第一章 蝶
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たとえば高層ビルが直方体であるとか、人間は基本的に地上を歩く生き物だとか、そういった常識はこの世界では通用しない。
周囲を見回せば、地面に刺さったみたいに斜めにかしいだ建物や、豚のしっぽさながらにくるりと一回転した建物が立ち並んでいる。そのあいだを縫って移動するのは、無数の人間。否、この世界で彼ら住人を表すのに《人間》という単語はふさわしくない。なぜなら、二足歩行の彼ら全員の背中に、大きな翅が生えているからだ。翅はアゲハチョウやモンシロチョウのそれで、だから彼らは《バタフライ》と呼ばれる。
無論、翅は飾りではなく、彼らは蝶のように空を飛ぶ。軽やかに、優雅に、美しく、歩行と飛行の双方を用いて、この世界を縦横無尽に移動する。見上げればバタフライたちが、雲一つない青空を背景に、点となってそこらじゅうに浮遊している。
——そしてここにも、バタフライが一人。
蛍光イエローのスポーツブラに黒のスパッツという、動きやすそうな服装で身を固めたわたしは、長い髪を後ろで一つにまとめてから、伸ばした片腕を手前に引き寄せるストレッチを始めた。服装にせよストレッチにせよ、意味があるのかはよくわからない。気分を高める効果はあるので、頓着しないよりはいいと思う。
耳には陽気なBGMに混じって、一定の間隔で絶叫が届く。近くでジェットコースターが稼働していて、最初の下り坂で乗客が上げるそれだ。ほかにもカラフルに彩られたアトラクションがいくつも見渡せ、すぐそこの広場ではてんとう虫型のロボットが子供たちに風船を配っている。——そう、ここは遊園地『パラダイスゾーン』。毎日たくさんのバタフライが遊びに訪れる、この世界で最大級の娯楽スポットだ。
イメージトレーニングのためにピンクの翅をばたつかせていると、背後から声をかけられた。
「よう、アキ。調子はどうだ?」
振り返るより先に、彼が正面に回ってきた。
「バッチリ。今日こそは、優勝できそうな気がする」
わたしの返答を聞いて、彼はふふんと笑った。
「足だけは引っ張るなよ。このオレが、ペアになってやってるんだからな」
彼の名はマヒト。銀の猫っ毛と紫の翅がトレードマークの、十五歳くらいに見える男の子だ。Tシャツも翅と同じ紫にそろえ、下はわたしと似たような黒のスパッツをはいている。
「何よ、偉そうに。あなた以外にも、わたしには《フレンド》がいっぱいいるんだからね」
「粋がるなって。勝ちたいんだろ、パラダイスレーシング。オレより速いやつなんているか?」
言い返せなかった。理論上、バタフライの最高飛行速度はみな等しいはずなのだが、どういうわけかマヒトはほかのバタフライよりもほんの少し速かった。この世界にそんな小さなバグがあるのかは定かでないが、ともかくそのおかげで毎回惜しいところまではいくのだ。
しかし、あらゆるレース競技がそうであるように、パラダイスレーシングもまた速度だけがものを言う競技ではない。マヒトとペアを結成し、これまでに三度臨んだペア部門で、わたしはいまだ優勝できたことがなかった。
パラダイスゾーンで催されるいくつかの大会の中でも、最多の挑戦者を集めるパラダイスレーシング。その名のとおり、空中に設定されたコースをいかに速く駆け抜けられるかを競う。月に一度開催され、バタフライはソロ部門とペア部門のどちらかにエントリーが可能。ソロ部門は純粋に個々の能力が試される一方、ペア部門ではチームワークも要求される。
なお、優勝者にはここでしか手に入らないトロフィーが贈呈される。貨幣という概念がないので、挑戦者の大半はトロフィーと名誉欲しさに集まってくる。
わたし個人に図抜けた能力はなく、ソロ部門では優勝の目がなかったが、マヒトとペア部門に出場するようになってからは三大会連続でトップテン入りを果たしていた。だが、優勝まであと一歩及ばない。この一ヶ月、わたしはマヒトに付き合ってもらって飛行訓練を徹底的におこない、満を持して今日のレースに臨んでいた。
『まもなく本日のパラダイスレーシング、ペア部門を開始いたします。挑戦者のみなさんはスタートラインに集合してください』
場内にアナウンスが響き渡る。わたしはマヒトとこぶしを触れ合わせた。
「行こう。絶対優勝!」
