その幻にたぶらかされ、
あいつは破滅へまっしぐら。
運命を足蹴に、死をあざけり、
神の恵みも分別も恐怖心さえ忘れ去り、野望のとりこだ。
分かっているね、人間どもの大敵は
自信過剰というやつだ。
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高らかなファンファーレとともに、最後の台詞が終わった。
拍手が起きるまでのごくわずかな空白の時間、結城さやかは無意識に身を硬くしていた。客席から見ていたかぎり、公演は成功だったと思う。大成功と言ってもいい。しかしそれは演出を担当した自分の感想であり、観客にとってはそうではないかもしれない。
盛大な拍手が湧き起こり、さやかはほっと緊張を緩めた。さやかと同じ三年生で演出助手を務めた南芽衣が、隣の席で激しく手を叩きながら顔を寄せてささやく。
「やっぱりすごい。別格だよね」
さやかは無言で拍手に加わった。芽衣の言葉に異論はないが、ないからこそ、無邪気に「だよね」とは言えない。
舞台上では出演者が勢ぞろいして観客に頭を下げている。プロセニアム形式と呼ばれる額縁型の舞台だ。幅は約十一メートル、奥行は十二メートル、高さは可変式で七メートルから九メートル。その頭上から深紅の緞帳が下りてくる。
緞帳の裾には〈百花演劇学校〉の六文字が金糸で刺繍されている。
名のとおり演劇に携わる人材を育成する教育機関だが、特徴的なのは、入学資格を有するのは中学校もしくはこれに準ずる学校を卒業した女性のみという点だ。一般的な高校生に相当する年齢の少女たちが日本全国から集い、都内の寮で寝起きしながら三年間かけて専門的な勉強をする。
四月になったばかりの今日、学校の敷地内に建つこの専用劇場――〈十二夜劇場〉では、入学式に続いて新入生歓迎公演が行われていた。
客席の興奮も冷めやらぬうちに、下りきった緞帳の前に校長が姿を現した。長嶋ゆり子。自身も百花演劇学校出身の舞台俳優であり、四十代でキャリアは二十年以上になる。春らしいパステルカラーのスーツに身を包んだ校長は、慣れた様子で壇上に立ってマイクを構えた。客席は水を打ったように静かになったが、水面下に新たな興奮が感じ取れる。
「あらためまして新入生のみなさん、ようこそ、百花演劇学校へ」
鍛えられた声で校長が告げたとたん、客席の前方中央に集められた新入生たちの空気が変わった。彼女らの感じた喜び、誇らしさ、そして重圧が、保護者席の後ろにいるさやかにまで伝わってくる。
「先ほどの入学式でも、わたしは同じ言葉をあなたがたに告げました。でもあのときといまとでは受け止めかたが違っていることと思います。みなさんはいま、あなたがたの先輩たちによる二本の公演を見ました。ミュージカルとストレートプレイ――すなわち基本的に歌唱のない台詞劇ですね。みなさんは一年生のあいだは、俳優志望、制作志望の別なく演劇に関する基礎を広く学びます。そして一年後、自分の進む道を選択することになります。脚本家や演出家など作り手を目指す制作科か、演者を目指す俳優科か。俳優科の場合はさらにミュージカル専攻か、ストレートプレイを中心とする演劇専攻か。すでに進路を決めている人はいますか?」
九十人の新入生のうち三分の二ほどが手を挙げる。のちに変わることもあるが、あらかじめ決めて受験する者のほうが多い。さやかもそうだった。最初から脚本家・演出家になりたかったし、演じる側のことを学ぶのはそのための財産だと割り切っていたものの、やはり演技や歌やダンスの授業は苦痛だったものだ。
校長は挙手した何人かを指名して、進路の希望とその動機、いま見た公演の感想などを尋ねた。マイクを持った二年生が指された生徒のもとへ走る。どこかの養成所でレッスンを積んできたとわかる発声を誇示するように答える生徒もいれば、真っ赤になって声を詰まらせてしまう生徒もいる。
「じゃあ最後に、挙手してない人にも感想を。そこの背の高いあなた。そう、あなた」
指されて起立したその生徒は、新入生と保護者の一団を隔てたさやかの位置から見ても、はっきりわかるほど背が高かった。百七十センチはゆうに超えているだろう。マイクを差し出す二年生を見下ろしている。全身は見えないが首から肩にかけてのラインがすらりとして、ショートカットにした頭が小さい。
「一年一組、藤代貴水です」
いい声だなとさやかは思った。声量が豊かで滑舌もいい。体型とあいまって舞台映えしそうだ。それにとても堂々としている。
