一 前日 午前九時五十二分
工藤秀吾
室内には血と潮の匂いが充満している。
僕たちは揃って、ウェーダーという胴付きのゴム長靴を履いている。白いウェーダーを血で赤く染めながら、黙々と作業を進める。上半身は防水加工を施した青いパーカー。手には肘まであるゴム手袋。顔には不織布のマスク。頭には使い捨てのヘアキャップ。これが作業中の正装だ。
互いの表情なんてほとんど見えないが、困ることはない。ここでは、僕たちは一個の部品に過ぎない。求められているのは同じ作業をひたすら続けることだけだ。誰一人、手を抜かず淡々と作業をしている。
銀色の魚が次々とベルトコンベアに載せられていく。体長はまちまちだが、だいたい五十センチ前後。サケに似た顔をしているが、背中のでっぱりが特徴だ。
魚種はカラフトマス。セッパリマスとも呼ばれる。
スーパーで売っている鮭缶のほとんどは、このカラフトマスだ。塩漬けとして利用されたり、生鮮で扱われたりと、用途は色々あるらしい。もっともらしく語っているけれど、所詮は受け売りだ。アルバイトの初日に受けた講習で、そんなことを教えられた。
目の前には浴槽のようなステンレス製の水槽があり、その上を一本のベルトコンベアが動いている。水は魚の血で赤黒く濁っていた。
水槽を挟み、僕らは向かい合って作業をしている。こちら側は、流れの上流から大地さん、彩子さん、僕。向かい側は、乾さん、サトマリ、高井戸さん。コンテナに入った魚を運び、ベルトコンベアに載せるのは亮さんだ。この仕事は日替わりで男が担当することになっている。
流れてくるマスを一尾、左手でつかんで手元のまな板に寝かせる。右手に握った包丁を操ってエラを取り、腹から胸にかけて切り開く。マスの身体から溢れた血が水槽のなかにこぼれる。手袋をはめた手で内臓を取り除く。メスの場合は、マスコと呼ばれる筋子を取り分けて籠に入れる。
ここでメフン掻きと呼ばれる道具に持ち替える。一見ただのブラシだが、柄の部分が細長いスコップのようになっている。まずは、背骨の間に残った血合いを柄でこそぎ落とす。さらに水で流しながらこすると、血合いや内臓片が綺麗に取れる。処理の済んだマスは、水槽の水で残った血や粘質物をざっと落としてベルトコンベアに戻す。これで一丁上がりだ。マスを捌くほど、水は赤く濁っていく。
水揚げされたマスから傷みやすい内臓を取り除き、冷凍できる状態にまで加工する。これが僕たちに与えられた仕事だった。
最初の数日は、慣れない作業にずいぶん苦労した。唯一の経験者である大地さんを手本に、皆で効率のいい捌き方を勉強した。その甲斐あって、今ではここにいる全員が一分とかからずマスを捌くことができる。
雇い主は地元の漁業協同組合だ。毎夏、季節アルバイトを募集している。僕は今年が初めてだが、複数回参加する人もいるらしい。今年で言えば大地さんがそうだ。
やがてベルトコンベアにマスが流れなくなった。ぱちっ、と亮さんがスイッチを押す音とともに停止する。どうやらコンテナがなくなったらしい。魚の供給が止まるとアルバイトたちは手持ち無沙汰になる。長髪をヘアキャップに押し込んだ大地さんが、亮さんと何か話してから皆のほうを振り向く。耳たぶには穴が開いていた。作業中は外しているが、普段は銀色のピアスを両耳につけている。
「休憩しよう」
マスの供給が止まったら、現場判断で小休止を取ってよいことになっている。決めるのは大地さんだ。コンテナは漁協の人がこの作業場まで運んでくることになっている。それまでは休憩だ。一度に休憩に入れるのは四人まで。亮さんと乾さん、彩子さんが早々に持ち場を離れた。休めるのはあと一人。
「先に休んだら」
真向かいで作業をしていた高井戸さんに声をかけると、彼女は形のいい眉をハの字にして見せた。困った表情には小動物のような愛らしさがある。
「シュウさん、いつも後じゃないですか? 悪いですよ」
「気にしないで。いつ再開するかわからないし、早く取っちゃって」
マスクを顎にかけて言う。微笑を浮かべたつもりだが、うまく笑えているかわからない。他人に笑いかけたことなんて、ほとんど記憶にない。高井戸さんは少し迷っていたが、「すみません」と早口で言うとロッカールームのほうへ駆けていった。
