「概略はわかった」木戸は、突き立てた人差し指でこめかみをマッサージしていたが、やおら話頭を転じた。「VJは、防犯カメラの映像を事前に解析し、捜査の対象候補となる不審者を絞り込むための支援システムと考えていいか」
「いいえ。このデモでは映像だけですが、それ以外にも、過去の捜査資料などの文書、傍受した音声、GPSの位置情報、ネットワーク上のデータや金銭の動きなど、およそ数値化されたデータなら何でも横断的に扱えます。人間の情報処理も同じですが、ひとたびニューラルネットワークに投影されてしまえば、元データの種類は大した意味を持ちません。そうした横断領域で発見された特異パターンは、言葉によるラベル付けがしにくいのですが、実はそれこそが犯罪の予知に役立つと考えています」
岩倉は技術的な議論の筋道を追うのに手一杯で、木戸と逆神の間をテニスの観客さながらに往復している。木戸はようやく、本題を切り出した。
「犯罪が発生する前に予知する、VJの能力を、ある対象で実証してもらいたいのだ」
「さきほど副長官は、『あの時にはまだ一般論と考えていた』という意味のことをおっしゃいました。では現在では、より具体的な状況が存在するのでしょうか」
「まだ霧の向こうに、おぼろげな姿を垣間見ている程度だ」木戸は率直に打ち明けた。「私の杞憂であってほしいと願っているが、最近ますますその兆候を目にすることが増えた。それをVJによって、客観的に分析してもらいたい。警察だけでなく、この国の安全保障の根幹に関わることだ」
木戸の説明は一定の抽象レベルを保ったまま、蝶のように空中を舞った。それでいてある方向に向かっており、逆神はその後をついて歩く。一つだけ、木戸の依頼を受けても現在のプロジェクトは中止されるわけではないと知って安心した。
「二つ質問する。まず、VJで特異パターンとやらを捜す範囲を限定できるだろうか」
「限定とは、どのような?」
「つまり、場所や期間など時空間上の制限、あるいは人物の属性についての制限などだ」
「それは可能です。あいまいな言葉による線引きでなければ」
「次に、一見無関係な複数の事象の隠れた関連性を捜し出せるだろうか。事件性のあるなしに拘わらずだ」
「経験はありませんが、できると思います。それぞれの事象を起点にVJで探索し、領域の共通部分を取ればいいわけですから。ですが、今おっしゃった二つの要求は同時に満たせません」
「なぜだ?」
「隠れたインターセクションは、どの時空間のどの領域で見つかるか予測不可能だからです」
「なるほど、道理だな。そうしたディレンマを避けられるよう、依頼内容を検討しよう」
わずかながら話が具体化した。まだ氷山の一角だろうが。木戸は初めて岩倉に向き直る。
「そのために、情報科学第四研究室を当分借りたい。いや、猫じゃないんだから『借りたい』は失礼か。当分、私の手に委ねてもらいたい」
「研究室ごと、副長官直属にするのですか」
岩倉部長は逆神研の研究や依頼の内容より、組織改編や自分の立ち位置が気になるらしい。いかに重鎮とはいえ、この人についていっても大丈夫かと計算もしているだろう。
「いや、組織図をいじったり、正式な通達が必要なことは一切やりたくない。前の組織が失敗したとき、警察内部で機密を守る困難さを痛感したからな。期間は取りあえず今年度一杯。岩倉君にはその間、逆神研が現在の研究を続けているようにカモフラージュしてもらいたいのだ」
機密という木戸の言葉に、岩倉は逆神の顔を一瞥した。逆神は年度の残りを数えた。長くても九か月の「ご奉公」だ。
「その期間内に、副長官が依頼されるいくつかの案件についてVJで調査研究を行い、直接ご報告すればよろしいのですね」逆神は訊ねた。
「そうだ。だが『調査』の枠内に収まるかどうかは、現時点で何とも言えない。複数の捜査機関との共同作業になるだろうから」
メガネのつるを触っていた岩倉部長の指がピクリと動いた。
