プロローグ

 

 初めて人を好きになったのは、小学五年生の春だった。
 相手は転校生の男の子で、名前はユウキくん。新学年を迎えた朝、担任となった先生が《新しいお友達》を教室に招き入れた瞬間から、わたしの初恋は始まった。
 一目惚れだった。その時点では彼のことを何も知らず、なのに好きだと思ってしまったのだから、それ以外に理由はない。ユウキくんが明るく社交的で、足が速く、勉強はそんなに得意ではなかったけれど、優れたユーモアセンスを持っている点などは、もちろんわたしの好意に拍車をかけはしたものの、すべてあとから知ったことだった。
 これまで味わったことのなかった、胸の奥がかゆいのにかけないみたいなもどかしい思いに、わたしはどうしていいかわからず、意味もなくユウキくんの近くへ行って、話しかけるでもなくただボーッと突っ立ってる、なんてことをしばしばやらかした。もともと口数が多いほうでも積極的な性格でもなかったからだが、ユウキくんの目には薄気味悪い女子と映っていただろう。
 それでもときどきは、ユウキくんと話をすることができた。わたしには初恋を打ち明けるくらいには仲のいい友達がいて、その子がユウキくんとのあいだを取り持ってくれたりもした。いまから振り返ると、その友達はどうしてわたしと仲よくしてくれていたのかわからないような、かわいくて人気のある女子だったけれど。
 その日の休み時間も、わたしは友達に連れられてユウキくんの席まで行き、三人でおしゃべりをしていた。友達は朝から「今日こそはあいつの好きなタイプを聞いたげる!」と、世にもおせっかいなことをわたしに強調していた。
「でさー、ユウキくんってどんな女の子が好きなの?」
 どうでもいい会話の果てに友達が発した一言はいかにも唐突で、わたしは反射的に友達の頬(ほお)をひっぱたきたくなった。幸いにもユウキくんがその質問に底意を感じ取った気配はなく、彼は束の間考え込むと、わたしの友達を見てニヤリと笑って答えた。
「おまえみたいな、バカな女子は嫌いかなー」
「もー、うるさい!」
 友達は即座にユウキくんをはたいた。二人は楽しそうにじゃれ合い、わたしは悪口を言われたはずの友達が笑っていることに驚いたのだけれど、それよりもユウキくんの答えを聞いて、あることを考えていた。
 ——そうか。ユウキくんに好かれるには、頭がよくなればいいんだ。
 幼かった、あの日のわたしに教えてあげたい。ユウキくんの《嫌い》は嫌いじゃなくて、その反対だったんだよ、と。
 それ以来、わたしは努力して勉強に取り組むようになった。小学五年生にもなると、自分に女性的な魅力があまり備わっていないらしいことには気づいていたけれど、勉強は不得意ではなかったので、頭のよさでならほかの女子に勝てるんじゃないかと思ったのだ。
 わたしはじきに成績優秀な女子というポジションを確立すると、公立中学に進み、かつて友達だった例の女子とユウキくんが付き合い始めて人生初の失恋を経験してからも、勉強だけはやめることなく、高校受験では地元で一番の進学校に合格した。

 いまにして思う。
 あの出来事がなければ、わたしの人生は大きく違っていたのではないか、と。大して好転はしなかったかもしれないが、勉強しようなどと思わなければ、のちに長きにわたって苦しい日々を過ごす羽目には陥らずに済んだのではないか、と。
 だからって、初恋の相手を恨んだりはしない。言わずもがな、彼に非はないし、責めるならわたしの幼い誤解のほうを責めたい。
 だけど、それでも。
 あの日、好きな男の子が発した一言は、わたしの人生においては間違いなくバタフライ・エフェクトだった。

 

『紅招館が血に染まるとき The last six days』は全4回で連日公開予定