二 午前八時十三分
乾佳靖
刃の長い包丁が照明の下できらめく。
マスの尻尾を持ち、柔らかな腹に刃を立て、一気に切り開く。躊躇しないほうが綺麗に切れる。鮮やかな赤い血が噴き出して、水槽のなかへ落ちていく。作業をはじめて一時間、水槽内の水は泥のように濁っている。
額を汗が流れるが、拭うことはできない。手袋をはめた手は血まみれで、腕にもマスの血がべったりと付いていた。汗の滴が眉間を流れ落ちていく。痒みはあるが、我慢できないほどではない。
それより辛いのは体力のほうだ。一日中、立ちっぱなしで両腕を動かし続けるのは楽な作業ではない。しかも刃物を扱うから、神経も遣う。仕事が午前中で終わればいいが、午後まで差しかかる日は本当にしんどい。魚を持つ左腕の感覚がなくなってきて、視界もかすむ。それでも弱音は吐けない。休めば、休んだ分だけ実入りが減る。
怪我は、一番怖い。
治るまで休むことになれば、その間はずっと無収入ということになる。補償なんかあるはずがない。万が一、二度と治らないような大怪我をしてしまったら、この先ずっと無職ということもあり得る。
一昨日、仕事中に怪我をした時は焦った。誤って指のつけ根を切ってしまったのだ。今も左手には包帯を巻いている。幸い傷は浅く、病院にかかる必要もなかった。というより、自分で処置して済ませてしまった。左手だから仕事や日常の作業には支障ないが、包帯で指の一部を固定しているため、指先を使う作業がしづらい。
普段ならああいう不注意はしないのだが、歳のせいか。
このバイトは二十代の連中が多い。若いやつらは平気な顔で作業をこなしている。三十代の矢島と仲野も、さほど疲れた素振りは見せない。仕事の後にサイクリングや釣りを楽しんだりしている。元気なものだ。三十代後半になるとぐっと体力が落ちる。それを実感しているのは、この中で俺だけだ。
仕事が終われば、後はだいたいベッドで寝て過ごす。スマートフォンでネットをしていることもあるが、すぐに飽きる。この年齢になると、知りたいという気持ちが低下してくる。何もかもがどうでもいい。
金の心配をせず、平穏に日々を過ごしたい。俺の望みはそれだけだ。
このアルバイトを選んだのも、時給が高かったからだ。食事と宿舎が提供され、三か月頑張れば手元に五十万残る。そんな噂を聞いて応募し、運よく採用された。採用されていなければ、きっと東海地方のどこかで自動車工場の期間工をやっていただろう。
とにかく、最も大事なのは金だ。金があれば生き延びることができる。
そのうえで最大の問題は年齢である。年を食えば、その分、応募できる仕事が減る。
多くのアルバイトは、四十歳未満とか三十五歳未満といった年齢制限を設けている。長期のキャリア形成、などという意味不明の理由で。ふざけるな。何が長期だ。若い連中だって、一年や二年すれば平気で辞めていく。要は扱いやすくて体力のある若者が優先されているだけだ。
かといって、今さら安定した職にはつけない。まともな職歴も、資格もない中年男を中途採用で雇ってくれる企業なんかあるはずがない。この国で生きていく限り、非正規雇用を転々とするしか道はない。
九時過ぎ、マスを運んでいたベルトコンベアが止まった。
「休憩取りましょう。亮と、乾さんもどうぞ」
仲野が真っ先に言う。こいつはいつも、自分以外の人間を先に休憩へ行かせる。田辺は「すんません」と言って、早々に持ち場を離れた。煙草を吸いに行くのだろう。
「私もいい? ちょっとトイレ」
佐藤が了解を得る前に出て行った。
「……俺も、今日は少し休ませてもらいます」
珍しく、仲野が外に出た。続いて俺も作業場を後にする。