「さっき挙手してなかったでしょう」
「はい、進路は決めてません。というより、わたしがこの学校へ来た目的は他にあるので」
「他?」
はい、と答えたきり続きはなかった。説明する気はないようだ。反応に困ったような空気が場内に流れる。ひそひそ言う声も聞こえたが、当人は気にするふうもない。
隣の芽衣が「何だろうね、あの子」と不思議そうにささやく。さやかは目で応えることもせず、じっと貴水の後ろ姿を見つめていた。あっさりとした口調なのに、妙な迫力を感じるのは気のせいだろうか。
「まあいいでしょう。では舞台の感想を聞きましょうか」
「万歳、マクベス!」
貴水はだしぬけに大きな声を出した。さやかは驚き、同時に何か不穏なものを感じた。
いまのは言わずと知れたシェイクスピアの戯曲『マクベス』の台詞だ。四大悲劇のひとつに数えられ、ついさっき演劇専攻の生徒が翻案のうえ『百獣のマクベス』と題して上演した演目である。
主人公であるスコットランドの将軍マクベスは、三人の魔女の予言にそそのかされ、主君を暗殺して王位を奪う。やがて彼は暴君になりはて、最大の理解者にして共犯者であった妻は心を病んで死に、最後は反乱にあって斃される――。
元の声量に戻って貴水は続ける。
「演劇専攻の『百獣のマクベス』がすごくよかったです。誰もが知ってる演目を斬新な設定でアレンジしてるのがおもしろかったし、特に三人の魔女の演技がすばらしいと思いました。強いていえば、太鼓の演出は浮いてる気がしましたけど」
芽衣が気まずそうに横目でこちらを見たのがわかった。反乱軍が迫ってくる場面に太鼓の音を入れる演出をしたのはさやかだ。新入生たちが困惑したようにちらちらと顔を見合わせている。忌憚のない感想をと最初に校長は言ったものの、普通、新入生はいきなり先輩にダメ出しはしない。
「この新歓公演って、前年に行われた定期公演の再演なんですよね?」
「ええ」
百花演劇学校では年に一度、十月に定期公演が行われる。その作品を翌年四月の新入生歓迎公演で再演するのだが、年度をまたいで三年生は卒業するため、中心となる出演者やスタッフはたいていごっそり入れ替わる。
「去年の定期公演で脚本・演出を手がけたのは、設楽了ですよね」
唐突なその言葉に、胃がぎゅっと硬くなった。藤代貴水は設楽了を知っているのか。もちろん知っていてもおかしくない。後ろや脇のほうの席で観劇していた二、三年生のあいだに落ち着かない空気が漂う。
演劇専攻の定期公演では脚本と演出をひとりの生徒が担当し、そのひとりは全学年を対象とした脚本のコンペによって選ばれる。審査するのは、百花演劇学校で講師を務める各分野のプロたちだ。
さやかと同じ年に入学した設楽了は、一昨年、百花演劇学校史上はじめて、一年生にしてその座を射止めた。コンペにエントリーするのはほとんど三年生というなかで、満場一致の決定だったという。異例の抜擢だったが、了が手がけた定期公演は絶賛を浴び、審査員の評価が正しかったことを彼女はみごとに証明してみせた。そして去年、二年生になった彼女は、やはり三年生を押しのけて脚本家・演出家に選ばれた。前評判は前年以上に高く、公演直前には、学校史上最高の出来ではないかとまで言われていた。
そうなっていただろう、無事に公演が行われていれば。期待とともに上がった幕が、何ごともなく下りていれば。
一幕と二幕の幕間に起きた事故だった。舞台の床下には「奈落」と呼ばれるスペースがある。舞台の床が上下に動く際の可動スペースであり、大道具や舞台装置の搬出入に使用されたり、俳優が移動するための通路になることもある。十二夜劇場の場合、その深さは八メートルにも及ぶ。暗くて深い、劇場の底。
設楽了は舞台から奈落へ転落し、息を引き取った。公演はその場で中止となった。
そんなことがなければ、この新入生歓迎公演でも彼女が演出を担当していただろう。新歓公演の演出家は、新三年生になる学年のなかから二年生の三学期末考査の成績によって選ばれる。さやかは一位を取って順当に選ばれたが、もし了がいたら勝てた自信はない。了がいなくなったから、さやかは演出の座を手に入れることができた。
「それがどうかした?」
尋ねる校長も剣呑な顔になっている。
貴水はまっすぐに舞台上の校長を見つめたまま、はっきりと告げた。
「さっきの、わたしがこの学校へ来た目的。わたしは、設楽了の死の真相を調べに来ました」
『少女マクベス』は全4回で連日公開予定