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 大地震に見舞われたロサンゼルスから帰って来て二か月。
 一斗はISTジャパンのオフィスで、またテレビ画面を見つめていた。
 アメリカのJ・ハワード大統領が「重大発表」をすると予告していた。翌月に迫った大統領選挙の決戦に向け、苦戦の予想を覆して再選を果たすには、何か大きなサプライズが必要と言われていた。
「あと四年、二〇二八年のオリンピックを絶対自分の手でやりたいんだろうな」
 一斗が呟くと、隣でエイミーが肩をすくめて言った。
「えー、もう八〇歳超えたお爺ちゃんだよ。アメリカはもっと若いイケメンに引っ張ってもらわないと」
「うん、もしかするとそういう声に応えて、急遽、とんでもない大決断を発表するのかもしれない。『北』との国交樹立とか」
 だが、大統領の発表はそうではなかった。
「開会予定まで四年を切った二〇二八年のロサンゼルス・オリンピック・パラリンピック大会の開催を返上する」
 それがハワードの声明だった。
 ハワードは苦渋に顔を歪ませて言った。
「ロサンゼルス市は周辺部を含め、歴史にない致命的被害を受けた。私は複数回、現地に入りその実情を見た。市当局は連邦政府と連携し復旧に全力で当たっているが、まだこれから膨大な時間がかかる。ここは市民生活の復活を最優先することが必要だ。断腸の思いでオリンピック開催の断念を世界オリンピック委員会WOCに伝えた」
 ホワイトハウスの記者席が一斉にどよめいた。
「米国だけでなく世界のトップアスリートが集い、技と力を競うのを楽しみにしていた国民の皆さんには申し訳ない。けれどもロサンゼルスには、いまだに生活を立て直せず苦しむ市民が無数にいる。この決定はサントス市長、ゴードン・カリフォルニア州知事とも緊密に話し合って行ったものだ。国民の皆さんには私たちの決断を理解してもらえるものと信じている」
「へーっ! ハワード、正気かあ? 何てもったいない」
 いつの間にか傍に来ていた藤代ふじしろまさが声を上げた。
 藤代はこの秋に入ったばかりの新入社員だった。二六歳、生粋の日本人だが、エイミーとは逆に大学からアメリカに留学し、ハワイ大のロースクールを出て州の弁護士資格を取っている。
 一斗がIST社の日本法人の最高経営責任者の座に就いてから、ビジネスの一つの軸にすると決めたのが、日本人野球選手を米国のメジャーリーガーにすべく売り込む代理人エージエント業だった。代理人を務めるにはMLBが要求する資格が必要になる。法律だけでなく野球全般、球界の組織や歴史に関する幅広い知識が求められる。一斗はそれを猛勉強の末、一度目の受験で見事にパスした。
「いやー、人生であれほど勉強したことはなかったよ」
 行きつけのバーで祝ってくれた弘朋社同期の佐久間に、一斗は語った。試験問題は当然英文だ。過去問を読み込んで解答の練習をするには、何週間も徹夜の勉強が続いた。
 一斗でも合格したように、MLBで代理人として交渉するのに米国の弁護士資格が必須なわけではない。だが弁護士資格を持っていれば、交渉上有利になる点は数々ある。
 そこで一斗は、勉強中に知り合った藤代に猛烈なリクルート攻勢を掛けた。
 藤代は、当時日本の大学院に籍を置いていた。ハワイ州と言えども米国の弁護士資格を得た以上、新入社員は「雑巾がけ」から始めさせられる日本の企業への就職など眼中になかった。
「まあ、アメリカの巨大IT企業なら入ってもいいかな」
「勝ち組になる」ことを公言してはばからない藤代に薄っぺらさを感じなくはなかったが、そのわかりやすい強気も若さの特権と受け取った。何より目から鼻へ抜ける才気や、理路整然とした思考に自分にはないものを見て、一斗は藤代をIST日本法人に招き入れた。
「ウチは日本にある会社だけど、本社はアメリカだ。キミの活躍の場があると約束する」
 藤代としても同年輩の新卒社員の倍近くある年収での契約に不満はないはずだった。
