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 一斗が広告代理店・弘朋社を、入社一七年目、脂の乗り切ったところで辞めねばならなくなったのは、あるタレントが引き起こしたトラブルが原因だった。
 一斗は当時化粧品会社のS社を担当する営業部に所属していた。部は女性化粧品、男性化粧品、トイレタリー商品を扱う三チームに分かれていて、一斗は男性化粧品チームのリーダーを務めていた。
 弘朋社は広告業界二位、売上では一位の連広れんこうに大きく差をつけられている。けれどもクリエイティブの面では連広に引けを取らない、いやむしろ勝るとも評価されている代理店だった。S社はその弘朋社にとって、看板となる広告作品を世に出せる最重点クライアントだった。
 ある時、S社が社運を賭けて売り出す新商品シリーズ「プリンシィ」の広告扱いを巡って、競合提案ピツチが行われることになった。プリンシィは若い男性に向けたスキンケア化粧品で、一〇年以上続いてきたブランドを一新しS社が市場に出す大型商品だった。競合相手は旧商品の広告を一手に扱っていた連広だった。
「新商品が競合になるということは、これまでの連広の広告に不満があるからだ。このピッチ、死ぬ気で取りに行くぞ」
 一斗はチームのメンバーを集めてはつを掛けた。その競合に勝利すれば、これまでS社の扱いで水をあけられていた連広に売り上げでほぼ並ぶ可能性がある。
「そしたらイノッチが次期部長だな。今回、めちゃ張り切ってるぜ」
 そんな会話が部員の間で交わされるのが聞こえてきた。確かに今度の仕事がうまくいけば、三つのチームを束ね二〇人余りの部下を率いる立場への昇進が現実になりそうな手応えがあった。
 一斗は、社内で注目度が急上昇していた女性のクリエイティブディレクターを拝み倒してプレゼンスタッフの中心に据えた。CDは「女性が思わずキスしたくなる男性の肌」をコンセプトに広告案を開発した。 
 シンボルになるタレントには、芸能界最強のジュリアス事務所に所属するさくらさわゆうがキャスティングされた。ジュリアス事務所は男女問わず美形の若い歌手や俳優を取り揃え、所属タレントのイメージを何より大切にすることで有名だ。出演するCMの企画から演出にまで細かく口を出すためにスタッフから煙たがられることが多かったが、珍しくその案はすんなり内諾をとることができた。
「ぜひウチのユウキの案で連広さんに勝ってちょうだいね」
 ジュリアス事務所の「女帝」と呼ばれる辣腕マネージャーにプレッシャーを掛けられ、一斗は武者震いした。事務所は連広との取引も数々あるが、今回は弘朋社に乗ったのだった。
 キャンペーンコピーは「スキ・キス・スキン」に決まった。
 女性CDが気合を込めてプレゼンした案は、S社宣伝部内で高い評価を受け、競合は圧勝した。
 一斗以下のチーム員は大張り切りで、櫻沢悠希の撮影やCM入稿に不眠不休で奔走した。
  そして新商品シリーズ・プリンシィの発売日。S社としても十数年ぶりの規模でキャンペーンがスタートした。渋谷の地下通路には巨大ビジュアルが出現、櫻沢悠希の裸の胸に抱かれるポーズで自撮りする女性の列ができた。その様子がさらにSNSで大量に拡散された。
 プリンシィを使えば、自分もそんな風に女子に触れてきてもらえるかもしれない。
 若い男たちの無邪気な勘違いを誘い、プリンシィは発売直後から爆発的なヒットになった。広告効果はS社が掛けた予算の数倍に相当するという試算も現れた。
「弘朋社さん、今回は本当によくやってくれたね」
 一斗はS社の宣伝担当役員から直接、感謝の言葉を贈られるという栄誉に浴し、鼻高々だった。
 だが、好事魔多し——。
 キャンペーンがスタートして二週間後、写真週刊誌『ゲット!』にスクープが載ることが発売前日にわかった。
『櫻沢悠希、行き過ぎた「キス・スキン」 JKがレイプ被害告白!』
 内容は櫻沢がファンの女子高生をマンションに連れ込み、酒を飲ませた上で性的暴行に及んだというショッキングなものだった。
 S社は激怒した。弘朋社の雑誌局を通じて出版社に圧力を掛け、『ゲット!』の出荷を強引に差し止めようとした。けれども時すでに遅く、書店やコンビニ、駅売店に写真誌は麗々しく並び、飛ぶように売れた後だった。
「櫻沢悠希ってこんなヤツだったの」
「どうせそんなもんだろ。アイドルだから何やってもいいって勘違いしてるんだ」
 男女の別なく、非難轟々となった。さらに後追いのワイドショーで「私も同じことをユウキにされた」と、目に線を被せ声を変えて証言する女性も現れた。
 プリンシィの広告キャンペーンは即刻ストップとなった。一斗らは泣く泣く押さえ済みの広告媒体のキャンセルや商品差し替えに追われた。急な変更がきかなかったスポット枠は、やむなくACジャパンの啓蒙CMに提供された。
