聞き違いかと疑ったが、貴水の発音は明瞭だった。
「何それ。わたしが〈魔女〉ってどういう意味?」
〈魔女〉というと、人をたぶらかすような悪い存在というイメージだ。少なくとも褒め言葉ではないだろう。
「……どういう意味か、さやかさんにもわかりませんか?」
貴水の発する声は硬くて平板だった。
「まったく」
「心当たりもないですか?」
「あるわけない」
「そうですか」
貴水は息をつき、また空を仰いだ。しばらくそうしてから、再び首を起こして強いまなざしでさやかを見つめる。
「結城さやかって、この学校にひとりだけですよね? 同姓同名の人がいたりします?」
「いないけど……」
「わたしも言葉の意味を訊こうとしたけど、その前に向こうから電話を切られちゃって。それが了との最後の会話になりました」
本当にまったく思い当たることがない。
「実は了の口から〈魔女〉って言葉を聞いたのは、それがはじめてじゃないんです。定期公演の二週間くらい前だったかな。電話中に了が『痛ッ』ってうめいたから、どうしたのって訊いたら、舌打ちして『〈魔女〉め……』って言ったんです。それ以上、訊いてもなんでもないって言うし、もののたとえかなってくらいで気に留めなかったんですけど。その数日前にも了は変なことを言ってました。わたしに電話をかけてきて、いきなり『知り合いが盗聴してたらどうする?』って」
「盗聴? ってあの?」さやかは耳に手をやった。
「わたしも聞き返しました。創作の話かって訊いたら、そんなところだって言って、やっぱり自分で考えるからいいって。でもこのときの了の口調はなんだか深刻っていうか、いつもと感じが違ったような気がして、なんとなく気になったから数日後に今度はわたしのほうから電話をかけたら、さっきの言葉が出てきたんです。わたしは前の質問の答えとして、ひとまず理由を訊くかな、って言いました。了はただ、そうか、ありがとうって言って、忙しいからってすぐに電話を切りました」
『百獣のマクベス』に「盗聴」という要素はない。
「了が死んだことを知ったあとで、このときの会話を思い出しました。死の直前の電話でも了は〈魔女〉って言葉を口にしてた」
貴水はそこで少し効果を計算したような間をとった。
「たぶん了は『知り合い』である『〈魔女〉』なる人物に『盗聴』されてたんです。そしてそのことで追いつめられて自殺した」
「そんな……」
言葉が続かなかった。そんなばかなと一笑に付してしまうには、それらの会話のあとで実際に了が命を落としたという事実が重すぎる。
「そのころの了に変わった様子はありませんでした? 悩んでるみたいだったとか」
わからないと答えかけて、ふと思い当たったことがあった。態度に出たのか、貴水はすぐさま「何ですか」と身を乗り出した。
「……それより少し前だけど、二年一学期の実力考査で了の筆記試験の成績がガタ落ちした」
百花演劇学校では各学期末に実力考査が行われる。学年や科によって割合は異なるが、いずれも筆記試験と課題・実技の総合力で評価される。制作科の場合、課題は実際に脚本や企画書を書くという形だ。
「課題は一位だったのに、筆記は最下位」
試験結果は全員に公開される。その試験でさやかは総合一位だったが、筆記は一位、課題は二位だった。少しもうれしくなかった。了のように、筆記がビリでも課題がトップのほうがどれだけいいか。クラスメートの反応は、やっぱりね、というものだった。総合はさやかでも、やっぱり課題はね。
「一年のときの試験では、了は筆記のほうもそんなに悪くなかったはず。このときは答案をほとんど白紙で出したって聞いたけど」
「なんでですか?」
「たんに勉強してなかったって本人は言ってたって。二年になってからは講義のノートもろくに取ってなかったみたいだし、座学を重視しなくなってたのかも。三学期の成績で次の年の新歓公演の演出家が決まるわけだけど、了は執着なかったんだろうね。なにしろ元の定期公演を担当したわけだから」
たしか芽衣あたりから話を聞いただけで、さやか自身が了からじかに聞いたわけではない。貴水の言うように悩んでいて――盗聴被害に遭って追いつめられていて――勉強どころではなかったという可能性もあるのだろうか。
貴水がこちらの様子を観察しているのに気づいて、にらみつけた。いや、彼女の想像は飛躍しすぎている。
「あんたの考えは牽強付会もいいとこ」
「ケンキョウフカイ? って何ですか」
貴水は目をぱちくりさせた。さやかは質問を無視した。
「さやかさんは事故だって信じてるんだ」
「信じてるんじゃなくて、それが事実なの」
結局、状況を説明してやる羽目になった。貴水は口を挟まずに聞いていたが、予想に反して、たいていのことはすでに知っていたようだった。綾乃たちと話したように、知らずに誤解しているわけではなさそうだ。よけいに始末が悪い。
「事故だって判断された理由はわかりました。でも疑問がありますよね。了はなんで幕間に舞台へ出ていったんですか? なんで一幕の途中で客席を離れてたんですか? 最後の電話の言葉の意味は?〈魔女〉って……」
「わかんないよ」
矢継ぎ早に繰り出される貴水の質問を、さやかはいらいらと遮った。
「了の考えることなんかわからない」
だってあの子は特別だった。特別な目、特別なセンス、特別な才能――。
「じゃあ〈魔女〉についてはどうですか?」
「わたしは知らない」
なぜ了がさやかを〈魔女〉と呼んだのか、本当に見当もつかない。制作科の同級生どうし接する機会はあったが、舞台製作のうえでも個人的にも特に深い関わりはなかった。盗聴という言葉にも心当たりはない。なんでわたし? 訊きたいのはこちらのほうだ。
「ふうん。じゃあ、さやかさん以外で〈魔女〉って言ったら『マクベス』の三人の魔女ですよね。去年の定期公演の魔女役は昨日の新歓公演と同じ、綾乃さん、綺羅さん、氷菜さんか。彼女らと了の関係はどうでした?」
「いいかげんにして」
額が熱かった。脳の情報処理が追いつかなくてオーバーヒートを起こしそうだ。
「他に〈魔女〉に該当しそうな人っていませんか? 了ともめてた人とか……」
皆まで聞かず、さやかは貴水の横をすり抜けて非常口のドアへ向かった。すり抜けるときに肩がぶつかったが、謝る気はなかった。
「さやかさん」
無視してノブをつかんだとき、予鈴が鳴って、図書室に本を返しに行く時間がなくなったことを知らせた。校舎に足を踏み入れたさやかの背後でドアが閉まり、背中から吹きつけてきた風が止まる。貴水は引きとめず、追いかけてもこなかった。だが、その視線がずっとついてくるような気がした。
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