*
いよいよ、荒城には意味が分からなかった。
先ほどドニは訝しげな表情をした後に『た、ふぁーむ?』と言った。恐らく、荒城のことを心配してくれていたのだろう。だから、大丈夫か? という意味に違いない。荒城は日本語ではあるが、自分はもう大丈夫だと返答した。
さて、問題の『Plus a ce sujet plus tard.』である。
今度は長めの文章だった。ドニはこちらの様子を窺うようにしているので、荒城は『励まされたのだろう』と考えた。
ということは、ドニはこちらの意思を汲み取ろうとしていることになる。とりあえず、荒城は言った。
「伝えたいのは妻のことだ。妻は殺された。犯人は妹の夫だ」
簡潔だったものの、ドニはきょとんとした顔をしている。伝えたいことはこれだけだが、どう伝えていいのかわからない。
せめて『殺された』という単語だけでも分かればやりようがあるのに……と、荒城は歯噛みした。
『Je comprends tres bien ce que vous ressentez.』
ややあって、ドニが返事をした。穏やかな表情からして、荒城の言いたいことは全く伝わっていないだろうな、と思った。翻訳機が壊れて不安に思っているかもしれませんが、航行は上手くいくでしょう、とかそういう内容なのかもしれない。
このままだとまずい。話の展開をどう修正していいかわからないからだ。荒城は焦った。まずは妻が──妻が殺されたことを伝えなければ。自分が『妻が死んだ』ということを知っていると、ドニに理解させなければ。だが、伝えようとすればするほど、荒城の口は動かなくなっていった。
まずは、妻という単語を知らなければ。妻。言葉の通じない相手から妻という言葉を引き出すには──……そうだ。琴音の名前を繰り返せばいいのでは? ドニの元には、荒城の個人情報の載ったデータがあるはずだ。そこに、荒城琴音の名前も載っているだろう。
「琴音……」
荒城はドニのことを見ながら、妻の名前を繰り返す。琴音、琴音。ドニが『琴音はあなたの妻ですね?』と言ってくれるまで、あるいは『妻?』と端的に尋ねてくれるまで。
だが、名前を繰り返している内に、荒城の目からはぼたぼたと涙が溢れ出てきた。
思えば、荒城はこれまでまともに涙を流していなかったのだ。最愛の妻が死んだというのに、七年もの間、悼むことすら出来なかった。圧縮されていた悲しみがじわじわと引き延ばされていき、熱い涙に変わっていく。何かを言わなければならないのに、言葉にならない。これでは、琴音の仇を討つことが出来ないのに。
荒城は涙を拭い、涙目のままドニを見つめた。
ドニは荒城のことを真剣に見つめ返していた。瞳に微かな逡巡の色が浮かぶ。ドニが意を決したように言った。
『Votre femme a ete tuee.』
*
「Je comprends tres bien ce que vous ressentez.(あなたの気持ちはよくわかりますよ)」
そう言った瞬間、荒城は大粒の涙を流し始め、ドニはぎょっとした。荒城のことを安心させるべく、まずは表情で彼の気持ちを和らげようとしただけだというのに。
言葉が通じない相手との会話は、まるで推理ゲームに似ていた。僅かな材料から、相手の伝えたいことを類推するゲームだ。
今度はドニが推理をする番だった。彼の涙が、ドニの推理材料だ。荒城の涙は大粒で、嗚咽している。彼がどうしてこんなにも悲嘆しているのかが、ドニには魂で感じられた。
だから、ドニは言った。
「Votre femme a ete tuee.(あなたの奥さんは殺されました)」
何故かは分からないが、荒城は自分の妻が死んだことを知っていた。これが、彼の奥さんが殺されて初めての通信であるのにも拘らず、である。
ということは、荒城務は何らかの形で妻が殺された事実を知ることが出来たのだ。
つまりは、その手段を荒城は持っている。
もしかすると、夫としての第六感かもしれないが──ドニは配偶者がいないので、その可能性は否定出来ない──どちらにせよ、ここまでして伝えようという意思自体が不自然に感じられる。
何しろ、彼女が殺害されたことは、地球にいる荒城の関係者には知られていて然るべき事実だからだ。荒城の妻が人知れず失踪したのならまだしも、殺されてから七年経っている。死んだこと自体を伝えようとしている……とは考えにくい。
つまり、彼が伝えたいのは殺されたという事実以上のことなのだろう。そう考えた。こうした状況で、人間が明らかにしたいことは一つだ。
「Mais vous, vous savez quelque chose a propos du coupable, non ?(あなたは犯人のことを何か知ってるんですね?)」
