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佐藤真里
 空は真っ青に晴れている。風が気持ちいい。
 ペダルを踏むたび、透き通った風が顔に当たる。自転車はボロくてスピードが出にくいけど、それでも走るのと同じくらいの速さにはなる。海岸に近い二車線の道路には、前も後ろも私たちしかいない。右手は防風林、左手はだだっ広い野原。
 夏の北海道は思っていたより快適だった。昼間は本州くらい気温が上がることもあるけど、湿度が低いから肌がベタベタしない。雨の日も少ない気がするけど、これはたまたまかな? 北海道は梅雨がないっていうし、そもそも雨が少ない地域なのかもしれない。
 前方には大地さんの背中が見える。オレンジ色のTシャツに包まれたたくましい背中。長髪が風になびいて、両耳のピアスが見え隠れする。ちらっと右を向いた拍子に横顔が見えた。大きい口や二重の目からは、年上なのにどこか子どもっぽい印象を受ける。
 このアルバイトに応募してよかった、と思う。
 ここに来る前、春から六月までは鹿児島の農園で住み込みのアルバイトをやっていた。旅館やホテル、農家、工場などで募集する季節限定の仕事へ応募するのは、各地の短期バイトを渡り歩く人たちが多い。
 採用期間が終わりに近づいた頃、みんなでハローワークから集めてきた求人情報を眺めていた。カラフトマスの加工バイトを知ったのはその時が初めてだ。募集条件は二十歳から三十九歳の健康な男女。採用期間は七月から九月。場所は北海道の東の端にある、名前も知らない港町。
 北海道は行ったことがなかったから、まずそこに惹かれた。夏場の北海道ならきっと涼しいだろう。魚の加工作業はきつそうだけど、給料がまあまあ高い。
 結局、あまり深く考えずに応募した。
 何度も季節バイトに応募しているから、履歴書を書くのもすっかり慣れた。氏名、とう真里まり。満二十二歳。現住所、東京都武蔵むさし市。都立高校卒業。そこに証明写真を貼りつければ、佐藤真里の人生が一丁あがり。人の半生なんて、紙きれ一枚に収まってしまう。
 季節バイトから別の季節バイトへ。その時募集している地方へ行って、住み込みで仕事をして、しばらくしたらまた次の場所へ。一か所に留まるのは長くても半年、短ければ一か月。だいたいどのバイトにも常連がいるから、同じ仕事には二度と応募しない。少し所持金が貯まったらぶらぶらして、お金がなくなったらまた適当な仕事に就く。
 もう三年、こういう生活を続けている。
 季節バイトで出会うのは、私と似たような生活をしている人ばかりだ。ここのアルバイトだって、同じ。彩子さんも亮さんも、季節バイトを転々としていると言っていた。大地さんもそう。さすらいのフリーター。
 私には、この暮らしが合っている。こんなに楽な生活はない。
 何が楽って、一番は人間関係。どんなに仲良くなっても、どんなにこじれても、数か月で強制リセットされる。バイトが終わってからも連絡を取り合おう、という人も少なくないけど、だいたい関係は自然に消える。
 その場限りだと思えば、大胆にもなれる。
「大地さん、ストップ」
 前を走る背中に声をかける。きっ、とブレーキの音がして自転車が止まる。大地さんがよく日焼けした横顔をこちらに向けた。私はその横に並ぶ。少し後ろを走っていた彩子さんとシュウさんも止まった。
「どうかした」
 耳元に思いっきり顔を寄せる。これで後ろの二人には聞こえない。太陽を反射したピアスがまぶしい。
「明日、二人でどこか行かない?」
「……俺とサトマリで?」
「そう。久しぶりにメイクするから」
 狙っているわけじゃないけど、好きになるのはだいたい年上だ。大地さんはひと回り以上、年上。子どもっぽいくせに、たまに年齢相応の頼りがいを見せてくるのがずるい。皆のアニキって感じでふるまった後に、にかっ、と笑ってみせる。その笑顔が人懐っこくてかわいい。
 大地さんはちょっと困った顔をしていた。
「明日かあ」
「用事なんかないでしょ。北海道の端っこなのに」
「まあなあ……わかった、明日の午後ね」
「ねえ、何話してんの」
 後ろから彩子さんの声がした。私は振り返り、にやついた顔で両手を合わせる。それだけで通じたらしく、あ、という表情で彩子さんはにやりと笑った。シュウさんはぽかんとしている。この人はどうも、鈍い。真面目なだけが取り柄で、人の感情を察するとか、そういうことができない人。髪型や服装も冴えない。いい歳をして、母親が選んだようなシャツやズボンを着ている。無個性な顔立ちはそれなりに整っているとも言えるけど、髪はボサボサだし眉は太いし、とてもじゃないけどカッコよくは見えない。何より、几帳面な感じが生理的に合わない。正直、苦手だ。
