「手ぇ出せ、サブ」
サブが震えながら左手をボウルから出した。中腰になった種雄が、その手首を掴んで小指をじっと見つめる。他の指に比べて明らかに白い。タコ糸で縛られ、血流が止まっている。
「よかやろ」種雄がまな板から包丁を取り上げた。「置け」
体を小刻みに震わせながら、サブは左手を広げ、まな板の上に置く。
「バカか貴様、鑿じゃなく出刃やぞ。他の指は曲げとかんか」
種雄がサブの頬を張る。サブは左手で拳を作り、小指だけを伸ばしてまな板に置いた。種雄が柄を向けて差しだした包丁を、右手で受けとる。
包丁を握るサブの手を種雄が掴み、小指の第一関節あたりに刃を乗せた。
「ここでいいやろ。できるだけ残しておいたほうが、次にやるとき楽やけん」
「次って」
「おまえのヘマがこれで済むとは思えん。次はもうちょい下を切れば、指を節約できるやろ」
切られた指は、生えてこない。
正範はそんな当たり前のことを思い、指を切り落とそうとしている目の前の二人が、得体のしれない生き物のように感じられた。無意識に後ずさり、背中が壁にぶつかる。
「よかか、骨が硬かけん一人じゃなかなか落とせん。やけん、さっき言うたごと、最後は俺が出刃を踏んで落としちゃる」
種雄がサブの顔を見据えて言った。
「イチ、ニのサン! と声を出せ。サン、のタイミングで俺が踏んじゃるけん。よかな」
サブがうなずく。種雄はサブの右手を放して立ちあがり、右足を軽く上げた。
「さ、やれ」
しかしサブは包丁を小指に当てたまま固まって動かない。
へっぴり腰、と正範が思い、その声が聞こえたかのようにサブが正範に顔を向けた。
涙の浮かんだ目の中で、瞳がやけに黒い。そこにある絶望と諦めに、引き込まれるように正範は息を止めた。
サブが視線をまな板に戻し、正範は息を吐く。
サブが右膝を立てまな板の上に身を乗りだした。二度、三度と肩で呼吸する。痺れを切らしたように種雄が右足をさらに上げた。その動きに触発されたのか、「やります」とサブが宣言した。
「一、二の」
三、の前に種雄が右足を落とした。
ゴリッという音を正範は聞いたが、本当に聞こえたのか、それとも目の前の光景が聞かせた音なのか、後から考えても分からなかった。
一拍遅れて、サブの口から悲鳴が上がる。声はすぐに小さくなったが、サブは包丁を持ったまま背中を丸め、まな板に転がる小指の先を見つめながら、喉を絞るように細く声を上げ続けた。
種雄が包丁を踏むタイミングは、明らかに早かった。ワザとだと正範は思った。種雄は、自分が右足を構えた後、すぐにサブが包丁を下ろさなかったので頭にきたのだ。
正範の股間に、生温かい感触が広がる。
細い声を上げ続けるサブを無視して種雄は身を屈め、まな板から小指の先を摘まみ上げた。
驚くほど出血は少ない。正範は、断面に白い骨を見たような気がした。
種雄は、布巾で小指を包んだ。布団の上のアロハシャツを取り、肌の上に直接着る。
切り離された小指と恐ろしい明王が視界から消え、正範はそっと息を吐いた。
布巾をズボンの尻ポケットに突っこみ、種雄は床に落ちていたタオルをサブに放る。
「それで指をくるんどけ。先っぽだけじゃなく、指もアニキに見せないかん。医者に行くのはその後や」
サブはようやく細い声を上げるのを止めた。ことんと包丁をまな板に落とし、左手を腹の前に抱えてタオルで覆う。
「函南のアニキが待っとる。はよ行くぞ」
サブが立ちあがる。表情のない顔に一房の髪がかかっていた。目が赤い。まるで幽霊のようだと正範は思った。小学校の図書室で借りた本に載っていた、墨で描かれた不思議な透明感のある幽霊。その幽霊が、音を立てず静かに玄関へと移動する。
「マサ、片づけとけ」
種雄の言葉に、正範は返事に詰まる。指を切った包丁やまな板に触りたくはなかった。
外へ出る種雄の後を、幽霊がついていく。二人が正範を振り返ることはなかった。
股間の不快な感触が太ももにまで広がってきた。
正範はのろのろと脱衣所に行き、ズボンとパンツを脱いで濡らしたタオルで股を拭く。情けなさを感じたが、濡れたタオルは気持ちがよかった。棚から新しい下着を出す。風呂の残り湯で脱いだ服を洗い、押入れから出したズボンを穿くとようやく落ちついた。
畳の上のまな板を見る。量は少ないとはいえ血が落ちている。包丁の刃にもそれと分かるものが付着していた。「片づけておけ」という種雄の言葉がよみがえる。
正範は、出刃包丁を落とさぬよう気をつけながらまな板をシンクへと運んだ。放置しておけば母親が嫌がるだろうし、サブの血で包丁に錆が浮けば、それを落とすのは自分の仕事になる。
出刃包丁を濡れたまま放置すれば、あっという間に錆びることを正範は知っていた。母親がただ同然の魚の粗をよく買ってくるので、曰佐家にとって出刃包丁は生活必需品の一つであり、正範は日ごろから洗ったり研いだりしていた。
口の中に痛みを感じ、ペッと唾を吐く。血が混じっている。舌で口の中を探ると、先ほど投げ飛ばされたときの傷からまだ血が出ていた。サブの小指から出た血と、自分の口から出る血の量、どちらが多いのだろうと考える。
包丁とまな板を洗い終え、正範の中で張り詰めていた緊張の糸が切れた。自然と体が玄関へと向かう。
靴を履き、駆けだした。
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