第一章 議場占拠

 俺は本当に議員秘書になってしまった。
 国会の衆議院本会議場に初めて入ったとき、ねんたくはそう実感した。
 ここは国会議員の主戦場であり、テレビ中継でもよく映るが、イメージにあるよりも狭い。秘書になって一年ほど経った今日、改めて来てみてもそう感じる。そして、古い。伝統とか歴史と文化の重みよりも、しよく蒼然そうぜんたるネガティブな波動を感じた。それはもともと、国会議員に対してマイナスイメージを持っていることの裏返しではあるだろう。だがそれだけではない、と知念は頭を振った。権力欲。我欲。それが理由に違いない。ろくでもない権力者たちが何世代にもわたってこの壁に嫌な波動を浴びせ続けた。だからしよくし、こんな嫌な色に染め上がったのではないか。
 衆議院議員の定数は四百六十五。その分の席があるわけだが、議場奥の左右の角の上部に貴賓席がある。なぜか気になった。国賓待遇の外国人や皇族が座るらしい、と知ってからはなおさらだった。民主主義を体現する場所のはずだが、それでもなお身分の差は存在する。階層、生きる場所はくっきり分けられているのだ。
 知念は自分にふさわしい場所を探した。この国の端の端で、庶民として生きてきた者が座れる場所があるか?
 傍聴席が、議場の真後ろに設けられている。事前に申請することで、一般市民もここから国会審議を見守れる。もちろん発言は許されない。民主主義の担い手となるには、庶民には高い「きようたく金」三百万円を支払い、できるだけ強い政党に所属させてもらった上で、選挙で当選しなくてはならない。しかも、何度も何度も当選して初めて党内で認められ、この場での発言機会も増えてくる。そうなるまではただの頭数だ。与党に所属していてもそうなのだから、野党の立場では国政になんの影響力も持てない。 
 自分が秘書としてついた議員・猿橋さるはしようには、いまだに発言権がほぼない。二回当選したぐらいでは大した役職ももらえない。それがいま、この国で与党の議員になる、ということだ。
 知念は、傍聴席のすぐ前を見やった。報道関係者が陣取る席だ。目立つのはずらりと並ぶテレビカメラの列。国会論戦をとらえる準備は万端だ。ただ、国会の生中継を担う公共放送が全ての論戦を中継することはできない。重要な審議ほど、生中継されることが少ないのは気のせいだろうか。大相撲の中継には熱心なのに、国会のライヴはネット配信のみ、ということも多い。あとはごく短いダイジェストを、夜のニュースで伝えるのみ。もちろん編集は恣意しい的だ。
 生中継が多いと、与党の答弁の酷さに目が行ってしまうからではないか? 知念はそう解釈している。ごまかしの空論ばかりだからボロや失言が百出する。できるだけ大衆の目に触れさせない。議員には自分の言葉ではなく、官僚が書いたそつのない、煙に巻いたような作文を繰り返し読ませておけ。くうだ、不誠実だと非難されるのは織り込み済み。退屈だ、意味がない。見ている者にそう思わせられれば成功だと政府は思っている。
 知念は天井を見上げてみた。来てみないと分からないことはいくつもある。天井は床から十五メートルほど上にあり、一面ステンドグラスでできている。その裏側に蛍光灯が何百本も設置されていて、贅沢に明かりを提供している。
 だが、真実をさらけ出すのに充分な光量ではない。知念は薄く笑った。
 ここが俺の、身分上の雇い主、猿橋庸治の戦場だ。やっと四十になったばかりのボスに力はぜんぜんない。それでも、任期が残っている間、もしくは解散するまではここに一席、猿橋のための机が名札付きで確保されている。それがある限り、自分もこの議事堂に足を踏み入れる資格を持っていられる。次の選挙まで、という時限式の権力ではあるが、闘うチャンスがあるだけで御の字だ。
 今日は臨時国会の初日。あと一時間もすれば開会する。
 知念拓海はボスを迎えるために本会議場の出口に向かった。

