妹の夫
五度目の短距離ワープが終わった。
荒城務は広大な宇宙を前に、深く息を吸い込んだ。この船の外側に広がるのは、完全なる真空である。人類の夢と期待で出来た殻に籠もり、荒城は遥か彼方へと旅立って行く。既に地球の姿は見えなかったし、荒城が再びそれを見ることや生きてその土を踏むことも無い。
突然、腹の底が破れるかのような孤独に襲われ、荒城は計器の傍らにあるモニターに目を向けた。
そこには、妻の琴音が掃除をしているところが映っていた。
琴音の趣味は気分転換に掃除をすることなので、ただ雑巾掛けをしているだけでも楽しそうだった。もしかしたら部屋には琴音の大好きなジャズが流れているのかもしれないが、荒城はそれを聴くことが出来ない。このモニターが受信出来るのは、映像だけなのだ。
琴音、と小さく呟いてみる。当然ながら、荒城の声は向こうには聞こえない。だが、それから数分経って、琴音がこちらを向いた。琴音は荒城に向かって軽く手を振り、にっこりと笑ってみせた。まるで心と心が通じ合ったかのような様子に、荒城の鼓動が高鳴る。
荒城は、愛する妻とももう二度と直に会うことが出来ない。この小さなモニターに映る彼女の姿だけが、荒城が見ることの出来る最愛の妻の姿だった。
時計を確認すると、最初の長距離ワープが三十分後に迫っていた。その次の長距離ワープは更に二十分後である。荒城が妻と触れ合える時間は少ない。
掃除を終え、カウチに座り本を読む琴音を見ながら、荒城は彼女との会話を思い出していた。荒城がこうして宇宙に旅立つ前の会話だ。
「もう少し分かりやすく教えてくれる?」
クッションを抱えながら、琴音は少しばかり頬を膨らませて言った。「もう少し分かりやすく」が口癖の彼女は、荒城の説明を回りくどいと言う。
どうしたらいいものか、と悩んだ荒城は、近くにあったストレッチボールを手に取った。
「うーん……このボールがあるだろ」
荒城はそう言いながら、ボールをぐにぐにと指先で押した。ボールは先ほどの半分の厚さにひしゃげてしまう。
「宇宙を、このたくさんのボールで埋まった巨大なプールだとする。自分が向かおうとしている先にあるボールを、こうしてギュッと押し潰して圧縮する。そうすると、自分の前にあるボールの周りには少し余裕が出来るから、そのボールが伸びる」
荒城は、ボールを餅のように平たく引き伸ばした。
「こうしたことが行われると、周りのボールも動くだろ」
「うん。ぎっちり詰まっているんだもんね。それは分かる」
「そうなると、ボールプールの中で波が生まれるんだ。この波は力強くて大きい。なんてったって空間に影響を与えるくらいの力がボールに掛かっているんだからね。この波に乗って宇宙を進めば、今までとは比べものにならないくらい速い速度で、船は海を渡れる。凪いだ海だと、漕いだ分しか進まないだろう?」
「理屈は分かったわ。つまり、今回の実用化で人類は、宇宙という名の海に波を起こす技術を手に入れたんだね。まるで芭蕉扇みたいに」
根っからの文系で理系科目にはとんと弱い琴音ではあるが、理解は早い。彼女はうんうんと頷くと、荒城の方を見つめて話の続きを促した。ややあって、荒城は続ける。
「……この理屈自体は随分前に考え出されて、実用化の算段がついたのが四十年ほど前。第四次エネルギー革命が起こった頃だ。……これで人類が宇宙の遥か彼方まで辿り着く、というのが夢物語じゃなくなったのが五年前。そこに本腰を入れてキャスティング出来るようになったのが、一年前」
「……それで、オーディションの終わりが今日。私の夫は、見事ジョバンニ役を射止めることが出来た。宮沢賢治もびっくりね。銀河鉄道が本当に実現するなんて」
話が飲み込めてきた琴音の顔が、段々と真剣なものへと変わっていく。ここから先を伝えるのが躊躇われた。けれど、避けては通れなかった。
「予定では三六〇光年先への航行が可能だ、という結論に至った。俺は宇宙船に乗って、航行データを二十四年に渡って地球に送信し続ける。勿論、そのデータがどのように扱われるのか、果たしてそんなことが可能なのかすらも分からない。ワープを繰り返し続ける初の有人長距離航行だからな。どうなるかなんて誰にも分からないんだ。だが、確実に言えることが一つある」
琴音の瞳が大きく揺れた。
