第一章 激震

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。
 靴底を突き上げる激しい衝撃に、猪野いのかずは床に崩れ落ちた。
 二〇二四年八月二〇日。ロサンゼルス国際空港LAX7番ターミナル。ユナイテッド航空のチェックインカウンターに並ぼうとした矢先だった。
「ワッ、何なの、これ」
 隣でジーンズの膝をついた部下の女性、エイミー・ヨコザワが、立ち上がろうとする一斗のジャケットにしがみついた。けれども揺れの大きさに負けて手を放し、やはり床に倒れ込んだ。
「……地震だな」
 カウンター上の航空会社の看板が読めないくらいに揺れている。近くで何かが割れる鋭い音がした。
「それもかなりデカい」
「イヤだ、カズト、こわいよ」
 日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれ北西部シアトルで育ったエイミーは、アメリカ国籍で、二四歳の今まで地震には慣れていない。
「エイミー、オレに掴まっていろ」
 そう言って一斗はかぶっていたロサンゼルス・ベアーズの青いキャップをエイミーの金茶色の髪に押し付けた。四二歳という自分の年齢にふさわしい落ち着きを発揮しなくてはと努めながら、どこか下に潜って身を護れそうな場所はないか周りを見回した。
 だが多くの旅客がぺたんと座り込んだフロアに、潜り込めそうな場所は見当たらなかった。ガードマンや航空会社の地上職員がよろけながら右往左往している。
 非常ベルといくつもの言語の叫びが飛び交う中、不気味な低音が響いていた。地鳴りのようにも感じられた。
 唐突にロビー全体に滑走路からのジェットエンジン音が轟いた。どこかでガラス窓が割れたのかもしれない。ジェット燃料の匂いがくうを突き刺した。そばのコンクリート壁に大きな亀裂が入り、天井の照明が今にも落ちそうに揺れている。
 一斗は東日本大震災発生の瞬間を思い出した。一三年前、現在のスポーツマーケティング会社「ISTジャパン」のCEOになるはるか以前のことだ。
 遅い昼食を取ろうと、当時勤めていた広告代理店・弘朋社こうほうしやが入るこうじまちタワーを出た。その途端、やはり下から突き上げる揺れが襲った。
 揺れはやがて横方向に変わり、振り返ると今出て来たばかりのオフィスタワーが隣のタワーにぶつかるのではないかと思うほどにしなって揺らいでいた。
 東京でも震度五強を記録したあの時の地震。それよりも、今の揺れは急で激しい。
危ないウオツチアウト!」
 鋭い声がして振り向くと、ゼロハリバートンの巨大なキャリーケースがこちらへ突進してくるところだった。
 エイミーの身体を思い切り引き寄せ、すんでのところでそれをけた。ぴっちりしたTシャツに包まれたエイミーの胸が一斗の腕にぶつかった。
 ベアーズのキャップの下でエイミーは泣きじゃくっていた。生まれて初めて味わう恐怖だろう。
避難してくださいエヴアキユエイト・エブリバデイ! チェックインは中止します!」
 地上職員がマイクで叫んでいるが、どこに避難すればいいのか見当もつかなかった。
「滑走路にヒビが入った」という声が聞こえ、空港全体が閉鎖という情報が流れてきた。出発便は全てキャンセル、到着便も全便他の空港へ回るという。閉鎖はいつまで続くかわからない。
 タブレット端末やスマホでニュースを見ようにも、Wi-Fiが切れている。メールも電話も繋がらない。さらに余震が数十秒ごとに、並大抵の地震より大きな揺れで襲ってくる。
 とにかくまずここを離れなくては——。
 一斗とエイミーはターミナルビルの外に出た。柱がぽっきりと折れた出口を背に、送迎レーンを埋める車列を茫然と見つめる。エイミーは自分のキャリーバッグの上に座り込んでいた。
 一斗の目にふと入ったものがあった。
 緑地に立てられた『LA28』の文字と五つの輪を組み合わせた大きなオブジェ。そう、ここロスでは、四年後の二〇二八年に夏季オリンピックが開催されるのだ。そこへ向かって盛り上げる派手なサインに真っ二つに亀裂が入っていた。
 ——いったいどうしたらいいのだ。
 一斗は必死に頭を回転させた。途方に暮れている暇はなかった。
 早く日本に帰らなければならない。せっかく代理人として話をまとめた福岡ブラックキャッツの四番打者、やなぎもとみつるメジャーリーグMLB球団・LAベアーズ移籍の件がある。契約書にサインさせるために、一刻も早く帰国する必要があった。
 一斗は一計を案じて、小型プロペラ機でラスベガスまで飛ぼうと考えた。
 世界最大の歓楽地からなら日本へ帰る方法があるはずだ——。
 二時間後、一斗はエイミーと「VANヴアン NUYZナイズ」と看板がある郊外の小さな空港にいた。そこまでは、渋るタクシーに一〇〇ドル札を何枚かチラつかせ強引に走らせて来た。
「カズト、どうしてこんな小っちゃい空港知ってるの」
 心配顔の中、そう聞いたエイミーに、「昔、CMのロケで来たことがあるんだ」と、かつて弘朋社で働いていた時のことを言った。