作業場に残されたのは大地さんとサトマリ、それに僕だった。二人は仲睦まじげに会話している。たくましく、目鼻立ちのはっきりした大地さんは三十代半ばという実際の年齢より若く見える。二十歳過ぎのサトマリと話していても、ちょっと年上の先輩という感じだ。肌は日に焼け、普段は長い茶髪を下ろし、耳には派手なピアスをつけている。それでもチャラチャラした印象はなく、むしろ清潔感があった。陽気で頼りがいのある大地さんは、皆から好かれている。
サトマリは二十一、二歳だったはずだ。七人いるアルバイトで最年少。都内の高校を卒業してから、ずっとフリーターだと言っていた。大きい目が印象的で、よくしゃべる。額を出したショートカットは活発な空気を漂わせている。スクールカーストでは常に上位にいたタイプだろう。出会ったのがこのアルバイトじゃなければ、きっと言葉を交わすこともなかったはずだ。
会話に割り込むのも気まずくて、僕は水槽の底の内臓片をすくったり、道具を洗ったりしていた。
サトマリがはしゃぐ声と、大地さんの笑い声が作業場に響く。こういう空気には慣れている。僕は自分から、楽しそうな人の輪に入ろうとしたことがない。どうせ話なんて合わないとわかっているから。
「シュウさ、今日ヒマ?」
唐突に呼ばれ、弾かれたように顔を上げた。笑顔の大地さんがこちらを見ている。
「この感じだと、たぶん今日は午前で終わりでしょ。飯食ったら、午後はサイクリング行こうかってサトマリと話してたんだけど。一緒に行く?」
大地さんは朗らかに言うが、サトマリは出方を窺うようにこちらを見ている。今日どころか毎日ヒマだが、行っていいのだろうか。あの子は明らかに、大地さんに好意を持っている。本当は二人きりで行きたいのではないか。
「遠慮しないでよ。他にも誰か誘うから」
「あ、じゃあ、行きます」
結局、後押しに乗る格好で了承した。マスクで口元は見えないが、サトマリがため息を吐いたような気がする。残念がられても困る。誘ったのは大地さんだ。
休憩に入ってから二十分と経たず、亮さんが新しいコンテナを運んできた。外で漁協の人から受け取ったらしい。ベルトコンベアが再び動き出し、マスが載せられる。居残っていた僕らは急いで持ち場に戻る。そうこうしているうちに他の三人が戻ってきて、再び作業のリズムが生まれる。
僕は時おり高井戸さんの真剣な表情を盗み見ながら、マスを解体し続けた。
北海道の東端にある港町で暮らしはじめて、三週間。
オホーツク海に面するこの町は、マス漁では北海道有数の漁港だ。毎年、漁のピークは七月から九月にかけて。その期間、決まって夏限定のアルバイトが集められる。カラフトマスは一年おきに豊漁不漁の波が来るそうで、今年は豊漁の年だと言っていた。波がある割に、募集する人員は毎年十人弱らしい。漁協で出せる額が決まっているから、と事務担当者は言い訳をしていたが、実際のところはどうなのか知らない。
今年のバイトは全部で七人。
男はリーダーの大地さん、最年長の乾さん、三つ上の亮さん、それに僕。女性は盛り上げ役の彩子さん、最年少のサトマリ、それに高井戸さん。
僕たちは漁港の近くにある戸建ての宿舎に寝泊まりして、毎日港に隣接する作業場へ通う。宿舎から作業場までは徒歩五分。作業場からさらに五分歩けば、漁協の事務所がある。食堂は事務所の一階。地元の漁師や、漁協の職員も利用する。
生活は宿舎、作業場、食堂の三つでほぼ完結する。街までは自転車で片道一時間かかるため、皆、滅多に行かない。月二日の休漁日と、悪天候の日は仕事が休みになる。
大地さんが予想した通り、今日の仕事は午前いっぱいで終わった。豊漁の年だと言っていた割に、この数日は午後まで仕事がずれ込むことがない。まだ八月の上旬だ。アルバイト期間は二か月近く残っているのに、この調子で続くのだろうか。
昼食はいつもの通り、七人で一つの長机を囲んだ。朝昼夕の食事は漁協の食堂で取ることになっている。徒歩で行ける距離には、他に飲食店と呼べるものがない。
「げっ。これ、ピーマンじゃん」
嘆いたのはサトマリだった。今日のメニューはミックスフライ定食だ。白身魚やコロッケに交ざって、ピーマンのフライもある。「嫌いなんだ?」と言った大地さんに、サトマリは顔をしかめた。
「絶対無理。誰か食べてほしい」
