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 貴水の顔を見る機会はすぐに訪れた。翌日、学校で、貴水のほうから話しかけてきたのだ。
「結城さやか先輩、ですよね」
 昼休みのことで、さやかは校舎四階にある図書室へ本を返しに行くところだった。廊下で振り向いてその姿を認めた瞬間、昨日のあの子だとわかった。
 近くで見ると本当に背が高い。百七十センチある氷菜より高い。思わず足元を確認したが、彼女が履いているのはさやかのと同じぺったんこの上履きだった。引き締まった長い脚が、はしばみ色の制服のプリーツスカートから伸びている。窓から差しこむ春の日が、小さな顔を照らしていた。輪郭がシャープで、目元が涼しい。挑むような目つきと、きゅっと上がった口角は、さわやかにも生意気そうにも見える。少年という言葉が頭に浮かんだ。
「一年の藤代貴水です」
 そう名乗りながら、貴水はすたすたと近づいてきた。物怖じする様子はない。さやかは手にしていたチェーホフの戯曲集を胸に抱え、彼女のほうへ向き直った。
「何か用?」
 言い方がつっけんどんなのは、相手が貴水だからではない。褒められたことではないが、愛想がないせいで、機嫌が悪いのかと人から訊かれることがよくある。昨日の新歓公演直後に全校生徒と保護者の前で彼女に演出をけなされたことを根に持っているわけではない――つもりだ。
 貴水は気にするふうもなかった。
「先輩に聞きたいことがあって」
 さやかは目顔で先を促した。
「先輩は去年の定期公演で、設楽了の演出補佐をしてたんですよね」
「いちおう、そうだけど」
 いちおう、と付けたのは、複数人いた補佐役のひとりにすぎなかったからだ。
「了とは親しかったんですか?」
「何が知りたいの?」
「言ったじゃないですか、了の死の真相です」
 貴水はあいかわらず周囲をはばからずにそんなことを言う。廊下には何人かの生徒がいて、立ち話をしていたグループがこちらを見たのがわかった。そもそも昨日の爆弾発言で、貴水はすっかり有名人なのだ。関わりたくないのにと迷惑に思いながら、さやかは少し声を潜めた。
「了のことは事故だよ」
「そういうことになってますね」
「なってるって……」
「ただの事故なんかじゃない。了の死は自殺だったとわたしは思ってます」
 きっぱり断言するので、さやかは呆気にとられた。やはりこの一年生は事故についてよく知らないのだ。状況を説明してやってもいいが、こんなに思いこみの強いタイプを相手にするのは厄介だ。自分より面倒見のいい人間はいくらでもいるのだし、放っておいてもそのうちわかるだろうと判断して、さやかは踵を返した。
「え、どこ行くんですか?」
「つきあってらんない」
「待ってくださいよ。ちゃんと根拠だってあるんですから」
 貴水もさやかの隣に並んで歩きだす。かなり早足で歩いているつもりなのに貴水のほうは余裕しゃくしゃくで、歩幅の違いが腹立たしい。無視して足を動かしていると、貴水はさやかの前に回りこんだ。後ろ歩きをしながら「ねえ、さやかさんってば」などとなれなれしく話しかけてくる。経験したことはないが、しつこいナンパみたいだ。
 このままでは図書室の前で通せんぼされそうだったし、周囲の目も気になって、さやかは廊下を左に折れた。貴水は「お、フェイント」とどこかおもしろがるように言って、すぐに追いかけてきた。曲がった先の突き当たりには、非常階段に出るドアがある。
 サムターン型の鍵を開けて外に出る。貴水が出てくる前に扉を閉めたかったが、ぜんぜん間に合わなかった。
「へえ、非常階段だ」
 貴水は踊り場の手すりに両手をかけて、軽く身を乗り出した。特別な景色が望めるわけではないが、閑静な住宅街で周囲に高い建物がないので見晴らしがいい。何より、非常時以外は使用禁止のため、ひとりになりたいときにはもってこいの場所だった。
「わあ、いい風。春のにおいがする」
「根拠って?」
