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「さやか」
 新歓公演が終わり、舞台裏で片付けをしていたところへ、着替えをすませたいぬいあやが歩み寄ってきた。長年続けてきたクラシックバレエで培われたものか、常に姿勢が美しく、動作のひとつひとつが優雅だ。いつものように豊かに波打つ長い髪をヘアバンドでまとめて、たまご型の顔の輪郭をあらわにしている。
「お疲れさま。大成功ね」
「だといいけど。綾乃の演技はよかったよ」
「もしかしてあのおかしな新入生が言ったことを気にしてるの? あれはたんにひとりの感想にすぎないわ。わたしは太鼓の演出はよかったと思ってるし、会場の拍手のほうを信じるべきよ」
 先ほどの校長の訓話や新入生とのやりとりを、出演者たちは舞台袖に待機して聞いていたのだ。
 さやかが口を開こうとしたところへ、明るい声が割って入った。
「なになに、さやっち、落ちこんでんの?」
 綾乃の後方から連れだって歩いてきたのは、かんざきだ。ついさっきまで『百獣のマクベス』において魔女役を演じていた三人がそろった。
「気にすることないって。感じ方は人それぞれなんだし、聞き流せばいいんだよ」
 関西出身の綺羅が、かすかに西のアクセントが混じった口調であっけらかんと言った。アイドルのように華やかな愛らしい笑顔に、部分的にピンクに染めた髪がよく似合う。いつもはめているバンドの太いスマートウォッチが、手首の細さを際立たせている。
「異なる意見を参考にするのはいいけど、落ちこむ必要はないよ」
 切れ長の目をさやかに向けて、氷菜も静かに言った。ややハスキーな低い声は彼女の魅力のひとつだ。
 さやかは片付けを再開しながら、三人にまとめて言葉を返した。
「気にしてないよ」
 見抜かれるのも慰められるのも嫌で、ことさら何でもないふうを装った。
 本当はショックだった。あの一年生、藤代貴水がダメ出しをした太鼓の演出は、設楽了が演出した定期公演バージョンにはなかったものだ。それを付け加えるにあたって、よけいかもしれないという考えは自分のなかにもずっとあった。それでも何かせずには、加えるなり削るなりせずにはいられなかったのだ。了のオリジナルのままにはしたくなかった。
「あの子と言えば……」綾乃の声の調子が変わった。見れば、古風な印象のある上品な顔に懸念の影が差している。「最後のあれはどういう意味かしら」
 了の死の真相を調べに来たという発言のことだろう。校長が絶句しているうちに貴水は着席した。場内は静まりかえったのちにどよめいたが、貴水は黙って座っているだけで、うやむやのままに全員退場となった。
「真相って言ってたけど、いったい何のこと?」
「意味不明」と綺羅が華奢な肩をすくめる。
 さやかも同感だった。真相も何も、了の死は痛ましいが単純な事故だ。
 あの日、一幕の途中で、大道具のひとつである魔女の大釜の脚にひびが入っているのが見つかった。牛を丸ごと煮こめそうなほど巨大な釜で、場面によって他の舞台セットや幕で隠されることはあるが、基本的に舞台のしも奥にずっと置かれているものだった。急遽、一幕と二幕の幕間で奈落に下ろして修理を行うことになり、そのために下手奥のりが使用された。迫りとは床の一部が切り抜かれてエレベーターのように昇降する舞台機構で、俳優や大道具を登場させたり退場させたりするのに使われる。大釜を載せた四メートル四方の床が八メートル下の暗がりへ下りていき、舞台には同じ大きさの穴が開いた。
 迫りは危険な装置であり、しばしば事故も起きている。したがって公演に関するほぼすべての作業を生徒みずからが行う百花演劇学校においても、迫りの操作は外部のプロに依頼しており、作動中に生徒が近づくことは厳禁とされている。このときもそのルールは守られていた。迫りが作動しているあいだ、生徒は全員、念のため舞台から離れて袖で待機していた。迫りが下り切って動きが止まってから、舞台に出て二幕の準備に取りかかったが、そのときも迫りからは充分な距離を取っていた。
 了が突然、舞台に登場したのはそんなときだった。幕間に確認したいことでもあったのだろうか。緞帳を下ろした舞台へ下手の袖から出ていき、ふらふらと吸いこまれるようにして、そのぽっかり口を開けていた奈落へ落ちた。
 一幕が上演されているあいだ、彼女は客席のかみ、中央、下手、二階、とさまざまに場所を移動しながら舞台を見ていたらしい。しかし大釜の破損が発覚したときは姿が見えず、演出補佐のひとりとしてバックヤードにいたさやかも捜したが見つけられなかった。舞台装置に関する責任者である舞台監督の決定によって大釜を奈落へ下ろすことになり、その旨がインカムを通してスタッフ全員に伝えられた。当然、了にも伝わっているはずだった。
 了がバックヤードから舞台下手へ続く通路に現れたとき、ちょうど楽屋へ向かう綾乃と氷菜と行き合った。ふたりはその近くで舞台監督の三年生と話していて、話が終わって立ち去るところだったという。了はふたりに賞賛の言葉をかけ、そのまま舞台へと出ていった。舞台では二幕の準備が進められており、全体が照明で照らされて明るく、迫りが下がっていることは一目瞭然だった。もちろん迫りが下がっていることを示すランプも点いていた。
