一 断指 昭和六十二年
正範は、寝床の押入れの中から襖を少し開け、外の様子を窺った。
タオルケットを腹にかけた明美が、布団で気持ちよさそうにいびきをかいている。もう一組の布団は畳まれたままで種雄の姿はない。父親の布団を敷きもせずに母親が寝ているということは、種雄は昨夜帰ってこなかったのだ。
それはつまり、いつ帰ってきてもおかしくはないということでもある。
日曜日は、正範にとって厄日だ。
平日ならば種雄が起きる前に登校し、下校するころには種雄はどこかしらに出かけている。帰宅するのは正範が押入れの中で寝た後で、よほど虫の居所が悪くなければ襖を開けてまで正範を殴ることはない。しかし学校のない日曜日、小学三年生の正範が時間を潰すことのできる場所は、家の近くの河原しかなかった。
正範は襖を大きく開けた。カーテンの隙間から差しこむ曙光のお零れが押入れの奥に届く。
曰佐正範が両親と暮らす家は、市営住宅の小さな平屋だ。ほぼ正方形の建物で、玄関を入ると申し訳程度の沓脱があり、すぐ右にトイレと風呂、左には台所と小さな食卓がある。奥は和室が二間並んでいて、部屋の間の襖は取り払われ、どこにいようが家全体を見渡せる。
正範は、子供用布団の足元にあるプラスチックケースからTシャツと半ズボンを取りだし、急いで着替えた。しかし靴下を履いているところで、玄関の外から聞き覚えのある声が聞こえた。
間に合わなかった。正範は暗い気持ちになる。それでも押入れから出て、六畳間の掃き出し窓へと走った。
カーテンを開けて、しまったと唇を噛む。いつもなら窓の下にあるサンダルが、ない。靴を取ろうと沓脱へと走り、爪先の破れた運動靴を掴んだ瞬間、玄関の扉が開いた。
正範は判断の誤りを悔いた。靴なんか取らず、裸足で窓から外に出ればよかった。
種雄の平手が左頬に飛んできた。まともに喰らい、中腰の姿勢のまま床を転がる。痺れるような痛みに体を丸めると、「邪魔や!」という怒声が降ってきた。頬を押さえ、台所へと逃げる。
種雄は赤いアロハシャツを着ていた。発達した大胸筋に押され、シャツのボタンが弾け飛びそうだ。襟ぐりから首の周りにまで筋肉が盛り上がっている。アロハシャツの袖からは刺青が見えていた。
「マサ、氷水だ。ボウルがいっぱいになるくらい作れ」
軽く右足を振って靴を脱いだ種雄は、左手で誰かの襟を掴んでいた。手の指は四本しかない。小指の付け根から申し訳程度に突き出た、丸みのある突起がひょこひょこと宙で遊んでいる。
襟を掴まれているのは、サブという男だった。正範は、種雄をアニキと呼ぶこの男をあまり好きではない。種雄に殴られる正範をまるで犬か何かのように見て笑うからだ。
しかし今、家に上がったサブの顔色は正範にも分かるほど蒼白い。
種雄は大股で居間に入り、左手を払って靴を履いたままのサブを卓袱台の前に転がした。
寝ている明美を見て、「起きろ!」と怒鳴る。だがいびきは止まらない。
種雄は大きく一歩を踏みだし、右足の甲で母親の腰あたりを蹴り上げた。明美が布団の上で跳ねる。遅れてくぐもった悲鳴が漏れた。
「いつまで寝とうか!」
背中を丸めた明美を、種雄がまた蹴った。
「こっちは朝まで駆けずり回っとったのに、いい身分やな!」
種雄が左足で明美の後頭部を踏みつける。
「……ごめん」
「ったく、このメス豚が」
明美の頭から足を下ろした種雄の目が、ボウルを持って固まっている正範に向けられた。
「なんばしょっか、さっさとせんか!」
正範は急いで冷蔵庫へ向かった。冷凍室の扉を開け、母親が焼酎を割るために作り貯めている氷を取りだし、ばらばらとボウルに落とす。水を入れ、種雄のもとへ持っていった。
礼は、「遅か!」のひと言とともに繰り出された平手打ちだった。
ボウルから水が零れる。頬の痛みを無視し、それ以上の水が零れないよう気をつけながら正範はボウルを卓袱台に置いた。種雄を迂回し、押入れの前に避難する。
「アケミ、大石先生のところに行って、指の骨を削ってもらう準備しとけ」
額を布団に押し当てて蹲っていた母親が顔を上げた。
「……サブ、指つめるの?」
「博奕の客が飛んだ。サブが連れてきた奴だ」
「客が飛んだだけで?」
「掛けにしとった三百万がパアだ」
「三百万……」
「函南のアニキから、娘を風呂に沈めて回収しろと言われとった。なのにサブが仏心を出して、この様だ」
「だってアニキ、娘はまだ中学生です」
卓袱台の前で両膝をついていたサブが、震える声で言った。
種雄の拳骨がサブの横面に飛んだ。
「穴がありゃいいったい! お前がつまらんこと言っとるけん、俺までしばかれようが!」
種雄の目は血走っている。
「アニキは朝一でサブの指を持ってこいって言いよう。時間がなかけん、やるぞ」
種雄が台所に行き、シンク下の包丁差しから出刃包丁を抜いた。木製のまな板を手に取る。
「ちょっと、うちの使うの?」
「アニキ、それ、使ってるやつでしょ」
明美とサブが同時に抗議の声を上げる。
種雄は二人の声を無視し、まな板と包丁を卓袱台に載せる。居間の片隅にあった焼酎の一升瓶を開け、中身を出刃包丁にかけた。液体が包丁からまな板、卓袱台、そして畳へと流れ、芋焼酎の強烈な臭いが部屋中に漂う。
「修羅の国の子供たち」は全3回で連日公開予定