「俺は、生きて地球に帰ってこられるかも分からない。帰ることが出来たとしても、恐らく君にはもう会えない」
「…………そう……そういうことに、なるのね」
「ああ。……有名な、浦島太郎のお話だ。俺がワープを繰り返して宇宙の果てに向かっている時に流れる時間と、その間地球で流れる時間は同じじゃない。俺は遥か未来へと旅立つことになるんだ」
荒城は、この日初めて単独有人長距離航行のパイロットへの選出を報された。ずっと希望は出していたが、倍率は相当なものだった。荒城が選ばれたのは能力もさることながら、かなり幸運だったと言っていい。
喜べたのは一瞬だった。このミッションに挑むということは、結婚して三年も経たない妻との永遠の別れを意味していたからだ。
「俺がこのミッションを受けたら、君は一生涯年金を貰えることになる。今の給料と同じくらい──いや、少し多いくらいの額だ。だから生活の心配は無い」
「そんなこと私が心配すると思う? 私だって働いてるのに」
「ああ、そうだな。こんなのは問題じゃない。問題なのは──……」
向き合うのが怖くて、どうでもいい枝葉の話をしてしまった。問題なのはそんなことじゃない。琴音の肩が微かに震えている。
「……俺の他にも、ジョバンニは四百名程度いる。極めて大規模なミッションだ。俺が抜けても問題は無い。それに、降りてもいいって予め言われてるんだ。どうしても片道切符で宇宙に行けない人間はいる」
「……私が行ってほしくないって言ったら、貴方は諦めるの?」
「ああ、そのつもりだ」
荒城はきっぱりと言った。
「ここにあるのは、完璧な生活なんだ。琴音がいて、毎日穏やかに暮らせて……それを捨ててまで暗く冷たい宇宙に行くのは、死ぬくらいの勇気が要る」
「でも、夢だったんでしょ?」
琴音の言う通り、有人長距離航行は長年の夢だった。太陽系外の世界に行くことが出来れば、きっと自分の想像を超えたものが見られる。人類が生きていた証を、この宇宙の果てに打ち立てることすら出来るかもしれない。そう思って、荒城はこの世界に飛び込んだのだ。
だが、その夢ですら琴音の為なら捨てることが出来た。何しろ、荒城は彼女と暮らすこの生活を、この幸せを知ってしまった。琴音ともう二度と会えないと考えるだけで足元がぐらぐらと揺れ、確かなものが無くなってしまいそうな不安に襲われる。
「俺はもう三十三だ。あと二年もすればN28──研究専門の部署に異動することも出来る。そこに配属されたら、琴音と離れるようなこともない」
「……前に言ってたキャリアのエリートコースね」
「それはそれでやりがいはあると思うんだ。人類の旅を裏方として支えるというのも」
そう言って、荒城は琴音の返答を待った。
ただ一言、琴音が「行ってほしくない」と止めてくれたら。荒城はむしろその言葉を待っていた。そうすれば、宇宙をきっぱりと諦めることが出来るだろう。
長い沈黙の後、不意に琴音が言った。
「One of the basic rules of the universe is that nothing is perfect. Perfection simply doesn't exist. Without imperfection, neither you nor I would exist.」
耳慣れない言葉に、荒城はきょとんとした表情を浮かべた。
「どういう意味だ?」
「ふふ、どういう意味だと思う?」
琴音は悪戯っぽく笑って尋ねた。
「わかるわけないだろう。翻訳機も作動させてないし。えーと、今のは……」
「英語よ。昔は英語は必修科目で、英語帝国主義なんて呼ばれていた時代もあったっていうのに。今では随分ささやかな存在になっちゃったわね」
「英語か……仕方ないだろ。これだけ技術が発達したら、外国語を学ぶ意義なんてなくなる」
荒城が産まれる十数年も前に、翻訳機の進化は頂点に達した。通信機器を使う時は常に翻訳機が通されるようになり、普段出歩く時も、耳や首に掛ける形の翻訳機を用いるのが普通となった。勿論、外国語が学生の必修科目になることもない。
「どれだけ翻訳機が発達しても関係無いの。翻訳するっていうのは、言葉を違う国の器にただ移し替えていくってだけのことじゃないの。そこに訳者の心を入れる作業があって、初めて翻訳になるんだから」
「じゃあ、翻訳は今じゃ芸術に近いな」
