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「アケミ、はよ行け! アニキのところに寄ってからやけん、大石先生には一時間後くらいって言うとけ」
 明美は体を起こして立ちあがると、サブがいるにもかかわらずスウェットの上下を脱いでショーツ一枚になった。押入れからブラジャーとTシャツ、ジーンズを出して身に着け、正範に目で合図して玄関へ向かう。正範は、すくむ足を必死に動かして母親の後を追った。
「マサ、どこ行きよんか」
 種雄に呼び止められた。
「おまえはここで手伝え」
「ちょっとあんた」明美が振り向く。「マサに見せるとね」
 種雄は面倒臭そうに「おまえは、はよ行け」と顎をしゃくる。
 正範は、すがるように母親を見た。右手で明美のジーンズの太ももを掴もうとしたが、硬い生地に弾かれる。それでも必死に膝の裏の皺を指先で摘まんだ。
 明美が困ったように正範を見下ろした。
「まだ小学生よ。何もそんなところ見せんでも」
「おったほうが、サブがしゃんとする。ガキの前じゃ泣いたり喚いたりできんやろ」
 種雄が薄く口を開けて笑う。
 弟分に指を落とさせるために子供さえ利用する。そのことに嫌悪を感じたのか「あんまりやろ」と明美が顔をしかめ、正範はジーンズを摘まんだ指に力を入れた。
「せからしか。さっさと行かんか!」
 種雄が顔を赤くして明美に向けて一歩踏みだす。明美はサンダルを引っかけ逃げるように出ていった。振り払われた正範の手が宙に残される。
「マサ、タコ糸とタオルや。タオルは捨ててもいいボロイやつな」
 種雄はボウルを畳に置き、サブの左手を突っこんだ。正範が玄関から動けないでいると、正範を睨み口を開きかけた。
 怒声が飛ぶ前に、正範は小さな脱衣場に駆けこんだ。目についたタオルを取って部屋に戻り、押入れに走って凧揚げに使う黄色いプラスチック芯のタコ糸を取りだし、種雄の横に置いた。
 そんな正範の頭を、種雄が拳骨で殴る。
「ハサミもたい。気の利かんガキや」
 正範は涙をこらえ、ペン立てからハサミを取り、種雄へ渡す。種雄はタコ糸を五十センチほど繰りだし、ハサミで切った。
「おい、指だせ」
 サブは蒼褪めた顔で左手をボウルから出し、指切りをするかのように小指を立てて差しだした。その指の付け根に、種雄はぐるぐるとタコ糸を巻いていく。巻き終わってきつく両端を結ぶと、またボウルに突っこんだ。
「いいか、ためらったらいかん。ひと思いにやるとぞ。骨で止まるのが一番痛い」
「無理です、アニキ」
 左手をボウルに入れたまま卓袱台にしだれかかり、サブは脅えた目で出刃包丁を見つめる。
「しゃんとせんか。自分でやらんといかんとぞ」
 だらしなく座るサブを、種雄が叱りつけた。
「アニキ……」サブが弱々しく声を上げる。
「マサを見ろ、サブ」
 種雄がサブの頭を右手で鷲掴みにし、ひねるように正範のほうを向かせる。サブの視線を正面から受けて、正範は、自分がサブを見つめていたことに気づいた。
「あげなガキの前で泣きごと言うたらいかん。気合入れてやれ。なあに大丈夫、俺がすぐに踏んで落としてやるけん」
 サブが唾を飲み、喉仏がごくりと動く。
 焼酎の匂いが部屋に漂う。セミの鳴き声が喧しい。残暑の陽射しが容赦なく平屋の建物を灼き、部屋はすでに汗が噴きだす暑さだ。正範のTシャツも、いつの間にか肌に貼りついている。そんな中でサブの顔だけが蒼白く、汗ひとつかいていない。
 種雄がアロハシャツを脱いで、つい今しがたまで明美が寝ていた布団の上に放った。続けて汗の染みた白いタンクトップを脱ぎ、アロハシャツの上に投げる。
 炎に包まれた極彩色のどうみようおうが、種雄の背中に立ちあがった。腰を軽く捻って羂索けんさくをもつ左手を軽く突きだし、右手に剣を掲げ、牙を上下に剥き両目を見開いて、正範を見下ろしている。
 正範は目を逸らした。荒々しく恐ろしげな明王が嫌いだった。
 半裸になった種雄が出刃包丁を載せたまな板を畳に下ろし、卓袱台を壁に立てかけた。体を硬直させたサブの正面に、まな板を置く。
「マサ、こっち来い」
 声をかけられるとは思っておらず反応が遅れた。種雄が首を回して正範を睨む。半身になった背中の明王も自分を睨んだように正範には思えた。
「はい」と声を出したが、体が動かない。サブの恐怖が伝染し、まな板に載った出刃包丁が正範から体の自由を奪っていた。
 種雄が素早く動き、正範の首根っこを掴むと、力任せに投げ飛ばす。正範はボールのように飛び、掃き出し窓の横の壁にぶつかった。口の中が切れ、血の味が広がる。
「こんガキ、お前の指ば落としちゃろか!」
 正範は急いで正座し、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も畳に額を擦りつける。
「言われたらすぐ来んか、ああ!」
 種雄が怒鳴り、土下座する正範を足の裏で突き飛ばした。正範は転がった場所で、またすぐに土下座する。
きんば持ってこい!」
 正範は台所に走り、シンク横の引出しから布巾を掴んで居間に戻る。「まな板の横に広げろ」との指示で布巾を広げ、続く「どけ!」の言葉で壁に立てかけられた卓袱台の横に立つ。種雄とサブがまな板を挟んで向かい合った。

 

「修羅の国の子供たち」は全3回で連日公開予定