ゴム手袋を取ってから屋外へ出る。今日も嫌になるくらいの晴天だ。日差しのまぶしさに目をすがめる。マスクとヘアキャップをむしり取ると、朝の清々しさが肺のなかへ入りこんできた。午前九時の空気にはまだ冷たさが残っている。
離れた場所で、田辺が一人煙草を吸っていた。呆けたような表情で海を眺めている。こいつもあと十年すれば、俺のようになっているかもしれない。その時、こんな生き方を選んだことを後悔するだろうか。まだ間に合うぞ、と言ってやりたくなる。佐藤と仲野の姿は見えない。
備え付けのベンチで十五分ほどぼんやりして、作業場に戻る。ベルトコンベアはまだ再開していなかった。三十分ほど待っても魚の入ったコンテナが届かない。とうに全員が持ち場に戻っていた。
「何かあったのかな。今日、仕事終わりかな」
女では最年長の矢島がどこか浮足立った調子で言っている。いい年のくせに、稼ぎに来たのか、遊びに来たのかわからない。仲野が「いや」とたしなめた。
「九月の後半ならともかく、八月にこれしか獲れないってことはないと思う」
それを聞いて、矢島が首をかしげる。
「マスって、なんで七月とか八月によく獲れるの」
「産卵のために川に帰ってくるから。そのタイミングを狙って、沿岸漁で捕まえる」
「へえ。よく知ってるね」
「あのレクチャー、二回受けてるからな」
このアルバイトの初日、マス漁についての講習を受けた。俺はほとんど内容を忘れてしまったが、仲野は二回目ということもあってか、よく覚えている。
「サケとかマスって、自分が生まれた川に帰って産卵するんだよ。サケはほとんど百パーセント、生まれた川に帰ってくる。でもカラフトマスは帰る川をよく間違えるらしい。生まれたのと違う川に遡上して、そこで卵を産む。自分の生まれた場所を忘れるくらい適当な性格なんだって、山本さんが言ってた」
漁協の担当者が言っていた冗談まで、よく覚えているものだ。横で話を聞いていた佐藤は曖昧な表情でうなずく。
「でもそれ、わざと間違えてるってこと、ないのかな」
「……どういうこと?」
「生まれた場所が、帰りたい場所とは限らないから」
佐藤の声音が、急に体温を失った。背筋がうっすら冷たくなる。
「まあ、そうかもな」
「故郷に帰りたいと思う魚だけじゃないよね。嫌な思い出があれば、別の川を選んでもおかしくないと思わない?」
仲野は反応に困っていたが、構わず佐藤は言い募っている。
なんだ、この女?
妙な空気をかき乱すように、ベルトコンベアが動きはじめた。反射的に、皆が持ち場につく。さっきまでの不穏な会話が嘘のように、無言で作業に取りかかる。
流れてくるマスを片端から捌きながら、佐藤の発言を噛みしめた。
――生まれた場所が、帰りたい場所とは限らないから。
田辺亮
最後の一本が灰になった。
「終わった」
マールボロ・ゴールドの吸殻を携帯灰皿に押し込む。お使いを頼んでよかった。丸一日吸えないとなるときついが、半日なら我慢できる。
今日の仕事は午後三時に終わった。サトマリが街に行くと聞いていたから、三時半頃、出発直前に煙草を頼んだ。最初は嫌そうな顔をしたが、手間賃として二千円払うと言ったら引き受けてくれた。喫煙者は何かと金がかかる。
灰皿をスウェットのポケットにしまって、海を見渡す。俺は宿舎を離れ、港の一角にあるコンクリートの細長い堤防の突端にいた。ここは一人になれる、お気に入りの場所だ。周囲は一面の海。海の真ん中に浮かんでいるような気分になる。夕刻の港では波の音しか聞こえない。潮の匂いが濃い。
少し離れた岸辺には、いくつもの漁船が横並びで係留されている。傾きはじめた日を浴びて、小刻みに揺れていた。海鳥が一羽、頭上を旋回している。
時刻を確認すると、五時を過ぎたところだった。もう一時間もここにいる。煙草も切れたし、そろそろ帰る頃合いだ。腰を上げて、一本道の堤防を引き返す。海風に時おり立ち止まりながら、宿舎へと歩く。