──犯人だ。荒城はきっと犯人のことを知っている。
ドニは一つ一つを確実に消去していくことで、荒城の言いたいことを探ろうとしていた。荒城はさっきの問いかけを理解してはいないだろうが、ニュアンスだけは汲み取ったのだろう。一つ頷いて返答をしてきた。
『妻は殺された。犯人は妹の夫だ。カメラに映っているはずなんだ』
欧米圏の言語とはまるで違う文法や単語で構成されている日本語は、ドニにとって異国の旋律のように聞こえる。だが、その中で唯一、聞き覚えのあるものがあった。日本語も英語もフランス語も、響きが殆ど変わらない言葉だ。
「camera?(カメラ?)」
『カメラ!』
荒城が嬉しそうに復唱した。伝わった、ということに感激したのだろう。
ドニは浮かれた。なんだ、簡単なことじゃないか。どうして荒城が妻が殺されたことを知っていたかの説明も付いた。家にカメラを仕掛けて、荒城はそれで通信を行っていたのだろう。
妻が殺される場面を、カメラ越しに見た。それがどれだけの衝撃と悲しみをもたらしたかは想像も出来なかったが、今はありがたかった。
ドニのやるべきことは一つだ。あの家をもう一度家宅捜索してもらい、荒城の仕掛けたカメラを見つけてもらう。そこにはきっと、犯人の姿と犯行の瞬間が収められていることだろう。警察が事件後すぐにカメラを見つけられていたら話が早かったのに、とドニは舌打ちをしたくなった。
ドニは人差し指を立てて、画面の四方八方をランダムに指差す。そして、『camera』ともう一度呟いてから頷いた。カメラを探させる、という意味だ。
ついでに、両手首をくっつけるジェスチャーもする。これで犯人は捕まるだろう。これからの事件の顛末は、地球時間で十数年先にならないと伝えられないが、荒城と妻の無念は晴らせるはずだ。ドニは達成感と満足感に浸った。
だが、荒城は浮かない表情だった。
そして、彼はゆっくりと首を振った。
*
ドニの察しの良さに、荒城は心底感嘆した。
『カメラ』の単語に、犯人逮捕のジェスチャーとくれば、きっとドニは今までのやり取りの大半を理解しているということだろう。荒城の言葉はちゃんと伝わっていたのだ。
ドニは嬉しそうに画面の四方八方を指差し『camera』と言った。きっと、カメラを探させる、という意味なのだろう。そこに犯人が映っていると思っているのだ。
だが、それでは何も解決していない。
何故なら、あのカメラには記録機能が無いからである。
荒城が宇宙へ旅立った後の数十年──琴音の一生分の映像を記録すれば、膨大な量のデータになる。それらを全て記録する為には、大きなカメラにする必要があった。だが、流石にそんなに大きなカメラをリビングに置いていたら目立つし、居心地が悪いだろう。だから、容量は最小限にして、宇宙とのタイムラグが出来るだけ少なくなることに特化したカメラを用意したのだ。
加えて、荒城が数百年──あるいは数千年後に地球に戻ったとしても、全ての記録を見る時間は残されていないだろう。それまで、あの家やカメラが残っているとも思えない。なので、記録機能は省いたのだ。
だから、カメラを見つけただけでは意味が無い。犯人の名前を教えなければ。
荒城は思いきり顔を顰め、悲しそうに首を振った。すると、ドニの顔も一変する。何かがおかしい、と気がついたようだ。
ここまでの流れを見ている限り、ドニはとても察しが良い男だ。ある程度の材料を与えれば、ドニは推理を組み立ててくれる。
『カメラ』に対して悲しい顔をしたので、ドニはカメラが証拠にならないことまで察するはずだ。
ならば、ここで荒城が示すのは犯人が誰かということと、そいつが犯人である証拠だ。
荒城は考えた末に人差し指と中指の二本を立てた。そして人差し指を摘まみ、荒城は言う。
「ファーム」
ドニの反応を見ながら、今度は中指を摘まみ、首を傾げる。
そして、もう一度人差し指を摘まむ。
「ファーム」
中指を摘まんで首を傾げる。
ドニは答えた。
『Mon mari.』
*
「Mon mari.(夫)」と、ドニは言った。
ドニは荒城のジェスチャーの意味を理解していた。
彼は『femme』が『妻』だと理解したのだろう。二本の指の片方が『妻』なら、もう片方は『夫』だ。
ドニは考えを巡らせた。ここで荒城がわざわざ『夫』という単語を聞いてきた意味だ。この時間の限られた中で『夫』という単語を聞いてきたということは、夫が何か重要なのだろう。
あるいは、それが犯人なのか。
ドニは真剣な顔をして尋ねる。
「Le coupable est-il un mari ?(犯人は夫か?)」