 議員入り口の溜まりで、ボスの猿橋と今日の予定の確認を終えたあと、知念拓海は議員控室に入った。すると近寄ってくる者がいる。
「知念さん。解散した場合の用意はできていますか?」
 おかいつが、珍しく話しかけてきたと思ったらそんな内容だった。
 嫌み。というよりかわいがりだ。知念は表情を変えない。
「いや、まあ……どうでしょう」
 相手が喜ぶような、具体性のない返答をしてしまった。岡逸子はフフンと笑う。これをもって、この女性はまた、猿橋議員は不適格な秘書を従えている、ゆえに猿橋も議員不適格、という報告を自分のボスにするのだろう。
 それで岡の評価が上がるなら勝手にすればいい。秘書同士のマウントの取り合いにはうんざりしている。忠犬の群れは決して仲良くはない。岡のボスは与党のベテラン議員・かわらざきじゆうろう。党の主流に属する瓦崎のような議員からは、議員生命がいつまで続くかもわからない猿橋などは、すでに死人のように見えるのだろう。
 その新人秘書である知念は、輪をかけて見くびられている。どれだけいびっても仕返しされる恐れもない。これほど恰好かつこうなカモがいるだろうか。
 いまに見ていろよ。知念は独りごちた。権力者とはどれほど傲慢であるか、あんたたちからさんざん教わる毎日だ。恩返しさせてくれ。ぜひ近いうちに。
 もちろんそんなことは口に出さない。表情にも出さない。ただいじましく顔を伏せていた。すると岡逸子はぷいっときびすを返して行ってしまった。
 あんな秘書がいるのは明らかに、あの議員のせいだった。知念は瓦崎十四朗のいかつい顔を思い浮かべる。元防衛大臣。いまは役職に就いていないが、未だに防衛政策にうるさく口を出している。日常でも軍事オタクで、世界中の紛争地域に詳しいことで有名だった。自国とはまったく関係のない地域にも精通している。ぶつかり合う双方の権力構造、戦力分析にまで詳しいのだ。おかげでテレビにもよく呼ばれる。本人は人気者のつもりだが、偏った自説にばかりこだわる姿が見苦しく、毎度司会者や学者やコメンテーターを辟易へきえきさせる。そんな光景を、知念は報道番組で何度も見た。防衛省の情報分析班に最新情勢を報告させていることは明らかで、そんなことを記者に洩らすのは安全保障上問題があるのではないかと思うが、誰も問題視しない。この程度のことでは。
 こんな男が防衛大臣だった時期がある。大臣を退いてもまだその地位にいるつもりか。そういう人間がこの先、まかり間違って首相にでもなったとしたら、自分の“趣味”で戦争を始めてしまうのではないか。知念はそう思わずにいられない。
 平和憲法が戦争の歯止めになっていると言われるが、このところ与党はやりたい放題だ。憲法を改変しなくても、後付けでいろんな法律を作り、前例を積み上げていけば憲法は無効化できる。そんな悪知恵をつけていて、最近は「敵基地攻撃能力を持つべき」などと臆面もなく言い出した。ひと世代前の議員たちなら飛び上がって驚いただろう。戦後一貫して「専守防衛」を唱えてきたはずだが、果たして同じ国か?
 知念のボスである猿橋庸治は、その点を裏で口を極めてののしっているし、捨て鉢になっている最近は表でも放言してしまう。猿橋の発言はすぐ党の重鎮たちの耳に入り、「誰かがチクった。呼びつけられて怒られた」とよくボヤいている。懲りている様子はない。
 国会議事堂は、中央の尖塔部分を除けば三階建て、一部が四階建てになっている。議員控室は、本会議場と同じ二階のフロアに何十もある。各党の各会派に割り振られているが、常時すべての部屋が使われているわけではない。今期は比較的広めの控室が一つ空いているので、今日に限って秘書の待機場所にさせてもらっていた。国会初日は、議員に付き添う秘書の数が増えるからだ。 
 岡逸子が仲のいい古株の秘書たちのところへ行ったのが見えた。その背中を見つめながら、知念は小さく息をつく。
 三世議員で、貴族然とした議員の性格がねじ曲がるのは納得がいくが、岡逸子のような女性がどうして与党の男たちになびき、支えようとするのかは謎だ。与党が権力を握り続ける限りジェンダー格差は解消されない。先進国にあるまじき惨状で、賃金格差はもちろん、いまだに女性が社会進出を阻まれているという事実が統計にはっきり出ている。いまだに女性をお飾りとしか思っていないジジイが大半を占めるこの政界に身を投じて、岡逸子は何を幸せと感じているのか。
 議員控室のテレビが、隣の本会議場の様子を映し出した。公共放送の中継が始まったのだ。国会が幕を開けた……秘書たちも画面を覗き、自分たちのボスの動向を見守る。
 知念は腕を組み、目を閉じて自分に気合いを入れた。長い一日になる。

 国会が始まってしまった。
 テレビ画面の前でウェンディ・キーナン・波佐間はざまはため息をついた。
 ここは英国の老舗オピニオン誌『アヒンサー』の東京支局のオフィス。とは言っても手狭だ。人数は少なく、今日はウェンディしか出てきていない。場所は赤坂あかさかだから、国会のあるながちようまではすぐ。だが、現地取材には出向いていない。化粧をしてスーツを着るのが面倒だからではない。外国メディアに対する門戸が狭いからだ。ウェンディは毎度ストレスを感じている。
 もちろん国会内に入ったことは何度もある。議事堂二階、向かって左側の奥にある衆議院本会議場ではいま、国会冒頭恒例の、首相の所信表明演説が行われていた。退屈だった。 
 野党党首による代表演説もこのあと行われる予定だった。これも退屈に決まっていた。
 だがウォッチしないわけにはいかない。それが自分の仕事だからだ。この国に来るまで、この国の政治がこれほど硬直化していることを知らなかった。とりわけ、代表演説などただの儀式。新鮮味が全くない。
 昨年判明した、与党内の大規模な金銭スキャンダルで世論は沸騰したものの、数人の議員が立件されたに留まり、不完全燃焼のまま今に至っている。与党の支持率は低いままだが、底を打ったのか。あるいは形だけの党内改革をしてみせたのが少しは効いているのか、支持率が微増し始めている。野党の支持率も相変わらず低い。出口なし。この国の政治は死んでいる。ウェンディはそうドライに断じている。
 今期も眠気との戦いだ。録画スイッチを押し、あとで早送りで見ようとトイレに立ち、戻ってきたウェンディは国会で異変が起きていることに気づいた。

 

『処刑国会』は全4回で連日公開予定