*
「本当にありがとう、ありがとう……。これであの男が捕まれば、琴音も少しは……報われるかもしれない」
対する荒城も、全てが終わったような気がしていた。勿論、カウチから何かが見つかる保証は無い。だが、カメラの存在と荒城の証言を合わせれば、警察も一度は再捜査をしてくれるかもしれない。おまけに、事件全てを洗い直して欲しいと言っているわけじゃない。荒城が言及しているのは、琴音の妹の夫ただ一人である。
全てを伝え終えた後は、天命を待つしかない。そう荒城は考えていた。
感謝の気持ちを伝えるべく、ドニに向かって頭を下げた。頭を下げるのはドニにも問題無く通じ、ドニは優しい微笑みを荒城に向けてきていた。この十五分ほどで、荒城はドニに奇妙な友情を感じていた。
長距離ワープの一分前には、この通信は切れてしまう。徐々に通信にかかるリソースを切っていき、空間圧縮に備える為だ。
それまでの約三分を、ドニと親交を深める為に使おう。と、荒城は考えた。
「実は、俺には姉がいるんだ。妹がスールなら、姉はどう言うんだろうな?」
スールという単語だけは聞き取れたのだろう。ドニが不思議そうな顔をしてから頷く。これだと妹がいると勘違いされそうだな、と荒城は思った。ドニの返答を待たずに、荒城は続けた。
「ドニ、スール?」
ドニに向かって人差し指を向けながら、荒城はそう言った。ドニに妹はいるのか? と聞いたつもりだ。ドニは大きく頷いた。
『J'ai une grande soeur et un petite frere.』
スールという単語が聞こえたから、きっと妹がいますと答えたのだろう。
「ドニ、スール、何?」
これは、ドニの妹はどんな人間か、を尋ねたつもりだ。何、という言葉を口にした時は、『夫』『妻』の時と同じように首を傾げてもみた。すると、ドニは少し考えた後、ちらりと上の方に視線をやった。そして、空中を殴る振りをしてから言う。
『brutal』
思わず荒城は笑ってしまった。言葉が分からなくても、妹が乱暴者であることは伝わってきた。ドニもふっと表情を緩めている。
『Il a travaille ici.N28』
「ああ、N28……ってことは、妹さんはそこで働いてるってことか? なるほど、妹さんも同じ仕事だったんだな……」
ドニが頷く。荒城が理解して返答していると分かったのかもしれない。ややあって、ドニは尋ねた。
『Quel genre de personne est votre femme?』
『femme』の意味は学習済みだ。荒城が妹について質問したように、ドニも荒城の妻について尋ねてくれているのだろう、と思った。そうでなければ、ドニがそんなに優しい顔をして尋ねてくれるはずがなかった。
「……優しくて、賢くて、強い人だった」
荒城は一言一言を噛みしめるようにして呟く。
それを聞いて、ドニもまた、頷いた。
ドニは大きく息を吐くと、荒城に向かって親指を立てた。激励のサインだ。荒城も親指を立てて応じる。
あとは、目の前の男に託すしかなかった。
その瞬間、音声通信が途切れる。ドニが手を振っているのが見えた。彼とはもう会えないかもしれない。十数年ならいざ知らず、数十年経てば間違いなく彼は離職している。おまけに、人間はいつ死ぬかも分からないのだ。
そう思うと、琴音と死に別れたのと同じくらい寂しい気持ちになった。
荒城はドニに手を振った。ドニの姿がゆっくりと消える。ここからはテキストしか送れなくなり、数字しか送れなくなり、最後には完全に通信機能が停止する。
最後に何かメッセージでも打とうか悩んだのだが、ドニに伝えたいことが多すぎて──結局止めた。充分に長い文章を打てるほどの時間は無いし、そもそもフランス語の文章は打てない。
並べた数字に意味づけをして、メッセージを送れると聞いたことがあった。というより、昔のインターネットスラングにそういったものがあった、気がする。8を並べて拍手を表すのは、ドニに通じるのだろうか。
そんなことを考えている内に、テキストも数字も送れなくなり、荒城はただ、本部と繋がっていることを示す、グリーンランプを見つめることしか出来なくなった。
荒城はふと、有人長距離航行のミッションに参加していない自分のことを想像した。二年後には、ドニの妹と同じN28に配属されていたはずだ。そうすれば、ドニともドニの妹とも仲良くなっていたかもしれない──。
途端に、フラッシュバックのように荒城の脳内に閃くものがあった。
ドニの妹がN28にいるはずがないのだ。
あそこは、ある程度のキャリアを積んだ職員が行く部署だ。ドニが三十半ばであれば可能性は無くもないが、ドニは明らかに荒城より年下、二十代に見えた。
ドニが三十代半ばであると考えるより、彼が話していたのが姉であったという可能性を考えた方が、まだ現実的に感じられた。
それに、よく思い返してみれば、ドニは『妹』のことを話す時に、視線を上に向けていた。乱暴者であった彼女を思い出す時に、である。
あの冗談めかした口振りからして、『妹』の乱暴は子供時代の話だろう。子供の頃、ドニは『妹』を見上げていたのだろうか……?
