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カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中に、わたしはいる。
湿気が溜まっているのが肌でわかる。食べ物の空容器や洗濯していない洋服などが床に散乱し、足の踏み場もないほどだった。普段は嗅覚が麻痺しているが、意識するとほのかに異臭がする。それがゴミや湿気のせいなのか、あるいはわたし自身が発しているものなのかは区別がつかなかったが。
わたしはVRデバイスを外して椅子から立ち上がった。自室の隣のトイレに入り、下着を下ろして便座に腰かけると、伸び切った髪に両手を差し込んで顔を覆う。
どうして人は、食事と排泄をしなければならないのだろう。そこから解放されさえすれば、わたしはずっと『バタフライワールド』にいられるのに。
トイレから出る。部屋に戻ろうとしたところで、声をかけられた。
「姉貴」
廊下の奥に目を向ける。二つ歳下の弟、守が立っていた。
「また、例のゲームをやってたのか」
弟の表情は険しい。わたしの声はかすれた。
「バタフライワールドはゲームじゃない。わたしにとっては、あっちの世界こそが現実」
「ゲームだよ。こっちの現実を見てみろって。姉貴、ひどい顔してるぞ。せめて風呂に入ったらどうなんだ」
「別にいい。ひどい顔は、生まれつきだから」
「そういう意味じゃないって」
無視して自室のドアノブに手をかけたわたしの手首を、弟がつかんだ。
「そのゲームの、何がそんなにいいんだよ」
「だからゲームじゃなくて、バタフライワールド。あなたにはわからないよ」
「わからないから、教えてくれって言ってるんだろ」
弟が手を離す。わたしは手首をさすった。
「……バタフライワールド、通称BW。蝶の翅が生えた人型のアバター——バタフライたちが生息するVR空間」
わたしは解説を始める。うまくやれば、弟もBWのよさをわかってくれるかもしれない。
「創設者はアメリカ人の青年、ハンドルネームZZ。VR空間上に新たな世界を作ろうと、一人でBWを立ち上げたの」
二〇〇〇年代にはすでに、『セカンドライフ』というサービスがインターネット上の仮想空間——いまで言うメタバースを運営していたと聞く。また、かのスティーブン・スピルバーグ監督は二〇一八年、アーネスト・クラインの小説『ゲームウォーズ』を原作とした映画『レディ・プレイヤー1』を公開、この中に登場する『オアシス』というVR空間もまた、のちにBWが目指したようなメタバースを描き出していた。
その後、新型ウイルスの影響など、さまざまな背景から複数のVRメタバースが立ち上がる中で、BWは開設されると瞬く間に覇権を握った。その最大の理由は、ほかのメタバースとのコンセプトの違いにあった。『セカンドライフ』や『オアシス』といった名前からも想像されるように、ほかのメタバースにおいては、VR空間をあくまでも現実に続く第二の世界として位置づけていた。それに対しBWは、このVR空間こそが現実であるというスタンスを打ち出したのだ。
すべてのプレーヤーが初回起動時に見る映像を、わたしはいまでも思い出せる。真っ暗な闇が、閉じていたまぶたを開くように裂けていく。そこに、次の一文が浮かび上がる。
〈あなたがこれまで見ていたのは、すべて一匹の蝶の夢に過ぎなかったのだ——〉
「BWのコンセプトは『荘子』の胡蝶の夢のエピソードが元になっているの。この現実世界は単なる夢に過ぎず、VR空間の中に本当の世界があるのだというBWの主張は、現実をつらくわずらわしく感じているプレーヤーたちに歓迎され、熱狂的に受け入れられた。BWは一気に成長し、運営母体の『BWLLC』の株式時価総額はいまや、かつてGAFAと呼ばれた巨大IT企業をも凌ぐまでになった。主な収入源は、BWの各所に設置される看板などにより得られる広告収入」
「何が蝶の夢だよ……ふざけやがって」