 了が落ちた瞬間をさやかは見ていない。何人かが悲鳴のような声をあげた。何か重いものがぶつかる大きな音が聞こえた。事故を報じたインターネットの記事によると、衝突音は客席にも聞こえたらしい。大きなセットが倒れたのだと思ったという人もいれば、劇場の外で交通事故があったか雷が落ちたのだと思ったという人もいた。目撃した生徒が袖から舞台に飛び出し、下手奥の大穴の縁から奈落を覗きこんだ。八メートル下では、大釜の修理に取りかかろうとしていた美術班の生徒たちがパニックを起こしていた。彼女らの誰も巻きこまれずにすんだのは不幸中の幸いだったと言える。了は大釜のなかに落ちた。意識と機能を失ったその体が病院に搬送されたあとには、血にまみれて大破した釜が残った。
 了は没頭するタイプだった。創作にのめりこんで寝食を忘れたり講義をすっぽかしたりするのは当たり前、身だしなみなど二の次、三の次になり、髪は鳥の巣、服はよれよれ、眼鏡も汚れた状態で、ふらふら歩いている姿がよく見られた。そのせいでしょっちゅう何かにつまずいたりぶつかったり、物を落としたりしていた。まして事故が起きたのは、定期公演の本番当日だ。脚本・演出を手がけた了はいつにもまして疲労が溜まっている様子だった。しかも急に舞台に出ていったからには何らかの明確な目的があったはずで、そのことで頭がいっぱいだったということは充分に考えられる。了の目的が何だったのかはわからないままだ。調べてみても大釜の破損の他に舞台に物理的な問題はなかったから、おそらく了の独自の感性による思いつきがあったのだろう。
「あの一年生、藤代貴水さん、だったわね。了と親しかったのかしら」
 胸の前で白い両手を組み合わせて綾乃が言う。
 綺羅がスマホを取り出し、すばやく指を動かした。
「ふじしろたかみ、って検索したけど、それっぽいものはヒットしないな。中学の後輩とか? 了って北海道出身だっけ」
「真相なんて言うと、まるでただの事故じゃなかったみたいに聞こえるわ」
「じゃあなに、殺人事件? ミステリーじゃん」
「茶化さないで、不謹慎よ」
 もちろんそんなことはありえない。あのとき了の体に触れられるような距離には誰もいなかった。了がひとりで歩いていってひとりで落ちるのを、作業中だった多くの生徒が目撃している。また迫りは完全に下り切って静止していたので、その操作と彼女の転落に関連はなかった。
 するとあの一年生、藤代貴水は、自殺の可能性を疑っているのだろうか。それこそありえない話だ。動機が見当たらないし、遺書のたぐいもなかった。何より、大事な公演の本番中に演出家がそんなことをするものか。警察も事故だと断定し、遺族も納得している。
 ふと気がつくと、片付けをしている生徒たちの注目を集めていた。会話の内容のせいというよりは、綾乃、綺羅、氷菜の存在そのものが原因だろう。
 堂々として気品の漂う綾乃。明るい表情でぱっと目を引く綺羅。クールでミステリアスな雰囲気の氷菜。
 芸能の世界ではよく「華がある」という言葉が使われるが、さやかは彼女らに会ってその意味を実感した。容姿の美しさとはまた別の次元で、自然に目が惹きつけられてしまう不思議な魅力。その人にだけ光が当たっているかのように見える存在感。まさに華であり、おそらくそれは天性のものだ。努力で手に入るものではない。
 彼女らは入学したときから目立っていて、学内にはそれぞれに多くのファンもいる。実力も備えており、昨年の定期公演では三年生を差し置いて、三人の魔女という大役に抜擢された。全学年を対象にしたオーディションでみごと勝ち取ったのだ。配役は了の独断に近いもので、ともに審査を担当した制作チームの三年生からは抗議の声があがったが、稽古の途中からは静かになり、本番を迎えるころには了の慧眼を称える声に変わっていた。本来なら今日の新歓公演では、三人ともが主役やそれに準ずる役を演じてしかるべきだった。さやか自身、彼女らのマクベスやマクベス夫人を見たい気持ちも強かった。しかし定期公演での魔女役があまりにもすばらしく、にもかかわらず最後まで演じきることができなかったため、悩んだ末に今回も同じ役を続投してもらうことにしたのだ。本人たちもそれを望んだ。
「たぶんあの貴水って子は、事故の状況をよく知らないで言ってるんだと思う」
 さやかが言うと、綾乃は組んでいた手をほどいてうなずいた。
「ああ、きっとそうね。それで何か誤解してるんだわ。説明してあげたほうがいいかしら。変なことを吹聴されて学校の名に傷がついたら、先生や先輩がたに顔向けできないもの」
 委員長体質ー、と綺羅がからかう。
 黙って聞いていた氷菜が、ふとさやかに問いかけた。
「さやかは藤代貴水の顔を見た?」
 舞台の上ではおそろしく雄弁な切れ長の目は、普段はほとんど感情を表さない。
「ううん、後ろ姿だけ。なんで?」
「いい声してたなと思って」

 

『少女マクベス』は全4回で連日公開予定