「そうかもしれない。私は芸術家なの」
そう言って、琴音が荒城にじゃれついてきた。
彼女の職業は、今では珍しい翻訳家だった。
機械翻訳の精度が極まった分、翻訳家の仕事はむしろ言葉の解釈をすることに比重が置かれていた。より深く、より話者の感性に寄った翻訳によって、原文に込められた意味を引き出す作業だ。
荒城には彼女の仕事の詳細も、外国語のことも分からなかったが、だからこそ一定の敬意を払っていた。実際に彼女の訳文を読むと、言葉の瑞々しさに驚かされた。
「さっきの言葉はホーキング博士の言葉だよ。『完璧なものは何一つない。それが宇宙の揺るぎない法則の一つだ。この不完全さがなければ、私達は存在しなかった』」
「……なんでその言葉を?」
「夢を諦めて私といても完璧な生活じゃあない。心に従って地球を離れて、私と会えなくなるのだって完璧な生活じゃあない。どちらにせよ完璧な生活じゃあないんだから、……だったら、夢を叶えてほしい。人間は自分の人生を一度しか生きられない。なら、貴方は宇宙の果てに行くべきなの」
琴音はそう言って、荒城のことを抱きしめた。
「……でも、もう二度と、貴方に会えないなんて信じられない」
「俺もだよ」
「ねえ、七夕ってあるでしょう。仕事を一年頑張ったら、織姫と彦星は一日だけ会うことが出来るの。私達はそれも出来なくなるんだね。ふふ、遠いね」
琴音は殆ど泣き笑いのような調子で言った。自分をこと座のベガ──織姫に見立てて、この状況を冗談にしようとしているのだろう。それを見て、荒城はいよいよ堪らなくなった。
「本当は、俺の方が耐えられないんだ。本当は琴音と離れたくない。俺の方が……」
荒城も琴音のことを抱きしめたまま、しばらくじっとしていた。
この会話の後、荒城はふと妙なことを思いついた。
地球から数光年の距離であれば、自宅と宇宙との通信のタイムラグも数日で済む。そこから更に数十光年となれば話は変わってくるだろうが、少なくとも太陽系内であれば──出発から数週間の間は、家に設置したカメラの映像を、宇宙船に飛ばせるのではないか?
「私のことを撮影したいの?」
「ああ。どのくらい届くものか分からないし、こっちから琴音の方に映像を送るのはコストが掛かりすぎる。だから、一方的に琴音の映像を見せてもらうことになるけど……」
「それは声も入るの?」
「声まで入れると、タイムラグが大きくなる。映像だけになるな」
少しでも長く、琴音の姿を見ていたかった。宇宙に琴音を連れて行きたかった。
荒城は元々、工学経由でこの仕事に就いた人間である。自分の船を少しくらい改造するのは簡単だった。
「いいよ。むしろ、そうしてほしい。私のことも、宇宙に連れて行ってほしい」
琴音は大きく頷いて、カメラの設置位置を決めた。荒城と琴音が二人でよく過ごしていたカウチの正面だ。
荒城の目論見は成功した。おかげで、荒城は琴音の姿を見ながら宇宙を旅することが出来ていた。通信状況で数時間から数日のラグが生じるものの、モニターの中にいるのは間違いなく生きた琴音だった。
これから空間圧縮──荒城が進む方向の空間を圧縮し、地球と船との間の空間を引き伸ばす──による長距離ワープを行えば、地球とこの船との時差は広がる。タイムラグも大きくなるだろう。いつか、このカメラは使い物にならなくなる。
だが、たとえ一時の慰めであっても、この映像は荒城のよすがとなったのだった。
「琴音……」
妻の名前を呼びながら、モニターに指を滑らせる。もしかしたら、これが最後に見られる琴音の姿かもしれなかった。琴音はじっと座って本を読んでいた。
部屋に来客があったのは、その時だった。
琴音がフレームアウトをして、手袋をした男と戻って来る。琴音は見るからに嫌そうな様子で、彼と距離を取って話をしていた。何が起きているんだ?と荒城は疑問に思う。男は男で、琴音のことを睨んでいた。
やがて、琴音が男と言い合いをし始めた。琴音は何度も首を振って、男を拒絶しようとしていた。見慣れたカウチの前で、琴音が不安そうにカメラの方を見た。荒城の胸がざわつく。もし荒城が地球にいたら、こんな男はすぐさま追い払っていただろう。
だが、荒城は遠く離れた宇宙で、妻が不安そうにこちらを見ているのを、黙って受け止めるしかなかった。琴音に一体何が起こっているのだろう。そして何より、この男は誰なのだ?