「お言葉ですが副長官、国家公務員である以上、たとえ違法な職務命令でも従う義務があり、覚悟もあるはずです。ですが彼らは広義の警察官ではあっても、捜査経験のない単なる研究員です。くれぐれも彼らの権限を越えさせないよう、僭越ながら申し添えます」
何を覚悟しろというのかは知らないが、岩倉の保身センサーもたまには役に立つ。
「もちろん、そうした事態になれば私が立ち上げた《実働部隊》を動かすから、過度な心配は要らない。今後すべての連絡は直接私にすること。岩倉君にも暗号化された同報が届くようにしてほしい。最初の依頼というより、探索の糸口は送信しておいたから、部署に帰ってメンバーと共有してほしい。あいまいな依頼だと感じるだろうが、いま私が与えられる情報は限られている。むしろその広い空白をVJによる探索で埋めていくことが君たちの任務だと考えてくれ」
「判りました」
疑問点は多々あるが、肝心のミッションがわからないうちは、質問しても仕方がないだろう。逆神は一礼して部屋を辞した。廊下に出た逆神に、心配顔の岩倉部長が追いついてくる。
「木戸副長官は君らの機密保持能力を信頼して、ああおっしゃったんだから、くれぐれもしっかり頼むよ」
「ご忠告痛み入ります」信頼してないのは自分の方だろう。まあお互い様だが。いい機会だから確かめておこう。「ところで、ミッションの遂行に必要な予算は、直接副長官に請求すればよろしいのですか」
「そりゃそうだろうよ。組織も変えず、訓示や通告も残せないとおっしゃるんだから、うちの部で予算化できるはずがない。一説によると木戸副長官は、十億円単位の極秘予算を左右できるそうだから、せいぜいおねだりしてやればいい」
現金なものだ。さっきまではライオンに肩を抱かれた羊みたいだったが、ようやく本領を取り戻したな――逆神は苦笑した。
「もう一つお訊きします。私が――というより情科四研のメンバーも含めて、この仕事を引き受ける気があるのか、確認しなくていいのですか」
「そんなことは、副長官に直接言えばいいだろう」
「副長官は私の上司ではありませんから」
それどころか、科警研と警察庁長官を結ぶラインのどこにいるのかさえわからない。
「ベテランの君に、こんな当たり前のことを説明しなきゃならんとはなあ」岩倉は大げさにため息を吐いた。「副長官がどう言われたにせよ、私と君との間ではこれは業務命令だ。君らの意思確認など必要ない」
「それは十分に承知しておりますが――」逆神は組織の論理を得意気に振りかざす上司に一矢報いたくなった。これだからうまく折り合えないのだとは自覚している。「もしこれが部下たちの生命に危険が及ぶような任務なら、私にはそれを回避する義務と責任があります。部長が守ってくれるわけでもなさそうですし」
「不遜な質問をぶつけられるばかりじゃ不公平だから、私からも一つ、つねづね不思議に思っていたことを訊いていいか?」
「どうぞ」
「そもそも君はなんで警察に就職したんだ。それこそGAFAにでも行った方がよかったんじゃないのか。のびのび研究できるだろうし、予算だって潤沢だ。生命の危険とやらもないだろうしな」まるで、今からでも遅くないぞ、と言わんばかりだ。
「確かに深層学習の研究者というスキルにはマッチします。給料だってここの五倍は堅い。ですが、ここにはGAFAでは得られない貴重なものがあるのです」
「貴重なもの?」
「ビッグデータです。ネット上のおしゃべりとか、スマートスピーカーとの雑談とか、ネットショップでの購買履歴といった、ノイズまみれのゆるいデータじゃなく、大勢の警察官が百年以上に亘って足で調べた捜査資料や、津々浦々の観測点で収集され、顔画像解析でスレッド化された防犯カメラ映像といった、ライバルたちには触れることさえできない手堅いビッグデータですよ。すべてマイナンバーと紐付けされていることも警察では公然の秘密です。私は大げさでなく、VJがこの貴重なビッグデータから発見するであろう治安上、安全保障上の成果に、研究者人生を賭けているんです。誰がその特権的な地位を他人に譲るものですか」
逆神は目の前の上司と、ここにいない木戸副長官に啖呵を切った。
『SIP 超知能警察』は全4回で連日公開予定