ロビーに入ると、宿舎に残っていた他の四人が集まっていた。シュウと彩子さん、唯ちゃん、それに乾さんだった。乾さんが他のアルバイトと一緒にいるのは珍しい。でも、それだけならさして不自然さも覚えなかった。
気になったのはその雰囲気だ。乾さんは両目を吊り上げて腕を組み、他の三人は気まずそうに押し黙っている。ただの雑談には見えない。
シュウと目が合う。あ、と思ったがもう遅い。
「亮さん、ちょっといいですか」
「……どうかした」
「乾さんの財布がなくなったんですって」
つい「は?」という声が出た。それに刺激されたのか、ソファに腰を下ろした乾さんがこちらを振り返る。眉間に深い皺が刻まれていた。
「誰かが盗ったんだろうが! わかってる!」
ロビーに響く怒声。丸椅子に座る三人は、うんざりした調子でため息を吐く。
「仕事が終わって部屋に戻ったら、鞄に入れてた財布がなくなってたんですって」
経緯を説明してくれたのはシュウだった。
「鞄の中身を全部ひっくり返したけど出てこなくて、誰かが盗ったとしか思えない、と。今日の仕事中の行動を三人とも確認したんですが、そもそも宿舎に戻った人すらいないんです」
「お前らのなかの、誰かが嘘ついてんだ!」
額に青筋を立てた乾さんが割り込む。左手の包帯が視界に入る。
「鞄が開いてたんだよ。今朝、確かに閉めたのに。間違いない! お前ら皆、嘘つきだ!」
思わず顔がこわばる。まともに会話できる状態じゃない。
「もう三十分くらいこんなことやってる」
彩子さんが飽き飽きした様子で首をひねる。それはしんどい。
「とりあえず、俺は盗ってないっすよ」
座ったらこの厄介な輪に入ってしまいそうな気がして、立ったまま答える。しかし怒り狂う乾さんは納得しない。
「当たり前だ。みんなそう言う。やった人がやりました、とは言わない」
「作業場とか、部屋の外に持って行ってませんか」
「鞄から出してない!」
乾さんが唾を飛ばしても、シュウは涼しい顔をしていた。意外と肝が据わっている。
「どうすれば納得してくれるんですか」
唯ちゃんが怯えながら言う。乾さんは全員の顔を順番に睨みつけ、低くうなった。
「今から、この宿舎を全部捜す」
正気かよ。内心で独り言を口にする。小さい宿舎だから捜せないことはないけど、それは明らかに非効率だろう。自分の行動を振り返ったほうがよっぽど近道に思える。しかし乾さんのなかでは結論が出ているらしい。
「全員、宿舎から出るな! 出たら殺す!」
彩子さんが小声で「こわっ」と言った。いよいよ普通じゃない。
「夕食は? もう食べられる時間ですけど」
シュウが冷静に尋ねる。度胸があるのか、空気を読めないだけなのか。
「今すぐ食ってこい。食ったらすぐに戻れ」
乾さんは完全に度を失っている。俺を含め、他の四人の間に諦めのムードが漂う。この調子だと、言うことを聞かない限り収まらない。俺は別にそれでも構わない。どうせやることはないし、サトマリが帰ってくるまで煙草もないし。
「勝手に女部屋に入ったりしないでくださいよ」
最初に席を立ったのは彩子さんだった。ぶつくさ言いながらロビーを出て行く。
「何も出てこないと思いますけど」
ロビーを去る間際、唯ちゃんがか細い声でつぶやいた。シュウもそれに続いた。
「じゃ、俺らは飯食ってきます。ごゆっくり」
声をかけたが、ソファの前で仁王立ちする乾さんは無言でこちらを睨むだけだった。
高井戸唯
頭がぼんやりしている。視界もかすんでいた。
女部屋のベッドでスマホを眺めながら、いつの間にか眠っていたらしい。眠りの沼に沈んでいた意識を引きずり起こす。体力的には平気なつもりだったけど、知らないうちに疲れが溜まっていたのかもしれない。