この世界では全労働が機械化されており、バタフライたちに労働という概念はない。代わりに働いてくれるのは、蝶以外の虫の形をしたロボットたちだ。ちなみに、わたしたちのよく知る虫という生物は存在しない。
わたしとマヒトがスタートラインに到着すると、トンボ型のロボットが近寄ってきて、その眼鏡で見つめることによってわたしたちのIDを照合した。挑戦者はエントリーの際に、すべてのバタフライに割り振られているIDを申告する義務がある。
IDの照合が済んだところで、わたしたちはスタートラインの上空で待機した。挑戦者たちは前後ではなく上下に並んでいるため、スタート位置による有利不利はほぼない。
ほどなくレースの開始時刻になる。雄大なファンファーレが鳴り響くと——演奏しているのはキリギリスや鈴虫たちだ——込み上げる高揚感に、わたしはもう病みつきだ。
『ファイヴ、フォー、スリー……』
カウントダウンが始まる。わたしは翅の動きを司る肩甲骨のあたりに力を込めた。
『ツー、ワン……スタート!』
バタフライたちが、いっせいに場内へと躍り出た。
パラダイスレーシングのルールは至ってシンプルで、各所に設置された方向指示板——矢印が描かれている——にしたがって場内を飛び回るだけだ。コースは都度変更され、直線が多いときもあれば、くねくね曲がらされるときもある。
ただし、レースの途中にはクリアしなければならない三つの関門がある。これが、ペア部門においてはチームワークを測る仕掛けとなる。
わたしは猛スピードで進むマヒトにやや遅れながらも必死でついていき、先頭集団の一員として第一関門に突入した。《輪っかエリア》——空中に配置されたたくさんの輪の中から、相方と同じ色の輪を選んでくぐることを三回繰り返す、というものだ。
「アキ、赤だ!」
一足先に輪っかエリアに到達したマヒトは、赤い輪をくぐることを選択したらしい。ただくぐればいいのではなく、同じ色の二つの輪を見つけてからくぐるのが鉄則だ。
「赤、どこ?」
「ほらそこ、足元!」
マヒトに言われて見下ろせば、五メートルほど下方にフラフープ大の赤い輪が浮いている。わたしが輪のところまで降下して赤い輪をくぐると、ペアで同じ色の輪をくぐったことを表すピンポンという音が鳴った。
その後もわたしたちは首尾よく緑と青の輪を二つずつ見つけ、くぐった。周囲を見る限り、第一関門をクリアした速さでは上位五組には入っているはずだった。
次の関門を目指してコースを進む。マヒトはわたしに並び、軽口を叩く余裕すらあった。
「赤ときて、次は緑か。見分けがつきにくいやつらにはタフなレースだな」
この世界においては、半身不随や四肢切断などの身体的障害は完全に克服された。しかし、その他の感覚器官の障害などについては対処が不十分な点も多く、中でも色覚異常者へのケアは重要な課題の一つとされていた。
「そういう言い方は性悪だよ」
わたしはマヒトをたしなめる。だが、彼にとっては蛙の面に水だ。
「色即是空、空即是色。色を正しくとらえることは、悟りに近づくために重要なんだぜ」
「その《色》は、色覚の《色》とは別物でしょう」
あしらいながらも、わたしは思う。マヒト、あなた仏教徒なの?
矢印にしたがって五回曲がったところで、第二の関門がわたしたちを待ち受けていた。《クイズエリア》——二人で協力してクイズの正解を導き出す、というものだ。
空中にたくさん浮かんでいる、一辺がおよそ一メートルの立方体のブロックの一つに近づく。上の面にはモニターがあり、そこに問題文が表示されていた。
〈ある男が事業に失敗し、多額の借金を背負ってしまった。家や車などすべての財産を整理したが借金は残り、手元にはわずかばかりの小銭しかなく、借金を返す当ても、金を貸してくれる人の心当たりもなかった。住居を失った彼を雇ってくれる者はいっこうに見つからず、途方に暮れた男が街を歩いていると、宝くじ売り場を見つけた。販売中の宝くじの抽せん日は明日。一か八か、男はなけなしの有り金をはたいて、たった一枚の宝くじを購入した。
翌日、宝くじの当せん番号が発表された。なんと、男の買ったくじは当せん。借金の返済に足りるどころか、その倍もの金額を受け取れることになった。男はつぶやいた。
「ああ、よかった。これで借金を返せる」
一週間後、男は死んだ。なぜ?〉
『紅招館が血に染まるとき The last six days』は全4回で連日公開予定