 ラスベガス国際空港から、韓国の仁川インチヨンを経由して羽田空港に向かった。到着予定は、当初ロサンゼルスから直行で帰るはずの時刻からまる一日遅れとなった。その間、一斗は機内でずっとアメリカのニュースをタブレット端末で見ていた。
 テレビもネットもニュースはロスの地震一色に染まっていた。市の中心部から南側のロングビーチ地区が特に被害が大きい。火災やビルの倒壊に加え、何よりも戦慄したのは海岸から押し寄せる大津波の映像だった。
 何ということだ。
 一斗はイヤホンの音量を大きくして、ニュースの英語音声を聞いた。分かったのは最初の地震の発生から三〇分後に、米西海岸では史上最大となる津波が市街を襲い、国際空港の管制塔までも水浸しにしてしまったということだった。
 あのまま空港にいたら、二人ともどうなっていたかわからない。
 エイミーは移動に次ぐ移動ですっかり疲れたのか、頭を一斗の方にもたせかけて、寝入っている。
 ニュース映像の下には死者・行方不明者・負傷者の数が並び、秒刻みで数字が大きくなっていた。東日本大震災並みか、それを超える大災害になると感じられた。
 次に飛び込んで来た空からの映像が、一斗の目を釘付けにした。
 地震と津波で見るも無残に崩れ落ちた、楕円形の建造物。それは今回の出張中に、「後学のために」と時間をつくって見に行った場所だった。
 次回二〇二八年夏季オリンピックのメイン会場として大改修中のLAメモリアルコロシアム。それがまるで建設初期であるかのように、骨組みだけになりたいがすっかり消失していた。
 想像を絶する被害だった。街の少なくとも半分が崩壊しているように見えた。恐らくロサンゼルスは今後、再建にすべての資金とエネルギーをぎ込まざるを得なくなる。スポーツどころではなくなってしまうのではないか。
 LAベアーズは今シーズンどうなるのか。ホームで試合はとてもできないだろう。水面下で交渉を重ね、次世代の主戦力としてようやく移籍合意に漕ぎつけた柳本充の立場はどうなるのか。この地震の影響で、契約が白紙に戻ってしまうことなどないだろうか——。
 ふと耳のそばでエイミーの声がした。
怖いテリフアイド……」
 少し薄めの、形のよい唇が震えている。あの凄まじい揺れを夢に見たようだった。
 可哀そうに。起こしてやろうか——。
 その頬に触れそうになって、一斗は手を止めた。
 自分の会社の命運が掛かっている契約のほうが気がかりでならなかった。
 ベアーズの担当者にまずは安否を問うメールを機内から打ってみた。けれども羽田で降機するまでの間に返信はなかった。
 
 帰国の翌日、一斗は北青山にあるオフィスでせわしない一日を過ごした。
 持ち帰ったベアーズとの契約書は当然英語で、柳本に読ませるために和訳しなければならない。
「まず訳してみろ」
 エイミーにやらせてみたが、高校までシアトル育ちだった日本語力の不足は明らかだった。
 翻訳は自分でやった方が早い。そう悟るまで時間はかからなかった。
 仕方ない。日本語のために雇ったのではないのだから——。
 エイミーは高校三年の時に日本に来たが、アメリカ育ちがかえって災いし、日本の有名大学を卒業してもちゃんとした就職ができていなかった。
 英語を武器に商社や旅行会社あたりにすんなり入れるだろうと思っていたのが、完全に甘かった。「社会常識の欠如」で軒並み落とされてしまったのだ。
 何しろ敬語は全く使えない。黒一色のリクルートスーツなど頭から拒否し、ビビッドな色のジャケットで会社訪問に臨んだエイミーを、面接官はあきれ顔で見た。ほぼ門前払いに等しく一次面接で落とされ、しかたなく英会話カフェでバイトしていたところを、一斗が拾った。
「アメリカが本社の会社に入ったのだからせめて日常会話くらいできなくては」
 そう考えて一斗はそのカフェに足を踏み入れた。英語は、学生時代は不得手な方ではなかったが、会社に入ってからほとんど使わなくなったためにすっかり錆びついていたのだ。
 バイトという不安定な立場にいながらも落ち込まず、エイミーが惜しげなく見せる笑みは、弘朋社を追い出されすさんでいた一斗の心に光を差し込ませた。何度かカフェに通い言葉を交わすうちにエイミーの就活失敗の話を聞き出し、大笑いした。
「それは確かに、日本の会社には刺激がキツすぎたかもしれないな」
 だが一斗はやがてエイミーの持っている不思議な力に気付いた。
 自分が英語を必死に学び直すよりこの女性を雇った方が早い。それだけでなく、いるだけでなぜか場の空気を盛り上げ、ヒトの気持ちを前向きにする天賦の才をエイミーは持っていた。
 その魅力は今後、タフな交渉の場が増えるはずの仕事に活かせそうな気がした。一斗はまだ自分しかいないIST日本法人にエイミーを入社させた。
 最初のアシスタントとなったエイミーの奔放さには、その後も苦笑いすることがあった。けれども英語力のほうですぐに、アメリカ相手の仕事には欠かせない存在になった。
「手を差し伸べたつもりで、実は救われたのはこっちの方かもしれない」と一斗は感じていた。

