警研にはまだ実機がなく、逆神の古巣である近所の東大柏キャンパスのマシンを光回線経由で使わせてもらう程度だった。
深層学習と量子アニーリングは、実のところさほど相性がよくない。深層学習は、確率的勾配降下法によって数十エポック、つまり数千回もの反復処理で少しずつ進めるが、深層学習をかじった者の中にも、量子アニーリングを使えば反復処理が不要で、最終的な学習結果が瞬時に決まるかのような誤解がはびこっている。それが本当なら深層学習の研究者は誰も苦労しないし、とっくの昔にシンギュラリティも起こっていただろう。それでも量子コンピュータは大きな希望だ。この十五年近く、井伏を始めとする研究者たちによって、量子アニーリング――イジングモデルと量子トンネル効果を利用した組合わせ最適化問題の求解を深層学習の加速に使う研究が積み重ねられ、一定の成果を挙げた。逆神たちはそれを足掛かりに、ビッグデータを利用した犯罪捜査手法の革新に挑もうとしているのだ。
とは言え、量子コンピュータは高価なオモチャだ。十年間で半額になったとは言え八億円はする。情科四研の予算はおろか、年間三十億円に満たない科警研の予算で買えるはずもない。だが、岩倉部長の皮算用が事実で、副長官の疑念が本当に国家の命運に関わることなら、そう高い買い物でもないだろう。もちろんその分、手堅い成果を挙げてみせなければならないが。多少強引な手を使ってでも、他国の後塵を拝しているAI技術の関与を強めないかぎり、日本の治安維持体制は遠からず崩壊する。それが逆神の抱く危機感であり、警察庁に留まるもうひとつの理由だった。
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