 今後はハワイだけでなく、本土の州の弁護士資格を取らせたい。そしてベアーズへの柳本移籍に続く第二、第三の案件にはぜひとも藤代を活用したいともくんでいた。
 雇ってみると、いくらか軽いところはあるが、その分裏表のない若者という好印象を抱いた。教養レベルは高く、頭のキレと判断力は仕事の中でも光っていた。長めの髪で、眼鏡を外すと涼しい目が現れ、少しとうが立ったアイドルに見えなくもない。社内ではハワイ時代の愛称である「マーク」と呼ばれている。
「確かに、これは予想していなかったな」
 開催返上の発表を聞いて、一斗は信じられない思いで言った。
 予定通りであれば一九八四年以来、四四年ぶりとなるはずだったロス五輪開催が、ここに消え失せたのだ。
「ロサンゼルスにとっては本当にオリンピックどころじゃないんだな」
 一斗の脳裏に二か月前機内で目にした、巨大コロシアムが倒壊する映像が戻ってきた。
「でもLAにとって、オリンピックは特別な意味を持つはずですよね。それをギブアップ、返上するのはよほどの危機感なんですねえ」と藤代が呟いた。
「特別の意味って?」
 エイミーが聞き返した。藤代がアメリカ育ちのエイミーに対していくらか得意げな顔で語り始めた。
「エイミー、八四年のLA大会はね。オリンピックの歴史上、画期的な大会だったんだ」
 藤代は、ここ数十年のオリンピックの歴史を説明した。よく知っているなと感心しながら、一斗も聞き入った。
 曰く——。
 一九六四年の東京、六八年のメキシコシティで開催されたオリンピックは、それぞれ「敗戦国日本の復興を国際的に誇示する」「初めて発展途上国で開催」という特別の意義を世界に向け発信した大会だった。
 だがそれ以降、五輪は政治となまぐさい国際紛争の渦に巻き込まれる道を辿たどった。
 七二年のミュンヘン大会では、イスラエルの選手がパレスチナ武装組織のテロで殺害されるという陰惨な事件が発生。「血塗られた五輪」の名を歴史に残した。
 一九八〇年には初の共産圏開催としてモスクワ大会が行われた。だがその前年のソ連のアフガニスタン軍事介入に抗議して欧米や日本の西側諸国が揃ってボイコット、当時ソ連と対立関係にあった中国までが不参加を決めた。八〇年大会はソ連と東欧諸国の「お友だち運動会」と悪口を言われた。
 政治の渦だけではなかった。規模が拡大し続ける大会は、開催都市に想定以上の経済的負担を強いるのが常になった。一九七六年のカナダ・モントリオール大会では、五輪開催で莫大な負債を抱えた市が財政破綻するという前代未聞の事態が起きた。
「もうオリンピックを世界最大のスポーツの祭典として続けていくのは無理なのではないか」
 そういった声が関係者の間で広まった。以来、開催地として名乗りを上げることを躊躇する、あるいはいったん招致を表明しても引っ込める都市が相次いだ。
 八四年に開催が決まったロサンゼルス大会も、これまでのやり方では大赤字になり、結果として市民に税金で大きな負担を被せることになるのが必至だった。誘致に疑問を唱えたり、公然と反対デモをしたりする市民団体が現れ、開催が危ぶまれ始めた。
「そこへ手を挙げたのが、ペーター・ユビタスだったんだな」
 その先は一斗も、弘朋社に入社してから聞いた知識として持っていた。
 西海岸で巨大ショッピングモールを複数経営していた実業家のユビタスは、「私が新しい形でLA五輪を実現する。キーワードは、民営化だ」と宣言したのだった。
「はい。ユビタスは、『五輪を民間のビジネスとして経営する』という斬新なコンセプトを掲げて、ロス大会の組織委員長に就きました。それまで国や開催都市の支出に頼っていた予算の大半を、企業スポンサーを付けることでまかなうシステムをつくり上げたんですね」
「そうだ」若い藤代に替わって、一斗が先を話した。 
「そしてその構想には強力なパートナーがいた。それまで五輪に『放送権の分配』で関わってきた日本の広告代理店・連広だった」