「何でもなーい」
 大声で返して、再び前を向く。大地さんより先にペダルを漕ぎだす。周囲の風景を置き去りにして、私の身体は前へ前へと進む。しがらみを振り切るみたいに。
 それから十分くらい進んで、海岸沿いの車道に出た。防風林が切れて、右手に海が見えると同時に強い風が吹き付けてきた。海の上を吹く風は、濃い潮の香りがした。作業場で毎日嗅いでいるはずなのに、それよりずっと爽やかに感じる。
 浜辺と車道の間に、石垣がずっと続いていた。腰の高さまでしかないからひとまたぎで砂浜に出られる。自転車を停め、海のほうへ行こうとしたが呼び止められた。
「せっかくだから、丘の上、行ってみるか」
 大地さんは浜辺と逆方向を見ていた。二車線の車道は右手に海があり、左手に茶色い壁みたいなむきだしの地層がそびえ立っている。道路を造るためにえぐられたのか、壁は緩いカーブを描いて、海へ突き出していた。急な斜面の頂上は平らになっているみたいだ。てっぺんまでは五階建てのビルくらいの高さがある。丘というより崖だ。
「砂浜、行かないの」
「海なんか毎日港で見てるだろ。丘の上は絶対眺めいいから」
 強く言われると反対しにくい。仕方ないから、大地さんの意見に従う。
 四人で自転車を押して横道に入り、頂上へ続く急坂を上っていく。両側は背の高い茂みになっていて、もちろん道は舗装なんかされていない。
「おー、すげえ」
 ふうふう言いながら坂道を上っていたら、先頭を進んでいた大地さんの声が聞こえた。気になって、駆け足で上る。「ちょっと」と彩子さんが言ったけど止まらない。シュウさんを追い抜いて、てっぺんまで自転車を押し上げる。
 丘の上に到着すると、急に視界が開けた。
 頂上は大きなスプーンですくいとられたみたいに平らで、生えている雑草は膝くらいまでしかない。青い空と青い海が一目で見渡せる。絶景。刺すような日差しが降りそそいで、涼しい風が頬を撫でる。
「何これ。めっちゃ気持ちいい」
「ヤバいな。北海道に来た、って感じ」
 緑の草が、さわさわ風になびいている。周囲には柵も何もない。ちょっと足を踏み外せば、真下に真っ逆さまだ。
 しばらく大地さんと二人で景色を堪能していた。少ししてからシュウさんが来て、「いい景色だ」と当たり前のことを言った。最後に呼吸の荒い彩子さんが到着した。
「ここが眺めいいって、知ってたんですか」
 尋ねると、大地さんは黙って笑った。にかっ、と音がしそうなあの笑顔。
 これだよ、これ。ずるいな。


田辺亮
 安焼酎のストレートが喉を焼く。
 柿の種を放り込んで、口のなかに塩気を足す。焼酎、柿の種、焼酎、柿の種。アルコールが入るほど煙草を吸いたくなってくる。
「亮さんって、酔わないですよね」
 ソファに座るサトマリが言った。
「酔ってるよ。顔に出んだけで」
「けっこう焼酎飲んでるもんね」
 その隣の彩子さんが続く。目尻を下げ、笑顔をつくってやり過ごす。あんまり愛想よくすると、相手に期待を持たせすぎる。面倒を避けるため、余計なことはしない。
 俺たちは、玄関から入ってすぐ左手にあるこの部屋をロビーと呼んでいる。八畳くらいの部屋にローテーブルと、ボロいソファが二つ、背もたれのない丸椅子が四脚。隅には冷蔵庫と流しがある。
 ロビーでは六人のアルバイトが酒を飲んでいた。
 漁港だけあって夜は早い。食堂は十八時には閉まるし、その時刻になれば漁協の事務所に人は残っていない。もちろん、アルバイトの管理を担当する山本さんも。住宅街から離れた宿舎でどれだけ騒ごうが、地元の人に迷惑をかける心配はない。夜間にトラブルがあれば山本さんの携帯にかけることになっているが、今まで夜にかかってきたことは一度もないと言っていた。
 このアルバイトがはじまってから、ほぼ毎夜、飲み会が開かれている。酒やつまみは、街への買い出しで調達する。食堂の自販機でビールも売っている。大地さんやサトマリはたぶん皆勤だけど、俺は出たり出なかったりだ。他の皆もぼちぼちだろう。だから六人も揃うのは珍しい。
 不在なのは乾さんだ。初日の夜に少し顔を出しただけで、それ以後は飲み会に来ていない。こっちとしても、来たところで話すこともない。ちょっと冷たいけど、みんな同じことを考えているはずだ。その証拠に誰も誘わない。
「乾さんって、ここに来る前何してたんだろ」
 サトマリが甲高い声で言う。飲んでいるのは缶チューハイだ。
「昼も乾さんのこと言ってたよな」
