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「大地さん、遅くないですか」
 成り行きではじまった飲み会に解散ムードが漂いはじめた頃、佐藤さんがそう言いだした。時刻は九時を回っている。辺りには飲食店やスーパーはおろか、コンビニすらない。
「用事があるって言ってたんでしょ? なら、そっとしておいたら」
「大人だし、大丈夫やろ」
 彩子さんと亮さんは冷静だった。私もそう思う。田舎とはいえ、三十五歳の男性が夜九時を過ぎて宿舎に戻らないからといって、いちいち心配する必要はない。中高生じゃあるまいし。それでも佐藤さんは落ち着かない様子でスマートフォンをいじっていたが、やがて意を決したようにソファから立った。
「ちょっと電話してみる」
 ロビーを去っていく佐藤さんを止める人はいない。でも、そこまでしなくても、という雰囲気は間違いなくあった。どこか白けた空気が漂う。
「先、片付けちゃう?」
 彩子さんの提案で全員が動き出した。空き缶やおつまみの小袋を集めながら、佐藤さんを待つ。十分ほど待って、やっと戻ってきた。
「どうだった?」
「つながらない。電源切ってるっぽい」
 スマートフォンを片手に、佐藤さんは泣きそうな顔をしている。大げさな。盗難騒ぎの乾さんといい、今夜は皆どこかおかしい。私の知らないところで、いつもと違う歯車が回っているような気がする。
「ねえ、おかしくない? なんでわざわざ携帯の電源切るの。不自然だよね。何か変なことに巻き込まれたりしたんじゃない」
「こんな田舎で? 巻き込まれる前に人がおらん」
 亮さんはあくまで落ち着いている。佐藤さんは一分おきに電話をかけているが、つながらないらしく、じれったそうに足踏みをしている。他人が焦る様子を見ていると、こちらまで緊張してくる。
 一人を置いて解散するわけにもいかず、私たちは五人でその場に残っていた。
「サトマリさ、夕方一緒にいたんだよね。その時何か言ってなかったの。どこ行くとか」
 彩子さんが尋ねると、シュウさんがかすかに目を見開いた。二人が一緒に出掛けたことを知らなかったらしい。たぶん、知らなかったのはこの人だけだ。佐藤さんは真剣な面持ちで考えていたが、黙って首を振った。
「わかんない。教えてくれなかった」
「どこで別れたの」
「街の居酒屋の前」
 佐藤さんの目が少し泳いだ。「酒酔い運転したのか。自転車も軽車両だぞ」とシュウさんが場違いなことを責める。
「お茶しか飲んでないです。大地さんはビール飲んでたけど」
「じゃあ、二人は居酒屋で飲んだだけってこと?」
「……そうです。お店の前で別れて、コンビニで亮さんに頼まれてた煙草買って、帰ってきました」
 わずかに間が空いた。怪しい。そう感じたのは私だけではなかったと思う。
 ここから街までは、自転車で一時間あれば着く。佐藤さんは三時半に宿舎を出て、七時半に帰ってきた。移動時間を差し引けば、街にいたのは四時半から六時半。居酒屋が開くには少し早い時間帯だ。
「一人になりたいんかのう」
 ぼんやりした口調で、亮さんが言う。
「部屋に戻って、待ってようや。もうその辺まで帰ってきてるかもしれん」
 言いながら、亮さん自身がいち早くロビーを出ようとした。急速に解散に流れ出した空気をぶち壊したのは、「大地さんが」というシュウさんの声だった。
「事故に遭った可能性はありませんか」
 亮さんの足が止まり、けだるそうに振り向く。
「酒酔い運転で森のなかに迷い込んだのかもしれない。ここの夜道は特に暗いですから。だとしたら、助けが呼べない状況かも」
「一応、街までの道は舗装されとる」