琴音が更に口を大きく開け──恐らくは声を張り上げると、男が信じられない行動に出た。
琴音を殴ったのだ。
琴音の身体はカウチまで吹き飛んだ。荒城の頭に血がカッと上る。この状況でもなお、琴音は男に向かって何かを言い返し、よろよろと立ち上がった。その様は勇ましかったが、荒城は途方もない不安に襲われた。
男は琴音の方を見つめ、懐から何かを取り出す。
銀色に光るナイフだった。
気丈に言い返していた琴音の表情が強張り、琴音は逃げ出そうとする。だが、それよりも早く男が琴音の脇腹にナイフを突き刺した。
心臓が凍り付くような心地がした。
刃渡りが短いものだったからだろう。刺されてもなお、琴音はしばらく抵抗していた。男と琴音が揉み合いになる。だが、琴音の身体からは徐々に力が抜けていき、やがて頽れる。
カウチの前の床に倒れた琴音を数秒見つめてから、男がフレームアウトする。ややあって、倒れた琴音がずるずると床を這い、カウチにもたれ掛かるようにして何かを隠すような仕草をした。そしてそのまま床に崩れ落ちると、今度は本当に動かなくなった。
一分ほど経って、琴音を殺した男が戻ってきた。男は琴音の死体を見下ろすと、部屋を荒らし始めた。
そこでようやく、この男が誰なのかを思い出した。
琴音の妹の夫だった。
前に、一度だけ挨拶をしたことがある。親族の飲み会か何かで──琴音の妹に紹介された。彼は明らかにつまらなそうな顔でこちらを見て、早口で名乗ったのだった。
琴音は妹と仲がよくなく、その時もあまり会話をしていた記憶が無い。妹夫妻はそれからさっさと帰ってしまったので、印象が薄い。
ただ、琴音が殺されるところを見た瞬間、全てがフラッシュバックした。挨拶をした時の、こちらを見下すような目。嫌な声の響き方。全く笑っていない引き攣った口元。男はどう見ても、あの時の妹の夫だった。
だが、記憶の引き出しから肝心の名前だけが出てこない。あいつは妹の夫。妹の夫の名前は、何といったか。
あ……から始まる名前だったようにも、う……から始まる名前だったようにも、凡庸な名前であったようにも、珍しい名前だったような気もする。あの男を思い出す時に出てくるのは不快な印象だけで、それ以外が何一つ分からないのだ。
荒城は思わず計器を叩いた。こんな重要なことだというのに、自分はどうしてこうも役に立たないのか。
いくら考えても、あの男に琴音が殺される理由が分からなかった。何かトラブルがあったのか、一方的な想いが募った末なのか、金銭目的なのか。荒城に分かるのは、琴音が妹の夫に殺されたという事実だけだった。
手の甲で涙を拭うと、船体が大きく揺れた。このタイミングでか、と荒城は絶望的な気持ちで思う。琴音が殺された直後、初めての長距離ワープに入るのだ。
これで、地球との距離は更に離れるだろう。タイムラグも大きくなる。画面からは、いつの間にか妹の夫の姿が消えていた。残されたのは、背中をこちらに向け、床に転がる琴音の死体だけだった。琴音の死体はもうカメラを見ることも、ましてや手を振ってくれることもない。
琴音を殺したあの男を捕まえなければ。遥か遠い宇宙にいる自分が、どうにか犯人のことを知らしめなければ。
焦る荒城の気持ちとは裏腹に、ワープの準備は着々と整っていく。荒城は殆どパニックに陥っていた。長距離ワープの前に確認しなければならないことは一体何だった? いや、そんなことをしている場合じゃない。ワープの前に、地上ステーションにいる人間に琴音を殺した犯人のことを誰かに伝えなければ。
『間もなく長距離ワープに入ります。確認はよろしいですか?』
機械音声が流れる。確認? 確認とは何だっただろうか?
「確認はいい! 地上ステーション本部に繋いでくれ!」
『長距離ワープまで残り三分です。確認はよろしいですか? 現在、プロセス2までしか行われていません』
「確認キャンセルだ! 通信機能を作動させてくれ!」
『処理を中止しています。長距離ワープは高次命令です。二名以上の権限者の承認が下りなければ中止出来ません』
荒城にはもう手立てがなかった。荒城はぼんやりと妻の死体を見つめながら、まともなプロセスを踏むこともなく長距離ワープを迎えた。世界が軋んでいく音が、脳に響いたような気がした。
『妹の夫』は全4回で連日公開予定