 それは時として起こる不祥事の尻ふきの中でも、めったにない規模のものとなった。
「今度ばかりはジュリアス事務所もヤバいかもな」
 そんな噂が社内で飛び交った。
 だが緊急の後始末が一段落し、櫻沢悠希を大写ししたシティボードや動画が世の中から消え去ったところで、S社は予想外の動きをした。
「櫻沢の出演料は返還させるが、それ以上の損害賠償は請求しない」
 事実上の「おとがめなし」だった。
 あれだけの騒ぎを起こし、通常なら当然違約金請求の法的措置という話になるのに。そんなにジュリアス事務所が怖いのか——。
 一斗はだんを踏んだ。そうした一斗を、S社を最大クライアントとする第二営業局の局長だった谷脇たにわきこうがある日、局長室に呼んだ。
 谷脇は引きった表情のままの一斗に言った。
「まあ、ここは静かにしてるしかないよ」
 見事なゴルフ焼けに、口髭くちひげ。「チョイ悪」で知られるオヤジタレント似を完璧に意識した顔で、谷脇は言った。
 隣には、谷脇の一番の子分として仕えてきた営業部長の山科やましなしんが膝を揃えて座していた。
「何たって天下のジュリアス事務所だからな。S社としても本気で戦争を構えるのはウマくないと思ったんだろう。ほかのタレントのこともあるからな」
 ジュリアスは飛びぬけて最強の芸能事務所であり、S社の広告にも数多く所属タレントを出演させてきた実績がある。今回の事があっても、それはまた続くのだろう。
「要は、ほとぼりが冷めるのを待って、無かったことにする。大人の判断だよ。猪野」
 山科が谷脇の言葉を追いかけるように言った。一斗は誰に怒りの矛先を向けていいか分からなくなった。
「だけどな、Sはウチに対しては無罪放免というわけじゃないんだ」
 今度は谷脇が苦虫を噛み潰したような顔で口にした。
「行状をチェックせず問題あるタレントを提案し、新製品の門出に泥を塗ったと怒り心頭だ」
 それを言われると、代理店は立場が弱い。
「専務とお詫びに行って、何とか出入り禁止まではならずに済みそうだ。それでも、ウチとしては何か責任を形にして見せないわけにはいかない」
 その渋面はいささか芝居がかっているようにも見えた。
「山科を部長から外し、新しい部長を据える」
 そうした言葉が発せられるのを一斗は予期した。さすがに今回の経緯から言って、後任が自分に回ってくると思うほど能天気ではなかった。部内の他のチームリーダーが今回は昇格し、自分はその「次」を待つしかない——。
「しかたない」と一斗は覚悟を決めた。
 だが、谷脇が次に発したのは思いも掛けぬ言葉だった。
「猪野、オマエにSの担当を外れてもらう」
「えっ」
 部長の山科が一斗の表情をちらりと盗み見た。
「僕が……異動、ですか」
 なぜだ、という思いが急激に襲ってきた。
 たしかに自分は今回のプレゼンを仕切った。だが櫻沢を提案したのは部長の山科の承認を取った上でのことだ。S社が本気で怒っているのなら、責任を取るべきは少なくとも山科じゃないのか。
「いや、異動じゃない」谷脇の乾いた言葉が追い打ちをかけた。
「これだけ得意先の信頼を失うおお失敗ドジを犯したんだ。もうオマエを営業として受け入れる部は、この社内にはない」
 一斗は怒りのあまり立ち上がりそうになった。ジュリアス事務所との関係も悪化させず、S社への責任も表して見せる。そのためには現場責任者の首を切ることくらい、どうということはないとしているのだ。
 けれども目の前に暗く厚い幕が降りてきて、また座り込んだ。
 谷脇が不意に口調を変えて言った。
「お前もわかってるだろう。広告代理店じゃクリエイティブがチヤホヤされるが、本当の華は、仕事全体を仕切っている営業なんだ。営業にいられないくらいなら、会社にしがみついててもしょうがないだろう」
 さらに道を説く神父のような声音で続けた。
「猪野、この際まったく新しい仕事に挑戦してみる気はないか。弘朋社を離れて、だ」
 一斗は意味が分からなかった。
 コイツはとにかく全責任をオレに押し付ける気なのか。そんなことが納得できるわけがない。
谷脇は一斗の思いに構わず言った。
「実はな、アメリカで指折りのスポーツマーケティングの会社が、日本法人を設立しようとしている。その初代ヘッドをやる人間を探しているんだ。本国の社長がちょっと知り合いでな。そいつが広告界のキャリアがあるヤツが欲しいと言っている」
 そう言うと谷脇は、一冊のファイルをテーブルの上にぽんと置いた。濃いブルーの表紙に、重厚な金箔押しで「IST」とロゴが入っている。
「インターナショナル・スポーツ・トラスト。名前くらい知っているだろう」
 そう言われてみると、その社名は聞いたことがある気がした。確か隣の女性化粧品チームが「東京レディスマラソン」をS社のかんむりで開催した時に、海外の選手のしようへい業務を委嘱していたのではなかったか。とすると、あれも谷脇との繋がりだった——?