「道は舗装されていても、森や谷に挟まれている箇所があります。踏み外せば危険です」
 反論はない。真面目なシュウさんらしい意見だ。
「やっぱり捜してくる」
 耐えかねたように、佐藤さんが玄関へ歩きだす。
「でも、夜道を捜しに行くのも危険じゃないですか」
 私は初めて意見を口にした。そろそろ議論に入っておかないと、使えない人間だと思われてしまう。目立たず、かつ陰口や非難を浴びないように。それが私の行動指針だ。すかさず亮さんが「ほやのぉ」と同意する。
「やめといたら。サトマリまで事故ったら、どうする」
「待ってられない!」
 振り向いた佐藤さんの叫び声が、ロビーに響き渡る。
「事故だったらどうするの。危ない状況だったらどうするの。後悔しても遅いよ」
 佐藤さんの声音が切実さを増していた。相当に思い詰めている。いったい何が、そこまで彼女を不安にさせるのだろう。大地さんとの間に何かあったのか。
「一緒に行くよ」
 誰にともなく、シュウさんが名乗りを上げた。
「たしかに、事故に遭っているとしたら早く見つけないとまずいかもしれない。気温も下がっていくし」
 日中の気温は三十度近くまで上がるが、夜には二十度を切る。最低気温が十五度くらいになる日もざらだった。体感だとかなり冷える。
 シュウさんは男部屋でブルゾンを羽織って戻ってきた。本当に出発するつもりらしい。彩子さんは困惑した表情で見守り、亮さんも黙っている。佐藤さんは「じゃあ、行ってくる」と言い、玄関のほうへ消えた。シュウさんもそれに続く。ロビーの空気が不穏な方向へ変わっていくのを感じる。
「気を付けてください」
 とっさに言葉が出た。これから先、何かが決定的に変わってしまう予感があった。振り向いたのはシュウさんだけだった。
「深追いはしないから。すぐ戻る」
 裏口の扉の閉まる音がした。二人がいなくなった後も私たち三人はロビーに残った。離れ離れになるのが怖い。私の知らない場所で、何かが進んでいく。
「……無事だといいね」
 彩子さんのつぶやきが、冷たくなりはじめた夜の空気に溶けた。


工藤秀吾
 夜の恐ろしさを、僕は初めて知った。
 ライトが壊れていない自転車を選んで、街の方向へ出発した。照明さえつけていればある程度は視界が利くだろうと思っていた。しかし走りはじめてすぐ、その考えが甘かったことに気付かされる。曇天に隠れて、月も星も見えない。弱々しいライトの光が当たっている箇所はかろうじて見えるが、それ以外の空間はほとんど夜目が利かない。都会の比にならないくらい、闇が濃い。
 遮られた視界は恐怖心を刺激する。耳を澄ますと、鳥の声が聞こえた。
 どこまでが舗装路なのか。あと少し左に寄れば、道を外れるかもしれない。自然、ペダルを漕ぐのは遅くなる。大地さんが宿舎に帰っている最中だとすれば、この夜道は相当に危ない。道を踏み外す危険だけじゃない。道に迷う恐れや、野生動物との遭遇もあるかもしれない。
 後ろからついてくるのはサトマリだ。チェーンのきしむ音や、たまに発せられる「大地さん」という声でかろうじてその存在が察知できる。僕も名前を呼び、左右を注意深く見渡しながら進む。港から少し離れると、右手に防風林が現れる。車や通行人はおろか、人の気配そのものがない。林の向こうからは潮騒しおさいが聞こえる。
「大地さん。いるなら返事して」
 サトマリの叫び声は、北海道の空に拡散して消える。まだ事故に遭ったと決まったわけではないのに、まるで何事かを確信しているような真剣さだった。
「サトマリ」
「はい」
 互いの姿がほとんど見えないせいか、呼びかける声も大きくなる。
「何か知ってるなら、教えてほしい」
「……別に知りません」