時刻を確認すると、夕食が終わってからかれこれ二時間近く経っていた。部屋には誰もいない。眠る前は彩子さんがいたはずだけど。ロビーだろうか。
彩子さん。今、何をしているのだろう。また、あのパズルゲームで時間をつぶしているのだろうか。二段ベッドの上からスマホの画面が見えることがあるけど、いつも同じゲームで遊んでいる。
ここに来た初日、〈矢島彩子〉でウェブ検索するとSNSアカウントが見つかった。アップされている写真はずいぶん若いけど、本人のアカウントで間違いない。そこに記された情報によれば、出身は群馬。都内の美容系専門学校を卒業して、化粧品ブランドの美容部員として何年か働いた後に結婚している。相手の名字は岡本。矢島に戻っているということは、離婚したんだろう。特筆するようなことじゃない。興味を失い、それ以上はたどっていない。
その他のアルバイトの名前も、ウェブ検索にかけた。〈佐藤真里〉〈田辺亮〉は本人と思しき情報が見つからなかった。〈乾佳靖〉も同姓同名のコンビニ店長が見つかっただけだ。アルバイト募集のページに載った店長の顔写真は、あの乾さんとは似ても似つかない?せた男性だった。
〈仲野大地〉の名前は、ある会社の取締役として見つかった。〈ナカノ空調設備〉という神奈川にあるエアコン工事の会社で、従業員規模は約百名。これはもしかしたら本人かもしれない。過去の履歴をたどると、三年前まで社長だったことがわかった。社名から察するに創業者一族なのだろう。三年前と言えば大地さんは三十代前半だが、創業家ならその若さで社長になってもおかしくない。
なんとなく納得できる。あの余裕や、人の上に立つことに慣れている感じ。きっと、昔から苦労なんかしていないんだろう。
社長になったはいいけど、他にやるべきことがあると思い込んで仕事を放っぽりだし、自分探しの旅に出ている最中。そんなところか。今も取締役として名前があるし、それなりの報酬もあるのだろう。遊び歩いているだけなのに。羨ましい。生まれだけで、こんなに差がつくものなのか。
裏付けはないけど、私のなかでは大地さんは元社長という結論が出ていた。
そう考えると、佐藤さんの嗅覚は鋭いのかもしれない。アルバイト先で恋に落ちた男性は、実は元社長の御曹司でした……。
出来すぎだ。まあ、実際には大地さんのほうが相手にしないだろう。どうせこのアルバイトは九月で終わる。身体の関係はあっても、それ以上はない。彩子さんと亮さんもそう。
〈工藤秀吾〉は国立大学の柔道サークルの一員として見つかった。集合写真にあの顔が写っていたため、これも本人で間違いない。
シュウさんは女性に慣れていない感じだけど、心情に表裏がなさそうだ。その分、安心して向き合える。モーニングコールを提案したのだって、相手がシュウさんだからだ。携帯の番号はまだ知らないけど、今夜聞けばいい。
もう七時半だ。トイレに立つと、ロビーのほうから声がした。顔を出してみると、彩子さんと佐藤さんがいた。佐藤さんは軽くメイクしている。すっぴんを見慣れていると、アイラインを引いているのを見るだけで、おお、と思う。普段、外ではそういう顔なのか。
血眼で財布を捜していた乾さんはいない。いったいどこにいるのか。
「あ、唯ちゃん。ちょうどさっき、サトマリ帰ってきたんだよ」
彩子さんに手招きされ、輪に加わる。
「大地さんとのおでかけは楽しかった?」
彩子さんがにやついた顔で尋ねた。佐藤さんは首をひねる。
「楽しかったといえば、まあそうかな」
「そのレベル?」
「普通に、ご飯食べて少しぶらぶらしただけ」
昨日までの浮かれ具合が嘘のように冷めていた。嬉しさを無理に隠しているという風でもない。意外と楽しくなかったみたいだ。
「それよりどうかしたんですか。宿舎、すごい静かだけど」
「乾さんが財布盗まれたって騒いでんの」