もしかすると、スールは『妹』ではなく『姉』を表す単語なのかもしれない。
いや、スールは『妹』でもあり『姉』でもあった、というのも成立する。英語を主に訳していた琴音から、そんな話を聞いた覚えがあった。日本語では『姉』と『妹』は別の漢字だが、英語は両方とも同じ単語で、区別する場合はその単語に修飾語のような単語を付けるのだと……。ドニは、スールの前に何かを付けていなかったか?
心臓が嫌な音を立て始めた。ただ単に、ドニの姉を妹だと荒城が勘違いしただけなら良い。
──この勘違いが、別の場所でも起こっていたとしたら?
冷汗と共に、荒城は正解に辿り着いていた。
ドニは犯人のことを、『妹の夫』ではなく『姉の夫』だと解釈していたのかもしれない。震えながら、荒城はそう考える。
荒城は両手の人差し指を縦に並べることで、妹のことを表したつもりだった。上にした右手の人差し指が琴音で、揺らした左手の指が妹である。『スール』という単語を後からドニが出していたので、弟と勘違いしたことはないだろうと思いながら。
だが、ドニは全く別の解釈をしたのだ。
ドニは揺らされた指の方を、「これが私です」というような意味で荒城だと解釈した。そして、上に配置された人差し指が姉だと思い込んだのだろう。思えば『Le mari de la grande soeur?』と尋ねてくる前、ドニは視線を外した。あの時、ドニはデータベースにある荒城の個人情報を確認したのではないか?
データベースの中にあるのは、荒城の情報だけである。勿論、配偶者の存在には触れられているだろうが、琴音の家族構成までは載っていない。データベースで確認出来るのは、荒城の家族構成だけだ。それにもっと早く気づくべきだった。
あと数秒しかない。この驚いた顔だけで、ドニは察してくれるだろうか? 何か予想しないことが起こり、荒城の想定が覆されたことに気がついてくれるだろうか? 衝撃を受けた荒城の顔だけで「姉の夫と妹の夫の取り違え」を悟ってくれるかに賭けるしかない。
本当にそれでいいんだろうか? ここから先、地球に流れる十数年。隔てられる数百光年を思っても、この数秒を無駄にすることは出来ない。音じゃなく、映像でもなく、それでも琴音の妹の夫が犯人だと伝える方法はあるだろうか?
荒城に使える言葉はもう何一つ無い。日本語すら、もう使うことが出来ないのだ。
そう思った瞬間だった。
荒城の手は、今日一度も使っていない言葉に向かって、彗星のように伸びていった。
*
ドニはそれを、計器の故障だと思った。何らかのトラブルがあり、通信機能に障害が生じた。だから、荒城は映像が切れる直前に狼狽した表情を浮かべていたのだろう。
荒城からの通信を示すグリーンランプが一度消え、また点き、また消え、また点き、更に消え、最後にまた点いた。短時間に三回も通信が途切れ、そして復帰したのだ。計器の故障としか思えなかった。
だが、それにしては点滅が等間隔であることが気になった。あれではまるで……意図的に不調を引き起こしているような……もっと言うなら、荒城が自分で電源を入れたり切ったりしていたような気がする。それは何の為だろうか?