 低いトーンで返ってくる。知らないならすぐにそう言えばいいのに、妙な間が空いた。居酒屋で飲んだだけか、と問われた時もそうだった。
「思い出したらいつでも言って」
「はい。思い出したら」
 話すものか、という頑なな意志を感じる。今夜のサトマリは明らかにおかしい。
 僕たちは前後に並んで、のろのろと走った。宿舎を出た時には胸のうちを占めていた使命感も、三十分ほど経つと萎えはじめていた。きっと、こんなことをしても無意味だ。今頃、大地さんは街の居酒屋で飲んでいるのかもしれない。あるいはまさに、こちらへ向かっている最中かもしれない。次の瞬間には、ライトのなかに長髪とピアスが浮かび上がりそうな気がしてくる。
 風が強くなる。潮騒が大きくなる。防風林が切れて、海岸沿いに出た。右手に浜辺、左手に切り立つ崖。昨日の昼間に四人で訪れた場所だ。明るい時間帯には、丘の上からはるか先まで海が見渡せた。視界を横切る水平線に息を呑んだ。
 だが暗闇のなかでは海面すら見えない。雲に隠れているのか、月明かりも落ちてこない。
「大地さん。いないんですか」
 背後からはサトマリの懸命な叫び声が聞こえる。
 止まりそうな速度でペダルを漕ぎながら、ライトを頼りに人影を探す。ここまで誰ともすれ違っていない。耳を澄ましても、聞こえるのは波と風の音だけだ。足にだるさを感じて、いったん静止した。
「やっぱり、そろそろ……」
 振り向くと、サトマリは少し後ろで停まっていた。僕のことなど眼中にないようで、車道と浜辺の間につくられた石垣に視線を注いでいる。「ちょっと」と言うと、神妙な顔をこちらに向けた。
「これ、なに」
 彼女の自転車にもライトがついている。照らしだされた白い石垣に、墨を散らしたような黒い飛沫が点々と残っていた。近づいてよく見れば、赤みが混じっている。サトマリはこれが何であるか察しているようだった。
 血痕だ。
 自転車のハンドルを操作して、ライトを左に動かした。血の跡は石垣の上に点々と続いている。まばらだった血痕の数が次第に増えていく。闇のなかにあるものはまだ見えない。血しぶきの数だけが増殖していく。
 光は少しずつ、その源に近づいている。
 血だまりが現れた。ひっ、とサトマリが息を呑む。潮の香りだと思っていたのは、血の匂いだったのかもしれない。石垣の隙間から垂れ落ち、赤黒い雨垂れのような跡が刻まれている。その周辺は、ほとんど血で染まっていた。巨大な筆で滴を落としたように、一面に血が飛び散っている。
「どういうこと……」
 サトマリはその場にへたりこんだ。ハンドルを手放したせいで、がしゃん、と彼女の自転車が倒れた。
 スタンドを立てて自転車を停める。ヘッドライトを切り、スマートフォンのライトで行く手を照らしながら血の跡を追う。腰までの高さしかない石垣を乗り越え、浜辺へ降り立つ。血痕の主が、そこに横たわっていた。
 後ろでまとめた長髪。耳にはピアス。顔を傾け、右半身を下にして横たわるのは、大地さんだった。後頭部から流れ出した血液が浜辺に飛び、辺りは一面赤黒く染まっている。瞼を閉じた顔は、自らの血と砂で汚れていた。半開きになった口から唾液が一筋流れている。
 すぐに、サトマリもスマートフォンで周囲を照らしながら後を追ってきた。僕の後ろからのぞきこむように、横たわる大地さんを視認する。一瞬遅れて、いやっ、という絶叫が耳をつんざく。獣のような声で叫んだサトマリは、小刻みに震える手で僕の腕をつかんだ。
「……死んでるの?」
 自分では、落ち着いているつもりだった。しかし耳元でサトマリのつぶやきを聞いた時、神経がやすりでこすられるような緊張を覚えた。