 むき出しの問いを背中にぶつけると、貴水はくるりとこちらを向いた。のどかな空が彼女の背景を彩り、昼休みにも発声練習に励む生徒の声が遠くから聞こえてきた。
「聞いてくれるんだ」
「聞くまでつきまとうんでしょ」
「当たりです。いくつかあるんですけど」
「さっさと言って」
 貴水は軽く首をすくめた。こほんと咳払いをしてから口を開く。
「わたし、了とは地元が同じで友達だったんです。あの日、去年の定期公演の日、わたしはちょっとした用事で了に電話をかけました。午後二時過ぎくらいに。公演中の時間だったけど、わたしはあの日が定期公演だってことを忘れてて」
 胸がざわりとした。元は五幕ものの『マクベス』を、『百獣のマクベス』は二幕に仕立て直している。午後二時過ぎなら一幕の終盤だ。それから十数分後の幕間に、あの事故は起きた。
「了は電話に出ました。あとから思えば妙ですよね、演出家ってたいてい客席から舞台を見てるものでしょう? 上演中に客席にいたら電話に出られるはずないのに」
「あの日、了は特定の席に着かずに、客席をあちこち移動していろんな場所から見てたけど」
 だが電話に出たのなら、そのときは客席以外の場所にいたということだ。大事な公演を見ずにどこで何をしていたのか、さやかは知らない。
「電話に出た了はなんだか様子がおかしかった。声が震えてるみたいで、ひどく興奮してるっていうか、取り乱してる感じがしました。会話もかみ合わなくて、何を言ってるのかわけがわからなかったんです」
「了が?」
「意外ですか?」
「そりゃ……」
 意外どころか想像もつかない。了とは親しかったわけではないが、三十人しかいない制作科のクラスメートとして短くない時間を共有していた。プライベートなつきあい――一緒に食事をしたり休日に出かけたり寮の部屋を行き来したり個人的な話をしたりすることはなかったものの、同じ課題に取り組むときなどそれなりに接する機会はあって、人となりをある程度は知っているつもりだ。
 にぎやかなタイプではなかった。他人を拒絶するわけではないが、積極的に関わろうとはせず、親しい友達もいなかったようだ。一重まぶたの腫れぼったい目で観察するように人を見た。独特の芝居がかったしゃべり方をした。彼女が饒舌になるのは、演劇に関することを話すときだけだった。しばしば演劇論や批評をとうとうと語ったが、そのレベルについていける生徒はいなかった。演出家として俳優に接する姿勢には、容赦も妥協もなかった。厳しすぎるほどで、それだけ確固たる自信と信念があったのだろう。その言葉は揺るぎなく整然としていて、ときに貫くようだった。混乱して支離滅裂になるなんて、まるで彼女らしくない。
「そもそもあんた、了と友達って言ったけど、歳も違うし何の友達なの?」
「地元で開催された演劇ワークショップで出会って仲良くなったんです。わたしが中一、了が中三のとき。同じ北海道って言っても家は離れてるし学校も違うから、会うことはほとんどなかったんですけど、了がこっちに来てからもずっと連絡を取り合ってました」
 了にそんな友達がいたとは、これまた意外だった。
「さやかさんから見て、了はどんな人でした?」
「……才能のかたまり。演劇バカ」
 天才、という言葉をさやかは呑みこんだ。口にしてしまったら、彼女と自分のあいだには絶対に超えられない壁があると認めることになる気がした。華というものが努力ではけっして身につかないように。
「脚本家・演出家として以外では?」
「以外? ないよ。そうじゃない了なんて知らない」
 了の頭のなかには演劇のことしかないように見えた。
「そっかあ」
 貴水は手すりに長い両腕を這わせて空を仰いだ。すぐに首を起こし、小さな顔をこちらに向ける。逆光のなかからさやかを見つめる瞳が不穏に揺れた。
「定期公演の日のその電話で、最後に了が言ったんです。あなたが〈魔女〉だ、って」
「〈魔女〉?」

 

『少女マクベス』は全4回で連日公開予定