「あ、シュウ。ソースの籠取って」
亮さんに声をかけられた。切れ長の目が、調味料の入った籠を見ている。箸を置いて籠を渡すと、受け取った亮さんはコロッケに大量のソースをかけ、その上からマヨネーズをかけた。
「かけすぎじゃない?」
隣に座る彩子さんが半笑いで言った。
「これぐらいかけんと、味せんから」
「昔から、ソースどぼどぼかける派?」
「ほやのぉ」
「出た、ほやのぉ」
彩子さんが喜ぶ。亮さんは地方の出身らしく、時おり方言が出る。
目元が涼しげで整った顔立ちの亮さんは、常に飄々としている。色白で、顔のパーツが小さいところは大地さんと好対照だ。平安時代の公家のようでもある。表情の変化が乏しいこともあって気難しそうに見えるが、そんな亮さんが方言を話すと場が和む。口数は少ないけれど、時おり発言するだけで存在感を発揮する。
大人っぽい雰囲気の彩子さんはムードメーカーだ。サトマリほどしゃべるわけじゃないけど、吊りぎみの目を細めてよく笑う。背が高くて腕や足も長く、手を叩いて笑うだけで場が明るくなる。仕事も丁寧だし、話も上手だ。この数年、季節バイトを渡り歩いているらしい。いつも後ろでまとめている長い髪は茶色に染めているけど、根元のほうは少し黒い。
亮さんと彩子さんのやり取りを見ていると、仲の良い姉と弟を見ているようだ。食事中の雰囲気も緩くなる。
左隣でがたっ、と物音がした。
椅子を引いた乾さんが、ごちそうさまも言わずに盆を持って席を立つ。その左手には包帯が巻かれていた。愛想のかけらもないが、これで平常運転だ。
小太りの体格に角刈り。顔色が悪く、いつも何かを諦めたような表情で働いている。三十九歳の乾さんはアルバイトの年齢制限ギリギリで、ここでは最年長だった。同僚は二十代が多いから、気を遣っているのかもしれない。食事の時だけ一緒の席についているのは妙に義理堅い。
「乾さん、昨日の怪我大丈夫だったんですかね。漁協に言わなくていいのかな」
六人になった食卓で、向かいに座るサトマリがぼそりと言った。大地さんが白飯を咀嚼しながら首をひねる。後ろでまとめた長髪が揺れた。
「普通に仕事してるし、平気なんじゃない」
昨日の仕事中、乾さんは包丁で手を傷つけた。ゴム手袋の上から、思いきり包丁で指のつけ根を切ってしまったのだ。刃は分厚いゴムを切り裂いて皮膚まで届き、手袋を脱いだ手は血にまみれていた。
流れる血を見て皆が心配し、街の病院にかかることを勧めた。場合によっては、漁協の職員に頼んで車を出してもらったほうがいいかもしれない。だが、当の乾さんは手当てを受けることを頑なに拒んだ。それどころか、漁協への口止めすら求める始末だ。宿舎にあった救急箱で止血して包帯を巻き、ゴム手袋を新品に替え、何食わぬ顔で現場に戻った。
「結局、あの包丁ってどうしたんですか」
「俺見たけど、裏の納屋に捨ててた」
亮さんが言う。さすがに、人血がついた包丁で魚は捌かなかったらしい。
「あの人、不気味じゃないですか。いつも一人で何やってるんだろ」
サトマリの問いに大地さんが応じた。
「同じ部屋にいるけど、わかんないね。亮は知ってる?」
「知りません。シュウは?」
「さあ。いつも寝てますけど」
宿舎の寝室は男女で二つに分かれている。同じ男部屋で寝起きしていても、乾さんの普段の行動はよくわからない。暇な時も遊びに行かずベッドで横になっている。二段ベッドの上のほうにいるから、真下にいる僕には何をしているのか見えない。
「午後サイクリング行くけど、一緒に行く人いる? サトマリとシュウは行くって」
大地さんの呼びかけに「行きたい」と手を挙げたのは彩子さんだった。
「亮も行こう。天気いいよ」
「俺はええわ。寝たい」
「あら。唯ちゃんは?」
彩子さんに水を向けられ、高井戸さんが迷う素振りを見せる。どうしようかな、と言いたげに首を傾けると、肩で切り揃えた黒髪が揺れた。僕と同様、彼女が遊びに付き合うのは稀だ。一緒に行ってくれたらどんなに楽しいだろう。自分の心臓の音が大きく聞こえてきた。
「疲れたんで、今日はやめときます。すみません」
軽く頭を下げる。謝る必要なんてないのに。内心がっかりする。