この場合、犯人は荒城務本人を表すことになってしまうので、恐らくは荒城琴音以外、別人の『夫』が犯人だと推察出来る。
『mari』という単語を把握してもらったので、そこに真剣な顔をしてドニの問いかけを混ぜ込んだら『犯人』が『夫』であるかと聞いているのか、とは分かるのではないか、と思ったのだ。
荒城が大きく頷き、右手の人差し指を立てた。
そして、左手の人差し指も立てる。
左手の人差し指が、右手の人差し指の下に添えて揺らされた。
ドニはハッとして、モニターに荒城の資料を映し出した。そして、思わずにやりと笑ってしまう。彼を犯人だと示す証拠はないかもしれないが、彼に絞って捜査をすれば、出てくるものもあるかもしれない。
「Le mari de la grande soeur?(姉の夫だな?)」
荒城に伝わったかは分からない。伝わってくれ、と思う。
荒城が目を大きくする。正解だ。
「Je vais prevenir la police.(警察に通報するよ)」
犯人は、荒城務の姉の夫だ。
*
ドニが大きく頷いて「Je vais prevenir la police.」と言うのを聞いて、荒城は心底安心した。最後の『police』というのは、荒城の知っている『ポリス』でいいだろう。となると、警察に言っておく、くらいの意味だろうか。彼の自信ありげな表情を見るに、無事に犯人が妹の夫であることが通じたのだろう。文脈的に、『soeur』が妹という意味に違いない。
とはいえ、妹の夫を洗い直したところで、それが直接逮捕に繋がるかは分からない。荒城は素早く時間を確認した。長距離ワープまでにはあと十分あった。残りの十分で、次は妹の夫をどう追い詰めるかを伝えなければならない。
荒城は必死に犯行現場のことを思い出す。
あの時、妹の夫はどう動いていただろうか。
「……そうだ、あの時琴音は妙な動きをしていた」
あの時は琴音が殺されたことに気を取られてそこまで頭が回らなかったが、彼女が最後にした行動は不自然だった。琴音はわざわざカウチの中に何かを押し込んで隠して……そこで息絶えたのだ。
あの男が犯人であることを示すものだったんじゃないだろうか?
ドニは荒城の言葉を待っているようだった。これから話すことを頭の中で整理しながら、荒城は口を開く。
*
『あの家にあるカウチを調べ直してほしい。あの中に琴音は何かを隠したんだ』
荒城が日本語で何かを言った。しかし、今度は『コトネ』以外に聞いたことのある単語が無かった。
『カウチ、カウチ』
荒城が英語で繰り返す。これだけ繰り返すということは『カウチ』は何か物を──それも、あの部屋にあったものを表しているのだろう。
犯人を示すものが、カウチにはあるのだ。あるいは、荒城の姉の夫はカウチに関係しているのかもしれない。
『カウチ』
荒城の言っていることが分からなかったが、ドニは単語をそのまま復唱し、一つ頷いた。
それだけで、荒城は自分がこの事態を了解したと察したようだった。
さっきの『姉の夫』の件と違い、今回は極めてシンプルである。ドニがここで意味が分からなくとも、警察に『カウチ』と伝えれば──そんなことをせずとも、日本語の分かる人間に『カウチ』と伝えれば済む話なのである。『姉の夫』の犯行を示すものは『カウチ』である。再捜査で何かが見つかれば万々歳だ。そうドニは考えた。
しかし、その些細な謎を脇に置いて、ドニは堂々と言った。
「Je vais examiner le カウチ.(カウチを見てみますよ)」
カウチ、という単語が出たことで、荒城はパッと笑顔を見せた。そして、荒城は両手を揉み合わせ、懐に何かを隠す振りをした。
「Preuve cachee.(隠された証拠)」
なるほどな、とドニは思う。カウチ本体に問題があるのであれば、警察は既に見つけていたかもしれない。あのカウチの中に、荒城琴音は何かを隠して、それが証拠になると言っているのだ。
そういえば、さっき荒城の個人情報を確認した際に、気になる記述があった。そこには荒城務の姉、荒城美雨の勤め先が書いてあった。
どうやら、有名な家具輸入会社のようだった。
荒城美雨の夫が何をしているかは分からないが、──妻と同じ場所に勤めている可能性がある。それなら、そもそもカウチなるものに、秘密が隠されているのかもしれない。ドニはいよいよ納得した。
ドニは事件がもう終わったつもりでいた。
【おことわり:本テキストにはフランス語が使用されておりますが、システム上、正しく表記されていない単語(例・日本語読みで「スール」)がございます。ご了承とご理解のほど、よろしくお願いいたします。(編集部)】
『妹の夫』は全4回で連日公開予定