 別のソファに一人で座る大地さんが応じた。
「だって、気になりません? あの感じで季節バイト渡り歩くの、しんどいでしょ。四十前だし、見るからにコミュ障だし。無口すぎ」
「やめとけって」
 やんわりと止める大地さんは苦笑している。
「シュウは仕事辞めて、暇だったから来たんだよな。今は充電期間?」
「……そうですね。知り合いがいないところに来たくて」
「わかるわ。唯ちゃんもだっけ」
「私は一年ちょっと前に会社辞めて、それからは短期で色んなところに」
「俺もそんな感じ。ここにいる全員、ふらふらしてるね」
 大地さんの言葉に、シュウが眉をひそめる。まるで自分は違うとでも言いたげだ。今アルバイトをしているのはたまたまで、本来ならこんなところにいるべき人間じゃない、とでも思っているのか。
 あほらしい。のくてえ、、、、こと言うな。
 ここにいる時点で誰もが流れ者だ。それか、非日常に憧れる世間知らずか。
 どうしても吸いたくなって、ロビーを出た。この平屋の宿舎には、部屋が四つある。ロビー、浴室、男部屋、女部屋。玄関から入って左手に行けばロビー、右手に行けば浴室とトイレ、まっすぐ行けば男女の部屋が並んでいる。左の扉を開けて男部屋に入り、煙草とライター、携帯灰皿を手にする。
 共用のサンダルをつっかけて宿舎の外に出る。オホーツク海から吹く風が冷たい。日中の暑さが嘘みたいだ。港も、食堂も、漁協の事務所も、夜の闇に包まれて、ひっそりと眠っている。
 マールボロ・ゴールドを一本だけ吸った。ストックがないから、大事に吸わなければ。近いうち、また街で買わないといけない。
 ロビーに戻ると、残っていた五人が片付けをはじめていた。大地さんが残った柿の種を口に放り込み、シュウが空き缶をビニール袋に集めている。なんとなく片付けに加わり、濡らしたタオルでテーブルを拭いた。
「また明日」
 大地さんはいち早くロビーを去った。つられるように、みんなぞろぞろと部屋に帰っていく。シュウ、唯ちゃんの〈真面目組〉と三人でタオルを洗って干した。ロビーの照明を消して、部屋の前で唯ちゃんと別れる。
「じゃあ、おやすみ」
 男部屋に入ろうとする俺とシュウに、唯ちゃんは「あの」と言った。
「朝になったら、また会いましょう」
 何を当たり前のことを言ってるんだ。これからあと二か月近くも一緒に仕事をして、飯を食って、同じ宿舎で寝泊まりするのだ。明日もあさっても、その次の日も。
 だが、違和感を口に出すことはなかった。


矢島彩子
 ここに来るまで、夜がこんなに暗いとは知らなかった。
 女部屋の窓は闇で塗りつぶされている。コンビニも民家もない北海道の端っこで、真っ暗な夜のなか、私たちだけが取り残されたような気分になる。
 スマホのディスプレイに〈21:49〉と表示されているのを見て、まだ午後九時台ということにびっくりする。ここに来て三週間、早寝にはまだ慣れない。沖縄のリゾートホテルで調理の仕事をしていた時は、日付が変わってから眠っていた。早く寝ることに後ろめたさすら感じる。
 と言いつつ、身体はほどよく疲れている。朝七時から午前いっぱい、肉体労働をしたんだから当たり前だ。おまけに午後はサイクリングにも行った。室内の照明はまだついているが、少しずつ動くのが億劫おつくうになってくる。
 女部屋には二段ベッドが二台ある。高校の運動部が使う合宿所みたいな部屋で、ベッドの他には何もない。下の段は私とサトマリが使い、サトマリの上に唯ちゃんが寝ている。私の上の空きベッドは荷物置きになっていた。
「そろそろ眠くなってきた」
 二段ベッドの下から言うと、同じ高さで寝ているサトマリがこちらに顔を向けた。
「歯磨きしました?」
「まだ。なんか、めんどくさい。でもメイクないのが楽」
 サトマリは「それね」と言ってスマホに視線を戻した。沖縄のホテルでは、客前に立つことはないけど毎日軽いメイクはしていた。でも、ここに来てからは初日以外ずっとしていない。魚の内臓を取るために化粧を施す必要はないし、頑張ってしたところで汗をかくから落ちてしまう。
「唯ちゃん、起きてる?」
 サトマリの上の段に声をかけたが、返事はない。そこには唯ちゃんがいるはずだが、下からは様子が見えない。しょうがないからベッドを降りて、はしごを途中まで上る。唯ちゃんはうつぶせに寝転んで、横にしたスマートフォンをじっと見ていた。耳にはワイヤレスイヤフォンが差し込まれている。