荒城はドニに伝える為に、ありとあらゆる手段を用いていた。全てのものが、荒城の言葉だった。それなら、この不調にも荒城の言葉が含まれているのではないだろうか?
ドニはさっきのグリーンランプの点滅のリズムを指で打つ。等間隔に三回。宇宙に関わる仕事をしているからだろう。ドニにとってそれは、星の瞬きだった。
瞬間、ドニの脳内に閃光が走った。
*
長距離ワープを終えても、荒城の心臓はどくどくと脈打っていた。頭が割れるように痛いが、身体に深刻な不具合が起きているわけではない。成功したのだ。
今度は宇宙船に損傷が見受けられなかった。だが、相変わらず翻訳機の方は不調のようだ。直るまでにはまだかかる。地球では数十年経っているが、きっと本部は、日本語の通じる人間を荒城の担当通信官に据える方向で調整したことだろう。荒城は、程なくして行われる顔合わせのことを思った。
長距離ワープ明けの痛む頭は、されどぐるぐると気丈に回転を続けていた。思い起こすのは、あの最後の数秒のことである。
言葉が通じること、ジェスチャーが使えること、そのどれもがとても贅沢なことであると、荒城は最後の数秒で身に染みた。あそこで「琴音」と叫ぶことが出来たら、ドニは必ず自分達の間にある勘違いに気がついたはずだ。
だから、代わりに叫んだ。
荒城は最後の瞬間に、一‐一‐一のリズム──三拍子のリズムで通信を切り、再度入れた。ドニからは、通信中を示すグリーンランプが明滅しているように見えただろう。電源が入ったり消えたりしている様は、機械の故障に見えたかもしれない。
だが、これが意図的なものだと伝わったなら、同じリズムで三点、ということに、ドニはどんな意味を見出してくれただろうか。これが真っ新な状態で見た三回の明滅であれば、きっとドニでも分からなかっただろう。
だが、もしドニが想像力を働かせてくれたなら──その三拍子が、三角形を示していることに気づいてくれたかもしれない。
宇宙にある三角形で最も有名なものは、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル、こと座のベガで構成される夏の大三角形だ。
幸い、地上にいるドニには時間がある。ドニは夏の大三角形をフランス語と日本語で調べ直すことが出来る。ドニは絶対に荒城の伝えたいことを汲もうとしてくれる。
ベガが日本語でこと座であることを知ることが出来れば──そこまで辿り着けばドニは──こと座──琴音を連想するはずだ。
最後の数秒、荒城は音でもジェスチャーでも、琴音の名前を示す言葉を送ることが出来なかった。そんな状況下で、わざわざこうして迂遠でも琴音の名前を示したがったことに、ドニは想いを巡らせるに違いない。
土壇場で妻の名前を送ってきた荒城は、何を伝えようとしていたのか。映像が途切れる瞬間に見せた数秒の逡巡の先に、一体何があったのか。あのドニならきっと推理をしてくれる。
荒城は祈るしかなかった。もしかしたら、最後のメッセージが無くても、ドニは勘違いに辿り着いたかもしれない。もしくは、勘違いに気づき、ちゃんと犯人が名指し出来ていたにもかかわらず、妹の夫は逮捕されなかったかもしれない。
外は果てしなく続く暗黒の宇宙だった。それを見ながら、荒城はドニと過ごした二十分間を思った。コミュニケーションとは、この暗黒の中に言葉を投げ込むことに似ていて、通じることの方が奇跡のように感じてしまう。
荒城には、あれからどうなったかも知ることが出来ない。早く通信が復活してくれれば、と思う気持ちと、答え合わせをしたくない気持ちが入り混じる。
徐々に宇宙船がスタンバイモードに入り、どのくらい地球と離れた地点なのかを教えてくれる。ここは地球から六百二十一光年。既に、荒城が地球を出発してから七十四年が経っていた。ドニとコンタクトを取ってからも六十七年が経っている。きっと地球の様子も様変わりしているだろう。