弟は嫌悪感を隠さない。
「すでに話したように、BWの住人は蝶の翅が生えた人型のアバターたち」
正式リリースの半年ほど前に公開されたベータ版では、アバターは完全に蝶の形をしていたらしい。だがリアル過ぎたその外見が不評で、人型に変更された。
「BWでは、プレーヤーの操作するアバターはバタフライと呼ばれ、年齢、性別、体格、顔、髪、声質、さらには翅に至るまで、自由にカスタマイズが可能。ただし年齢に関しては満足に動けるように五歳から百歳までで、容姿は最低限、設定された年齢に沿ったものに限定されるけど」
「服装はどうなるんだ」
「BW内で用意されているデザインなら、何でも着られる。正確には服を着るのではなく、昆虫が擬態をするように、体の色や形を変えるイメージ。だから着替えるという動作はないし、洋服を保管したり持ち歩いたりする必要もない」
「金がなくても、お洒落ができるってわけだな」
「そもそもBWには、お金の概念がないから」
「お金がないなんておかしいだろう」
「労働の概念もない。虫型のロボットがすべて肩代わりしているから。労働がない以上、対価としてのお金も発生しない。BWには貧富の差なんてないの」
弟はふん、と息を吐く。どうにかして粗を探したいらしいが、BWのシステムは完璧だ。この、どうしようもない現実なんかよりもずっと。
「BWは常に拡大を続けている。正確な広さはもはや測定不能だそうだけど、最近ついに陸地面積でオーストラリア大陸を超えたと聞いた。プレーヤーは地球上の至るところにいる。一番多いのは祖国アメリカで、二位が日本」
「世界各国でプレーされているのか」
「そう。だからBWは午前と午後が十一時間ずつ、一日が二十二時間になっている。現実とずらすことで、世界じゅうのあらゆる人が、さまざまな時間帯を平等にプレーできる仕組み」
「言語はどうなってるんだ」
「高性能の自動翻訳機能があるから、どの国のプレーヤーとも意思の疎通が可能。BWに人種はないし、国家も存在しない」
「思想があれば国家は成立するさ。政党や宗教と呼び換えてもいいけど」
「思想集団なら確かに一定数、組織されている。でも議論を超えた争い、たとえば戦争などは発生しえない。なぜなら、BWでは非暴力が徹底されているから」
「非暴力?」
「文字どおり、他のバタフライには暴力を行使できないという意味」
BWには、バタフライが決して違反することのできない憲法がある。
そのBW憲法の中でもっとも有名であり、多くの住人が諳んじることさえできるのが、第七条の非暴力条項だ。
〈すべての生き物に危害を加えることは、これを禁ず〉
「憲法に明記され、そのとおりにプログラミングされている以上、バタフライは自分自身を含むすべてのバタフライを傷つけることができない。厳密にはバタフライだけでなく、BWに生息する犬や猫などの生き物に対しても同様」
「暴行しようとしたらどうなる?」
「跳ね返される。それだけ」
わたしがマヒトとハイタッチをした際に優しくしたのも、先のレースで優勝したペアが途中で出現した壁に激突せず跳ね返されたのも、この非暴力条項の影響である。
「だからBWには争いがない。あるのはせいぜい口ゲンカ。悲惨な事件や醜い争いにまみれた現実世界の人間たちは、なんて愚かなんだろうと思うよ」
「その愚かな人間たちが、BWでバタフライを操作しているんじゃないか」
そうではない。眠ったときに見る夢が混沌に満ちているのと同じで、現実世界のほうが夢だから、愚かなことをしてしまうのだ。BWでは誰もが清廉である。
「バタフライの操作は、脳波によっておこなわれる。プレーヤーはスタンドアロン型のVRデバイスを頭に着けて、BWにログインする」
デバイスはダイビングの際に用いるゴーグルのような形状をしているが、ゴムバンドではなくテンプルがついており、眼鏡のようにかけるだけでいい。映像を映し出すゴーグルの内部にハードウェアが、テンプルに脳波を感知する装置が埋め込まれており、またテンプルの先端はイヤホンになっているので、これ一台でプレーが可能となる。デバイスは無線充電に対応しているので、プレー中に電池が切れる心配はない。