 契約書の翻訳に取り掛かりながらも、オフィスのテレビはつけっぱなしにしていた。
 ロサンゼルスの惨状は時を追うごとに深刻度を増していた。建物だけでなく、フリーウェイがあっけなく倒壊している。街路には着の身着のまま逃げてきた人々が、おびえた表情でたむろしていた。地震発生時の恐怖を口々にけたたましく訴えている。
「日本の基準で見た最大震度は、七に相当しますね」
 大地震が起きるごとにテレビ画面に登場する眼鏡の大学教授が語っていた。
「東日本大震災と肩を並べる規模です」
 併せてアメリカUS地質調査所の発表したデータによると、マグニチュードは九・二。こちらはわずかながら日本の一三年前の震災を上回っていた。
「そう言えば以前にもロスでは大きな地震がありましたね」キャスターが言う。
「はい。今から三〇年前の一九九四年、死者六一人を出す大地震がありました」
 スタジオのモニターに高速道路が崩れ落ち、火の手が上がっている当時の報道写真が出た。
「ロスだけではありません。実はカリフォルニアは、西部開拓時代から地震が多いことで知られていました。二〇世紀初頭にはサンフランシスコが大地震で壊滅状態になり、三〇〇〇人以上が死亡しています」
「はあ……カリフォルニアと言うと、私たちはつい青い空と温暖な気候ばかり想像してしまいますが、危険な地域でもあるんですね」
「その通りです。近年も活発な大断層の動きが感知され、いつ大地震が起きてもおかしくない状態でした」
 ネットのニュース画面に一斗が眼を転じると、『米・加州に非常事態宣言』という見出しがあった。思わずクリックする。
『アメリカ・カリフォルニア州のゴードン知事は二〇日に発生した地震に対し、LA周辺に「非常事態宣言」を発した。これにより消防・警察に加えて陸軍、海兵隊などが救助活動と治安維持に当たることになる』と本文があった。さらに、
『アメリカのハワード大統領は、「国家特別災害」に今回の震災を指定した』
 というニュースもあった。日本の「激甚災害」にあたるものだろう。
 事態は、一斗が一野球選手のメジャーリーグ進出が叶うかどうかで気を揉んでいるレベルではなかった。はるかに切迫していた。
 メールボックスに、ベアーズ担当者からの返事はいまだなかった。替わりにあったのは、佐久間さくま重利しげとしからのメールだった。佐久間はかつて一斗と弘朋社に同期入社した社員の一人で、今はメディア部門のテレビ局にいる。
「カズト、確かLAに出張してるんだよな。大丈夫か?」
 逆に自分の安否が尋ねられていたのだ。
 佐久間は七年前、一斗が離婚して荒れていた時に、辛抱強くヤケ酒の相手をしてくれた男でもあった。妻と別れるより、結婚してすぐ生まれた六歳の娘を置いていくのが一斗には辛かった。
 一斗が弘朋社を去らねばならない羽目に陥った時にも、最後まで「お前が辞めることはない」「責任は別の奴が取るべきだ」と言い続け、一緒に悔しがってくれた。
 現在のISTジャパンを立ち上げた後も、折に触れ声を掛けてくる。アメリカに立つ直前にも二人で飲み、「来週はロスに出張なんだ」と話していた。
 出張の目的は極秘の契約だったから明かさなかったが、今の一斗の仕事を知っている佐久間には大方想像がついていただろう。
「ありがとう。幸い昨日、命からがら帰って来たよ。落ち着いたらまた飲もう」
 短く返信を送ると、一斗は電子辞書と首っ引きでの翻訳作業に戻った。

 

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