「は? 勘違いじゃないんですか」
「私もそう思うんだけど。ねえ、唯ちゃん」
「そうですねえ」
曖昧に同意する。佐藤さんは席を立ち、冷蔵庫を開けていた。
「ビールでも飲もうかな」
「あ、私も飲みたい」
二人は同じソファに座り、缶ビールを開けて乾杯している。お酒に弱い私は丸椅子に座り、黙ってその光景を見ている。
「大地さんは帰り、一緒じゃなかったの」
「なんか、用事があるって言ってたから、先に帰ってきました」
「それ、ちょっと冷たいね」
さっきは冷めた風だったけど、結局は今日の話で盛り上がっている。恋愛の話題に夢中になれるのは、ある意味羨ましい。私にとって、恋愛は数ある人間関係の一部でしかない。家族、友人、同僚、上司部下。たくさんの関係があるなかで、恋愛だけが特殊な位置を占めているということが今一つ理解できない。すべての人間関係は等しく重みを持っている。
「あれ、サトマリ帰ってる」
二人の恋愛談義が聞こえたのか、亮さんがやって来た。少し遅れてシュウさんも。
「あ。煙草、買ってきましたよ」
佐藤さんがレジ袋を突き出す。一カートンの煙草が入っている。受け取った亮さんはその場で包装を破り、一箱取り出してスウェットのズボンに突っ込んだ。
「乾さんは?」
「どっか行っちゃったみたい。男部屋にもいないの?」
シュウさんの疑問に彩子さんが応じる。
「いないです。いつまで部屋にいればいいのかわからなくて、困ってました」
「だよね。マジ、身勝手っていうか、迷惑。あんたの財布なんか誰も盗らないって」
うんざり、という効果音が出てきそうな表情で、彩子さんはビールを飲んでいる。シュウさんは私の隣の椅子に、亮さんはその隣に座った。恋愛談義は棚上げされ、しばらく乾さんの話が続いた。
噂の人が帰ってきたのは一時間後だった。引き戸の音がした時は大地さんかと思ったけど、ロビーに顔を出したのは小太りの中年男性だった。乾さんが現れた途端、会話がぱたりと止んだ。彩子さんや亮さんは敵意のこもった視線を向けている。
夕方と打って変わって、乾さんは悄然としているようだった。あの猛烈な怒りはなんだったのか、と思うくらい覇気がない。心持ち肩を落とし、暗く淀んだ目で私たちを見渡している。何か言いたいことがありそうなのに、分厚い唇は閉じたままだ。
「どこ行ってたんですか」
誰も話さないのを見かねたか、シュウさんが尋ねた。乾さんはぼんやりとそちらを見て、ようやく口を開いた。
「……財布を捜していた。食堂とか、作業場とかも」
「鍵、閉まってませんでしたか」
「閉まってた。でも、周りを捜した」
「それで? 見つかりました?」
刺々しい口調で問いただしたのは彩子さんだ。本人を目の前にして、不条理にキレられたことへの怒りが改めて湧いてきたらしい。アルコールのせいもあるのだろう。
「いいや」
「でしょうね。だって誰も盗ってないし。食堂とかに置き忘れたんじゃないですか。変に疑うのやめてもらえます? 漁協の人に相談しようかな。濡れ衣着せられたって」
憤りのまま、彩子さんは悪態を吐き散らす。普段愛想がいいだけに、怒る姿を見ると胃がきゅっとなる。昔、職場にいた先輩を思い出す。仕事ができる人にはいい顔をするのに、自分が見下した相手には高圧的に接する。新人だった私も、一時期その餌食になった。
「なんか言ったらどうですか」
「……大事なものだった」
乾さんは肩を落としたまま、踵を返してロビーから出て行った。数秒後、男部屋のドアをそっと閉める音が廊下からした。後味の悪い沈黙が頭上を覆っていた。窓から見える夜空は、黒い紙を貼りつけたような一面の闇だった。
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