「プレーヤーはBW内で現実と同じように、いやそれ以上に思いのまま体を動かせる。歩く、走る、飛ぶ。話す、歌う、笑う。デバイスが身体動作に関する脳波を読み取ってバタフライに反映させるから、BWにログインしているあいだ、現実の肉体は動かせなくなる」
だから、旧時代のVRゴーグルのように頭部に固定する必要はない。
「そうなのか……ちょっと怖いな」
「現実の肉体に危険が及ぶのを防ぐため、プレーヤーは背もたれのある椅子に座るかベッドに横になるなど、安定した姿勢でないとBWにログインできないの。姿勢も脳波によって検知されるみたい」
「呼吸はどうするんだ。心臓だって動いてる」
「当然、生理現象はバタフライに反映されることなく現実において継続される。まばたきやげっぷなんかもそう。バタフライは、それらの行為をしない」
ただし、たとえばバタフライは悲しいときに涙を流す。デバイスが感情を読み取り、表情として反映させるらしい。そのほかにもよだれや汗など、バタフライには体液が流れていて、それらを体外に排出することも可能だ。
「ちなみに半身不随の人や手足など体の一部を失った人でも、BWでは欠損のない状態で全身を動かせる。そもそも、人間が持たない翅だって操作できるからね。さっき現実以上に思いのままと言ったのは、そういう意味」
「視覚障害者や聴覚障害者はどうなる」
「残念ながら、プレーヤーはゴーグルで映像を見てイヤホンで音を聞くため、それらの障害には対応していない。現在、BWLLCがさまざまな先端企業に投資して、そのような障害者でもプレーが可能になるデバイスの開発を進めている、とは噂に聞くけど」
「ほかの五感はどうなんだ。嗅覚、味覚、触覚」
「触覚は、ちゃんとはたらくようになっている。でないと体を動かせたところで何もできないから。デバイスによる脳への作用で再現できているみたい。嗅覚と味覚は、ない」
弟の追及がやむ。現実でこんなにたくさんしゃべったのが久しぶりで、わたしは喉に痛みを感じ始めていた。
「気になるのなら、プレーしてみたら。BWがいかに理想的な世界であるか、すぐにわかるから」
「嫌だよ。気味が悪い」
弟が即答したので、わたしは失望した。
「あなたがどんなにBWを拒絶したところで、しょせんは感情論に過ぎないんだよ」
「そんなことない。BWに入り浸りのBW廃人が、社会問題になってる。姉貴だってその一員だ。自分の部屋に引きこもってばかりいないで、少しは世の中と関わりを持てよ」
「BWに行けば、いくらでもフレンドに会える。BWで、わたしは世の中と関わってる」
「病気だよ、そんな考え方は。家族の身にもなってくれよ。父さんや母さんが、姉貴のことをどれだけ心配しているか——」
最後まで聞かず、部屋に入ってドアを閉めた。
子供のころに貯めたお小遣いやお年玉は、VRデバイスとゲーミングチェアを購入した段階で使い果たした。そのゲーミングチェアに腰かけ、ぼんやり天井を見つめる。
重度のBW廃人かつ典型的な引きこもりのわたしの生命維持活動は、同居する家族なくしては成り立たない。父は現在単身赴任中で、母は遠方に住む実親の介護のために家を空けていることが多く、最近では実質弟と二人暮らしのような状況だが、その弟を含む家族にとってわたしはさぞや迷惑な存在だろう。
だが、それを申し訳なく思う気持ちもずいぶん擦り減った。自分を憎むことに疲れ果ててしまって、ほとんど何も感じなくなった。いまはただ、BW内で享楽にふけりながら、ただただ時間が過ぎていけばいいと思う。
わたしはデバイスを装着し、ゴーグルの中にある極小カメラのレンズを三秒間凝視することで——網膜によって個人を識別するそうだ——再びBWにログインした。
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