 ライトを頼りに、大地さんの顔の辺りにしゃがみこむ。半開きになった口の前に手をかざす。呼吸が感じられない。砂の上に投げだされた右腕を取り、手首の動脈を人差し指と中指で軽く押す。脈もない。最後に、血まみれの顔をこちらに向ける。闇のなかから息を呑む声が聞こえた。瞼をこじ開けて光をあてるが、瞳孔は収縮しない。
「死んでる」
 怪我じゃない。ここにあるのは、紛れもない遺体だ。目の前で人が死んでいる。 喉が渇く。口のなかがねばつく。
「なんで! なんで死んでるの!」
 サトマリは錯乱したように、同じことを繰り返し叫んでいる。その姿を見て、自分がしっかりしなければいけないと思い直す。
「救急車呼ぼう。あと警察」
 スマホを操作して通話のキーパッドを表示する。1、1とタップしたところでサトマリが両手首をつかんだ。手元からスマホが滑って、砂の上に落ちた。拾い上げようとしたが彼女は手を離さない。
「待って!」
「なんで」
「警察はだめ。通報しないで」
「はあ?」
 意味が理解できない。ぼんやり照らされたサトマリの表情は、真剣だった。懇願していると言ってもいい。
「警察だけはやめて。お願いだから!」
 冗談を聞いている場合じゃない。振りほどこうとするが、サトマリは僕の手首をがっちりとつかんでいる。身動きが取れない。
「いい加減にしろ! 人が死んでるんだぞ!」
 力ずくで引き離そうとした途端、ぱっと手が離れた。急に両手が自由になる。次の瞬間、サトマリが足元で光を放っていた僕のスマホを拾い上げた。懐に突っ込み、踵を返して石垣を飛び越えると、車道に降りた。少し遅れて、スマホを奪われたのだと気付いた。
「おい。何してるんだ」
 声をかけるが彼女は振り返らない。倒れていた自転車を起こしてまたがり、急いでペダルを漕ぎだした。ヘッドライトが見る間に遠ざかっていく。
「待て。ちょっと。おい!」
 叫び声は海風にかき消される。僕は暗闇に一人、取り残された。急激に恐怖が襲ってくる。何も見えない。海も崖も石垣も、大地さんの血痕も、自分の手も。視界は真っ暗闇だ。
 手探りで石垣を探す。勢いよく、膝に固いものが当たった。鈍痛にうめき声が漏れるが、そんなことには構っていられない。手触りで高さの見当をつけ、石垣に足を乗せて身体を引き上げる。恐る恐る車道に降り、記憶を頼りに自転車を探す。停めた時、ヘッドライトを消したことを悔やんだ。
 暗闇にいたのはほんの数分だった。だが、その数分が数倍、数十倍に感じられた。
 指先がハンドルに触れた時、心の底からほっとした。ハンドルを握り、サドルにまたがり、照明を点灯する。車道がぼんやりと照らし出される。ようやく視界に光が戻ってきた。温かい安堵が胸に広がる。
 次に湧き起こった感情は、サトマリへの怒りだった。
 警察への通報を妨害し、挙句スマホを奪って逃げ去った。大地さんの捜索に付き合ってやったというのに、いざ見つかれば何の処置もせず、邪魔だけして去ってしまった。いったいどういうつもりなのか。
 とにかく、宿舎へ戻ろう。スマホが手元になければ通報もできない。
 去りかけて、砂浜のほうを振り返った。黒い闇しか見えないが、そこには大地さんの遺体が横たわっているはずだった。
 血まみれの顔が脳裏に蘇り、呼吸が浅くなる。
 どうしてこうなった。数時間前まで普通に生きていたのに。いつもと変わらず仕事をして、くだらない雑談を交わしていたのに。
 重いペダルを漕ぎだした。宿舎に戻ったら、色々とやることがある。まずは警察への通報。そしてサトマリに事情を問いただす。彼女はきっと、何かを知っている。
 潮騒が耳につく。絶え間ない波の音は、まるで僕を責めたてているようだった。

 

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