 だがスポーツビジネスなど自分には縁遠い世界と思いこんでいた。入社以来ほぼずっと、化粧品会社担当の営業職としてやってきた。メディアの交渉や、クリエイティブの連中との駆け引きにはれになった。けれども、スポーツの仕事に直接関わったことなどない。簡単にできようわけもなかった。 
「それは僕にその会社に出向しろってことですか?」
「いや、出向でもない」谷脇が答えた。
弘朋社ウチをきっぱり辞めて、その会社に入れと言ってるんだ。幸い今なら、早期退職制度の対象になる。退職金も割増しで出るぞ」
「なんで僕が会社を辞めなきゃいけないんですか!」
 耐え切れず、尖った言葉が一斗の口をいて出た。もう限界だった。
「もう僕はこの会社ではお払い箱だって言うんですか」
「ああ、ハッキリ言えばな。でも……」谷脇が一拍置いて言った。
「オマエ、入社面接の時、言ってたじゃないか。スポーツに関わる仕事をしたい、と」
 一斗は思わずハッとした。咄嗟に言葉が出なかった。谷脇が続けた。
「言うまでもないが、今スポーツビジネスの世界で圧倒的な力を持つのは連広だ」
 それは一斗も嫌というほど解っていた。
「だからそうした仕事をしたいのなら、この周りにいるより専門の会社に行った方が思い切り腕を振るえるんだぞ」
 この男はこうやって数々の部下を切り捨ててきたのだろう。自分の座を守るために。
 けれども言われてみて初めて思い出した。一斗は弘朋社の面接で希望の職種を聞かれ、そう答えた記憶が微かにあった。
 だが新人配属でその希望は無視されたと思っていた。圧倒的多数が就く営業職になり、そこから一七年間ひと筋でやってきた。出世や名誉の欲がまったくなかったとは言わないが、何より得意先のため、商品を成功させるために愚直に突っ走ってきた。決して器用なほうではないと自覚しつつも、自分なりに一生懸命頑張ってきたつもりだ。その結果、同期の中でもそこそこ高い評価を得ている自負はあった。
 入社試験の何度目かの面接官が谷脇で、「スポーツに関係する仕事をしたい」と言った相手であることなどは、その間まるで意識になかった。
 よくこの男は覚えていたな。人事は記憶力だっていうけど、ダテに局長を張ってるわけじゃないってことか。
「猪野、オマエに良かれと思って言っているんだ」
 谷脇は諄々じゆんじゆんと説く口調で言った。
「今回の失敗は不運な面もある。だけどな、もう一度言っておく。事がこれだけ大きくなった以上、もうこの会社にオマエの居場所はないんだ。あったとしても、警備員か、社員食堂の皿洗いくらいだろう。まあオマエが会社の株を買い占めて自ら取締役にでもなるなら別だがね」
 理不尽な話の上にそう薄ら笑いを浮かべてうそぶく谷脇に、噴き上がる反発の言葉が多すぎ、どれから言うか一斗は迷った。
 ——絶対におかしい。こんな仕打ちをなぜオレが受けなければならないんだ。
 だがその一方で、胸の底で違う思いがちらりとうごめき出しているのも感じた。
 全米で指折りのスポーツマーケティング会社。その日本法人の初代ヘッドを探している——。
 その言葉は、不思議な新鮮さをもって一斗の胸に響いた。
 目の前の憎々しい男が言う通り、広告代理店の営業は黒子ではあるが仕事全体の中軸であることは間違いがない。そのことに自分は誇りを抱いてこれまでやってきた。S社という世間に注目される得意先で、クリエイターではないが「あのキャンペーンはオレが仕切ったのだ」と密かに胸を張れる仕事も残してきた。
 とは言え一方で「クライアント・ファースト」の美名のもとに、得意先のためなら何でもやるという営業独特の毎日に、少し疲れていたのも事実だった。
 局長室を出た一斗の胸は揺れていた。
 本当にこの会社で自分の道がもうないのなら、いっそ新しいことに賭けてみるのも悪くないかもしれない。そして、谷脇を見返してやるのだ。温情でも掛けたつもりでいるクソ野郎を。思ってもみなかったような大きな仕事をやってのけて——。
 そう考えると、谷脇の息のかかった話に乗る癪さを乗り超えて、新たな意欲の芽が吹いてくるのを感じた。
 二日後、一斗は谷脇に導かれるまま転職を決意していた。

 

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