 連広はユビタスにスポンサー獲得を一任され、その活動に死力を尽くした。連広が賢かったのは、ロサンゼルスで開かれる大会であるにもかかわらず、スポンサーを米国企業に絞らなかったことだ。当時、ジャパンマネーが世界での投資先を血眼で探していた。
 クルマのトモダ、フィルムのフソー写真、時計のセイミツなどが、米企業を差し置いて「一業種一社」のスポンサーの座を獲得した。そのスポンサー料は合計数百億円に及んだと伝えられる。
 すなわちオリンピックの民営化とは、ユビタスと連広のタッグによる商業化、広告ビジネス化だった。その傾向は、回を追うごとに顕著になっていく。
 ロス以前・ロス以後、と呼ばれる区別が近代五輪の歴史に刻まれた。
「LAにとってオリンピックは特別な意味を持つ」と藤代が言ったのはそうした理由だった。
 その名誉ある立場を、次回に関しロサンゼルスと米国は放棄しようとしている。
 一斗はふと思った。
 ロス五輪がなくなったら、今後、野球の種目はどうなるのだろう——。
 二〇二〇年開催予定がコロナ禍で一年延期された東京大会では、野球が正式種目として取り上げられた。そして日本代表「侍ジャパン」が堂々、金メダルの栄光に輝いた。二年後に開催されたWBCでも、日本はアメリカを破って優勝し、日本選手の注目度は否応なく高まった。その中心となった大物選手は投打の二刀流で大活躍し、メジャーでも何度もMVPに輝くなど大旋風を巻き起こした。
 一斗のISTジャパンのビジネスにとっては強いフォローの風が吹いていたのだ。
 ところがつい先日閉幕したパリ五輪では、野球は一転して除外されてしまった。ヨーロッパでの野球人気の低さが影響したと見えた。せっかく人気の高まった「侍ジャパン」、日本選手の注目度に冷水を浴びせられるのは一斗の仕事上は辛い。
 そうした理由からも、二八年予定のロス大会で野球が復活すると内定していることに、一斗は大きな期待を掛けていたのだった。
 ロスの大地震は、ウチのビジネスに何重にも悪影響を及ぼすことになるかもしれない——。
 得体の知れない不安が一斗の胸を襲った。

 ロサンゼルスが二〇二八年の開催を返上したら、大会そのものが中止になるのか。それともどこか別の都市で開かれるのか。誰もがその疑問を持った。
 だがロサンゼルスの代わりを急遽引き受けようという奇特な都市は現れなかった。
「それはそうですよね」藤代が一斗に言った。
「もう開催まで、四年しかないんだから。その間に競技場を建設したり、実施体制を整えたりするなんてムリでしょう」
「そうだな。予算を立てて議会を通して、なんてやっていたらすぐに時間は経っちゃうからな」
「第一、オリンピック自体が、いまやくびようがみみたいなもんだし」
 藤代が言う意味は、痛いほど一斗には分かった。
 この二〇二四年において、「オリンピック」はあらゆる面で逆風のただ中にあった。
 三年前に一年遅れで開催された東京大会は、誘致段階における海外のWOC委員に対する派手な買収攻勢が暴露され、米仏両国の検察当局から捜査対象とされた。
 大会組織本部が立ち上がってからも、公式エンブレムの盗作騒ぎ、各部門の責任者がジェンダー差別の言動で何人も辞任するなど、ご難続きだった。さらにスポンサー利権を巡って、元連広役員で実質的に組織本部のボスだった人物が逮捕された。そして競技実施をめぐる業界ぐるみの談合と連鎖し、「呪われた五輪」とまで呼ばれるようになってしまったのである。
 談合容疑では、連広だけでなく一斗の古巣である弘朋社からも逮捕・起訴者が出るなど、業界全体が白い眼で見られるようになっていた。
「ウチは連広が独占禁止法で訴追されることがないよう、お願いされて付き合ってあげただけなのに。しかも指示したのは組織本部の側なんだから、これは完全に官製談合だよ」
 弘朋社同期の佐久間は「必要悪だ」と嘆いて見せたが、世間の広告代理店に対する風当たりは厳しいままだった。
