プロローグ――二人の〈あすか〉

 

「ねえねえ、あすかちゃん!」

 という声に、ついハッとして、

「え?」

 と振り向いてしまった。

 出くわしたのは、「何よ」と、けげんな表情でこっちをにらんでいる目だった。

 もちろん――自分が呼ばれたのでないことはすぐに分った。いや、振り向く前から分っていた。

 それでも、何の理由もなく振り向いたわけではない。なぜなら――。

 彼の名は「あすか」だったから。

 むろん、彼のことを「あすかちゃん」と呼ぶ者はいなかったし、しかも七十代にはなっていようという「おばさん」から呼ばれるはずもなかった。

 それでも、もともとちっとも旨くないコーヒーが半分以上冷めていくのをぼんやりと眺めているところへ、いきなり自分の名を呼ばれたら、何も考えずに反応してしまうのも無理はないと言うべきだろう。

 勘違いとすぐに分って、視線を戻したのだったが、その前に、呼ばれた本来の「あすかちゃん」が、白髪の上品な女性で、着ているものも、一流ブランドのスーツだということに気が付いていた。

「――で、どうなの、暮れの予定は?」

 彼のことは「なかったこと」にされて、そのテーブルでは会話が進んでいた。

 予定を訊かれている「あすかちゃん」は、

「行けるといいんだけど……」

 と、申し訳なさそうに言った。「この暮れはねえ……。色々あって」

 七十代と思われる女性ばかり、四人がテーブルを囲んでいた。

 みんな、余裕のある暮しをしているのは、その雰囲気で分る。更に、会話の中身でも――。

「ハワイはもう何度も行ってるしね」

 と、一人が言った。「あすかちゃんも飽きちゃったでしょ」

「そんなことじゃないわ」

 と、あすかが言った。「私は行きたいと思ってるわ。のんびりできるしね」

「じゃ、息子さんの方が、まだ落ちつかないの?」

「――それもあるわ」

 と、あすかは肯いた。「別れるのかどうか、はっきりしないのよ」

「息子さん、家を出ちゃった、って言ってたわよね」

「そう。彼女の所に泊るつもりだったらしいけど、1DKのマンションじゃね」

「あらまあ」

「しかも、その1DKが散らかってて、足の踏み場もないくらいだったそうだから、息子もびっくりしてね。家出してまで彼女と一緒になったものが、今さらのように迷ってるみたいよ」

「それなら、却って良かったんじゃないの? 奥さんとやり直す気になったでしょ」

「でも、加代さんは相当頭に来てるからね、簡単には亭主を許さないと思うわよ」

 と、あすかは言った。「徹は彼女のマンションには一晩泊っただけで、私に電話して来たのよ。『母さんの所に泊めてくれ』って。とんでもない話よ。〈いこいの園〉はホテルじゃないんだから」

「じゃ、息子さんは今……」

「どこかのビジネスホテルに泊ってるみたいよ。でも、着替えだって、ろくに持って出てないから、困ってるでしょ。加代さんに土下座してでも、家に戻るしかないと思うわ」

「あらあら」

 と、他の女性たちが笑った。

「男って、いつもお風呂を出ればちゃんとそこに着替えが置いてある、って生活に慣れちゃってて、誰がそれを置いてるか分ってないのね。自然にパンツが湧いて来るとでも思ってるのだわ」

 と、あすかは言った。「ともかく、そんな状態でね。徹のところがどうなるか分らないの。私も落ちつかないから、一応、この暮れはあそこでのんびりしてるつもり」

 ――〈いこいの園〉か。

 いかにも高級老人ホームって名前だな、と男の方の「あすか」は話を聞いていて、思った。

 他にすることもないので、老婦人たちの話を聞いていたのだが、あえて耳を澄まさなくても、声が大きいので、耳に入ってくる。

 彼の方は、しかし、「あすか」といっても、漢字の「明日香」。

 久米明日香は今、五十歳になったところである。それも今日が誕生日だが、誰も祝ってはくれない。

「――じゃ、ディナーでもしましょうよ」

 と、一人が言った。「誰か新しいお店、開拓した?」

「私、先週〈S〉に行ったわ。ミシュランの星がついたでしょ」

「いいわね。じゃ、そこで、ディナーはどう? 予定は?」

 みんな一斉にバッグから手帳を取り出す。

「私、○日と○日はだめ」

「木曜日は体操教室が――」

「〈S〉は日曜日お休み?」

 ――ディナーの約束か。

 久米明日香は苦笑した。夕飯の仕度などしない連中なのだろう。お手伝いさんとかがいて……。

「ディナーのコースが三つあってね、やっぱり〈スペシャル〉が美味しいわよ。でも、シャンパン付きで五万円だから、そう高くないし……」

 久米明日香は思わず目を丸くした。

 ディナー、五万円? 一人当り、だよな。

 その値段に、「高過ぎる」と言う者はなかった。

 そんな生活をしてる奴がいるんだ! ――俺は五百円の弁当だって買うのに度胸がいるっていうのに。

 その内、話は「金」のことになった。むろん、ディナーの予定が決ってからである。

「あてにならないわよ。今は銀行なんて」

 という意見に、他の面々も同感の様子だった。

「結局、タンス預金が一番確かね」

 と、あすかが言った。

「そうそう、やっぱり現金が頼りになる」

「〈いこいの園〉でも、大勢いるわ、タンス預金してる人が」

 と、あすかが言った。「セキュリティがしっかりしてるでしょ。だから変なものに投資したりするより、よほど安全」

「いいわね、やっぱりいい施設は」

 ――くり返すが、久米は、その女たちの話に耳を傾けていたわけではない。話の方で、勝手にやって来たのである。

「そうか……」

 久米は口の中で呟いた。

 タンス預金。大勢いる……。

 これだ! ――ぬるくなったコーヒーを、気にせずに飲み干した。

 だらけ切っていた久米の体に、血が駆け巡り、エネルギーが燃え立って来た。

 今日、この時間にこの店にいたのは、正に運命だ。――そして、この席に座ったのも。

「あすかちゃん、寂しくないの? 年末年始って、人がいなくなるんでしょ」

「平気よ。私、もともと一人でいるのが好きな性分だから」

 と、あすかは言った。「職員の数も減るし、静かになるのよ、園そのものが。なかなかいいわよ」

 ――静かになる。

 それは何よりだ。まず、あの「あすかちゃん」の後を尾けて、〈いこいの園〉の場所を確かめよう。

 体の内に、「やる気」が溢れて来た。

 そう。――何しろ、久米明日香は、泥棒なのである。

 

「たそがれの侵入者」は全3回で連日公開予定