犯人である妹の夫も、きっと死んでいる。
本部との通信機能が回復するより先に、近くのモニターが起動した。……驚いたことに、家にあったカメラの通信機能は生きているようだった。
しかし、画像はとてつもなく粗い。何が映っているのかもわからない。タイムラグも相当あるようだ。この調子だと、一ヶ月ほど遅れて映像が届いているんじゃないだろうか。これからどんどん、カメラと宇宙船との距離が開いていく。
あのカウチで、のんびりと過ごしていた琴音の姿を思い出した。
荒城の体感時間では、まだ一日も経っていない。その間に、荒城は彼女との永遠の別れを二度も体験したのだ。彼女の一生を目まぐるしく消費し、荒城は狂おしいほど自らの心を引き裂いた。
それでも、遥か彼方からぼんやりと映るモニターを見ていると、心が安らぐのを感じた。そうして更に数分待っていると、画像がはっきりとした形を取り始めた。
そこは、二人で暮らしたあの家ではなかった。映っているのは、荒城の知らない場所だった。屋外で、白い画面は日差しを反射していたらしい。画面の真ん中を、何かが占拠している。
どうやら墓のようだった。荒城の知らない花が墓前に供えられている。墓石に刻まれている文字すら読めないくらいだったが、荒城はそれが琴音の墓であることを直感した。
ドニが、ここにカメラを移動させてくれたのだろうか。
カメラがどんな状態になっているのかも分からないが、これをやってくれたのは、絶対にドニだと思った。そうとしか考えられなかった。
これを見た瞬間、荒城はドニがちゃんと真相に辿り着き、事件が終わったことも悟った。そうでなければ、ドニは絶対にこんなことをしないだろう。無事に終わったことを告げる為に、ドニはカメラをここに移動させたのだ。
妹の夫は──上原龍彦は、きっと然るべき裁きを受けたに違いない。
あんなに必死で思い出そうとしていたその名前は、今になってふっと頭に戻ってきた。上原龍彦。なんでその名前を忘れてしまっていたのだろう。その名前さえ忘れなければ、事態はもっとシンプルに済んだかもしれないのに。だが、悔やむ気持ちももう無かった。
ややあって、本部からの通信を知らせるグリーンランプが灯った。まもなく、長距離ワープ後の通信が始まる。数十年ぶり、二度目の通信だ。
そうしてモニターに映し出された新任の担当通信官は、白髪の老人だった。痩せぎすで今にも折れてしまいそうだが、瞳に宿った怜悧な光が、真昼の空でも消えない星を思わせる。
まさか、と荒城は思う。あれから六十七年が経過している。退任していてもおかしくない。それに、こちらの翻訳機の不調が伝わっているとしたら、担当はきっと日本語の通じる人間であるはずだ。
だから、目の前に映っている老人がドニであることはあり得ない。
何故だか涙が出そうになった。この短時間に、荒城はどれだけ泣けばいいのだろう。だが、地球の彼にとっては、荒城の涙は、約七十年ぶりである。懐かしさを、覚えてくれるだろうか。
老人は何も喋らない。荒城のことをじっと見つめている。言葉が出てこないわけじゃないだろう。地球と宇宙船の間には数百光年の距離があり、通信には相当なタイムラグがある。
従って、荒城の推理が当たっているかどうかを確かめるには、そこから更に十分以上かかった。
老人が、ようやく口を開いた。彼の顔にはしてやったりと言わんばかりの笑みが浮かんでいる。
『荒城さん。妹の夫は──』
ドニの口から出てきたのは、何十年もかけて取得したかのような、流暢な日本語だった。
【おことわり:本テキストにはフランス語が使用されておりますが、システム上、正しく表記されていない単語(例・日本語読みで「スール」)がございます。ご了承とご理解のほど、よろしくお願いいたします。(編集部)】
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