 この子は暇さえあれば動画を見ている。モバイルのWi-Fiまで持ち込んでいる準備のよさだ。何の動画か知らないけど、北海道の端っこに来てまでやることだろうか。バイトは全員、唯ちゃんのWi-Fiを使わせてもらっているから文句は言えないけど。
 見た目はちょっとかわいらしいけど、どうも根暗っぽいし。高校にもこういう女子はいた。理系クラスで四、五番目にかわいい子って雰囲気。せめて明るいふりだけでもすればいいのに。
「おーい、聞こえてるかー」
 目の前にある素足の裏を軽く叩いてみる。びくりと身体を震わせて、唯ちゃんがこちらを振り向く。どこか怯えたような表情だった。イヤフォンを取って、「今、呼びましたか」と言う。
「何してるのかなと思って。動画見てるんだ」
「ああ、はい……映画です」
「何の映画? アクションとか?」
「……ドキュメンタリー、ですかね」
 これ以上話しても、盛り上がらなそうだ。悪い子じゃないんだけど、どこかずれている。感情が見えにくいし、ノリも物足りない。付き合いやすさで言えば、サトマリのほうがずっと気が合う。
「悪いんだけど、そろそろ部屋暗くしてもいいかな」
「はい。大丈夫です」
「ありがとう。ごめんね、邪魔して」
 ちょっと迷ったけど、歯磨きはパスすることにした。照明を落としてベッドに寝転ぶ。眠る前、暗闇のなかで考えるのは亮のことだった。このバイトが始まった時から気になっている。最近は特に。
 もしも亮と一緒になれたら、新しい人生を踏み出せるのかな?
 実現するはずのない妄想だとわかっている。私に気がないのは明らかだし、仮に付き合えたとして、このバイトが終わったらどうすればいいんだろう。一緒に、安定した働き口を探す? きっと、それより先に関係が終わってしまう。
 それでも諦めきれない。亮は私の心をつかみすぎている。白い肌も、細身のシルエットも、少しとぼけた雰囲気も、たまに見せる真剣な眼差しも、笑顔にこびりついた一抹の寂しさも。あらゆる要素が私を惹きつける。
 それに……。
 亮とは、どこかで会った気がしてならない。
 知り合いというわけじゃない。一度きりでも、あんなにタイプの男と会ったのなら忘れるはずがない。だから、こちらが一方的に見かけただけだと思う。どこで見たんだろう。思い出せないことが悔しい。
 まどろみのなかで、亮の顔がもやに包まれたようにぼやけていく。


仲野大地
 どこからか、すきま風が吹き込んでいる。
 室内だというのにロビーは寒い。北海道は、夏でも日が沈むと驚くほど寒くなる。部屋を出る時、厚手のジャージを着てきたのは正解だった。去年はもっと寒かった気もする。二度目だから身体が慣れたのだろうか。
 暗闇のなか、スマートフォンで時刻を確かめる。ディスプレイには〈1:10〉と表示されている。一時にロビーの約束だが、起きられなくなってしまったのかもしれない。三十分待って来なければ部屋に引き返そうと決め、ソファに座り直す。
 照明はつけていない。窓から見える夜空には、暗幕に空いた穴のように月が光っていた。俺には、それが長い長い迷路の出口に見える。やっと抜け出せるのだ。このがんじがらめの状況から。
 とうとう明日。いや、日付で言えばもう今日か。
 サトマリから遊びに誘われたのは想定外だった。よりによって明日か、と思った。断るか、延期にしてもよかった。しかし結局はOKした。彼女は俺に懐いているし、受け入れたところで計画が破綻するわけじゃない。それなら彼女の気持ちを汲んだほうがいい。
 廊下の奥で、扉が閉まる音がした。
 来た。足音が近づいてくる。古い宿舎の床がきしんでいる。スマートフォンのライト機能をオンにして、テーブルに置く。真っ暗な室内では、これがないと相手の顔も見えない。薄闇の中から、見慣れた人影がロビーに現れた。ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「よかった、来てくれて」
 影の主はもう一つのソファの傍らに立ったまま、眉をひそめている。こちらを怪しむ素振りを隠そうともしない。
「そこに座ってもらって……あ、誰か気付くかもしれないから、照明はそのままで」
 声を潜めて言う。相手はさらに顔を歪めたが、それでも腰を下ろした。誘い出す時に手渡した三万円が効いているのだろう。絶対に金で転ぶタイプだと思っていた。
「ちょっと頼みたいことがあって」
 相手がこちらに身を乗り出す。
 ここに来るまで長かった。やっとだ。ようやく、俺は一歩を踏み出すことができる。
 あと少し。もう少しで、この夜から抜け出せる。

 

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