 そうした影響を受け、札幌市が一九七二年以来五八年ぶりに冬季大会を二〇三〇年に再誘致する活動を白紙に戻さざるを得なくなった。連広はA級戦犯扱いされて当然だった。
 さらにその余波は、日本国内だけでなく世界に広がった。
 ただでさえ、二〇二八年のロサンゼルスと次に内定している三二年ブリスベン大会の後には、もう手を挙げるところがないのではないか。そうした悲観的な見方が流れる中で、突然の代替開催など引き受けようという都市は出てこないほうが自然だった。
 だが、ハワード政権は「代替オルタナテイブ開催」の都市を探し出す執念を見せていた。
 何しろこれまで中止になった夏季五輪と言えば、一九一六年のベルリン、四〇年の東京、四四年のロンドンしかない。いずれも二度の世界大戦下で、スポーツの祭典どころではなかったのだ。それだけでなく、戦火を交える国民同士が競技の場で相見あいまみえることで、不測の事態が起きかねない状況下での決断だった。
 今回のロス地震は、大災害と言っても米国内の一州の話だ。
 まずはアメリカの中で、代替開催する都市を探す動きが報じられた。
「それはそうだよね。アメリカは広いんだから、地震に関係なく開催できるトコなんかいくらでもあるはずだよ」
 藤代が言った。実際アメリカでは、一九九六年にアトランタで、また古くは一世紀以上前の一九〇四年にセントルイスで夏季オリンピックが開かれた実績がある。
 だが藤代の言葉に代表される大方の見方にそぐわず、米国内で「替わり」の開催都市を模索するハワードの試みは早々に暗礁に乗り上げた。
 理由は大きく二つ挙げられた。
 一つは、オリンピック全体の総元締めである世界オリンピック委員会が強い難色を示したことだった。
「オリンピックはあくまで都市が開くものであり、アメリカの国内オリンピック委員会がそのように国内でたらいまわしする私物化は許されない」というのだった。
 また代替地候補とするなら本命になりそうだったアトランタの市長が、「開催の意思はない」と言明したことも大きな理由になった。
「財政上の理由にしてるけど、政治的判断ですね。これは」
 市長の発表をネットニュースで見た藤代が言い切った。
「政治的判断って、どういうことだ?」
 一斗が聞くと、藤代が説明してみせた。
「アトランタが州都のジョージア州は、典型的なレッドステート、つまり共和党が圧倒的に強い州なんですよ。大統領選挙はデニスでもう決まりと言われている」
 藤代は、前回の大統領選挙で民主党のハワードに敗れたものの「次」で返り咲きを狙っている前大統領の名を挙げた。四年前の選挙ではハワードがごく僅差で勝利したが、「投票集計に不正があり無効」と、デニス陣営は選挙結果を認めない訴訟を起こしている。
「ハワードの助けになるようなことは一切しないってわけか」
「そういうことです」
 前大統領が現大統領の足を引っ張るべく、後ろで糸を引いているというのだ。
「ここでハワードに恩を売るって発想はないのかなあ、デニスには。引き受けたら全米で人気もガンと上がると思うんだけどな」
 藤代は肩をすくめて見せた。
 オリンピックが政治的な性格をもつことは理解しているつもりだったが、そこまで露骨に政争の具になるものか、と一斗は小さく嘆息した。
 そうした結果、ハワードも苦渋の決断をしなくてはならなくなった。
「わが合衆国に替わって開催してくれる都市はないか」と世界に呼び掛けざるを得なかったのだ。それでもどこの国の都市でもいいというわけではない。世界が「新冷戦」と呼ばれる不穏な情勢にある中、対立する国に借りをつくるようなことは絶対に避けたかった。
 何とかアメリカの意を汲んで代替開催してくれる都市を友好国の中で探し出すことは、世界に冠たるスポーツ大国のけんにかかわる大命題になった。
 アメリカが出した答えは、誰も予想していなかったものだった。

 

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