彼女は皆から〈唯ちゃん〉と呼ばれているけど、僕だけは〈高井戸さん〉で通していた。正直、〈唯ちゃん〉は気恥ずかしい。こちらが一つ上だし、そう呼んだところで誰も気には留めないのだろうが。
高井戸さんはどこか浮世離れしているところもあるけれど、気遣いができるし、僕の話も素直に聞いてくれる。それに小柄でかわいい。ちょこちょこと食べ物を口に運ぶ姿は、リスのようで愛らしい。
新卒で会社勤めをしていたが、パワハラの横行する職場で辞めてしまったらしい。今は、仕事探しを前にした充電期間と言っていた。その境遇も僕と似ている。
「じゃあ四人ね。行く人は一時半に納屋集合で」
大地さんがリーダーらしく場をまとめる。
宿舎の裏手にはプレハブの納屋があり、不要になった漁具や壊れた器具が保管されている。錆びた包丁やメフン掻きも束にして置かれていた。乾さんが手を切った包丁も、密かに捨てられているはずだ。
納屋の横には古い自転車が数台停められている。生活物資を買うため、街へ出る足として用意してくれたものらしい。ただし手入れは各自。要するに、漁協が放置しているだけだ。
「そういえば、納屋の壁壊れてましたよね」
先日、自転車を使おうとした時にたまたま発見した。どうやら他のアルバイトは僕より先に気付いていたようだが、見て見ぬふりをしていたらしい。
「そうだね。でも、今度でいいんじゃない。山本さんと会った時でも」
大地さんが言う。山本さんというのは漁協の事務担当者で、アルバイトの窓口になっている人だ。五十がらみの人の好さそうな男性。食堂の隣にある喫煙所で、たまに亮さんや彩子さんと煙草をふかしている。
「いや、報告します。後で二階の事務所に顔出してきます」
大地さんが揚げ物を飲み下して頷く。
「じゃあ、任せた。シュウは真面目だねえ」
どう答えていいかわからず、箸が止まる。妙な沈黙が流れた。
「……ねえ。明日の仕事もこんな感じかな」
「最終日まで仕事あるか、不安なんだけど」
「早めに終わっちゃったら、このメンバーで旅行でもする?」
僕の内心に誰かが気付くこともなく、会話は別の話題に移っている。胸がむかむかする。揚げ物のせいだけではないはずだ。
綺麗な持ち方で箸を動かす高井戸さんを窺った。茶碗についた米粒を、一つ残らずつまんで口に運ぶ。皿の上は綺麗に片付けられていた。この人は礼法を知っている。この人はルールを外れない。この人は他人を害しない。安心感が胸に広がる。
昼食が済んで、食堂から宿舎へ歩く道中、それとなく高井戸さんの隣に並んだ。彼女の背は僕の顎の高さくらい。真っすぐな黒髪がつやめいている。Tシャツにグレーのジャージというラフな格好だが、なぜかだらしない感じはしない。
「高井戸さんってさ」
「はい」
つい話しかけたが、話題が見つからない。共通の話題を必死で探す。
「……朝、強いの」
会話のとっかかりを探すが、そんなことしか思いつかない。大地さんならもっと気の利いた質問ができるだろう。自分が情けなくなる。
「まあ、弱くはないと思いますけど」
「僕は朝苦手なんだよね。いくつアラームかけても、寝起きが悪くて。この仕事六時までには起きないといけないし、二度寝はしたくないんだけど……」
「じゃあ起こしてあげますよ。電話なら、無視できないでしょう」
「ほんとに?」
自分でも驚くほどの大声で問い返していた。相手のほうがきょとんとしている。
「たまになら、いいですよ。シュウさんが遅刻したら皆も困るから」
膨らんでいた期待が萎んでいく。僕への個人的な好意ではなく、仕事の一部として、ということか。まあ、いい。彼女が起こしてくれるチャンスを逃すわけにはいかない。
「じゃあ、あさっての朝頼んでもいいかな」
「明日じゃなくて?」
「うん。あさって」
あさっては僕の、二十六歳の誕生日だ。誕生日の目覚めを高井戸さんの声で迎えられるなんてすばらしい。どうせいつもと同じ誕生日だと思っていたが、今年は少し特別だ。
「そういえば、シュウさん事務所行くんじゃなかったでしたっけ」
高井戸さんに言われ、食堂での会話を思い出す。納屋の壁の件で事務所へ行くんだった。「ありがとう」と言い残し、慌てて反対方向を目指す。小走りで向かいながら、にやつきを抑えることができない。
やっぱり彼女なら、僕のことを理解してくれるかもしれない。
『この夜が明ければ』は全4回で連日公開予定