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 父の暴力癖を知る者は少ない。母も身内の秘密を他人に明かしたりはしなかった。そんな母も長年にわたって殴打され続け、四十代半ばで腰が曲がり、杖なしでは歩けなくなった。晩年は心も病んで、日向が大学生のときに死んだ。四十九歳という若さだったが、最期は七十過ぎの老婆に見えた。渚紗はその秘密を知る数少ない人のうちのひとりだ。プロポーズしたさいにすべて打ち明けた。
 今度の虐待死事件が日向にとってきついヤマになりそうなのを、彼女はよくわかっていた。好物ばかり用意してくれたのは、彼が精神的にもくたびれきって戻ってくるのを予想していたからだろう。
 グラスのビールを空にした。缶にはたっぷり入っていたものの、新たに注ぐ気にはなれなかった。彼女に訊いた。
「君は大丈夫か?」
「なにが?」
「無理してないかってことさ」
 渚紗が考えこむように首をひねった。
「今のところは全然。無理どころか、こんなにゆっくり過ごすのなんて、人生で初めてかもしれない。今日だってワイドショーばかり見てたら日が暮れたって感じだもん。こっちこそ申し訳ないくらい」 
「それならいいんだ」
 渚紗がサワーを口にした。
「でも、てんやわんやになる日もじきに来るとは思う。ここらへんも保育園の激戦区だから。それこそ妊娠中から保活に励んでる人もいるし」
 渚紗は警察を辞めたのち、大学時代の友人が開いたカレー店を手伝っていた。日向と結婚してからは、カレー店の手伝いと在宅ワークで家計を支えてくれている。出版社のデータ入力やテープ起こしといった作業だ。
 警察官の賃金は低くはない。職務に危険がともなうために、公務員のなかでもとりわけ高めに設定されている。とはいえ、生まれてくる子供にきちんとした環境を与え、教育を受けさせるには、日向の給料だけでは心もとない。
 署に泊まりこんで働いているが、予算には限界があり、超過勤務手当が全額で支払われることはない。官舎は家賃が安いため、どこも人気があって常に満室だ。
 いかれた家庭で育っただけに、子供には愛情を注ぎたかった。そんな思いとは正反対に、十日も自宅を空けるような仕事をしている。手強い事件となれば、さらに長期にわたって泊まりこむか、終電で帰宅する日々が続く。本人はもとより、家族にも重い負担を強いる。
 殺人捜査にかまけているうちは、渚紗を家庭に閉じこめ、子供に構ってやれる時間もひどく限られる。父や河田夫妻を人でなしと見なしながら、自分も妻に苦労を押しつけようとしている。彼らと自分は似た者同士ではないか。美由宇とたいしながら思ったものだ。
 渚紗にそれを打ち明けると、彼女は首を横に振った。
「えー、全然似てないでしょ」
「そうかな」
「あなたは私の夢。刑事になりたがってたのは知ってるでしょう?」
 渚紗は優れた警官だった。
 警察学校でこそ大した成績を残せなかったが、所轄に配属されてからはめきめきと頭角を現した。交番で勤務していたころは、薬物所持者や自転車泥棒を次々に捕らえて表彰されている。刑事に抜擢されてもおかしくはなかった。
 彼女はグラスのサワーをひと息で飲み干すと、火酒でも空けたかのように荒っぽく息を吐いた。
「そりゃ私だって外で働きたいし、そのためには旦那に休暇を取って、育児に汗を掻いてもらいたいのが本音だけどね。毎日きちんと帰ってきてくれて、夜泣きする赤ん坊をあやしてくれたり、いっしょに食卓を囲んでほしいとは思う」
「そこでなんだが――」
 渚紗がてのひらを向けた。
「デスクワークに就く気でいるのなら、答えはノーよ」
「すごいな。全部お見通しだ」
 彼女が目を丸くした。
「カマをかけてみただけ。まさか、本当に考えてたなんて」
「迷ってるんだ」
 彼女は腕を伸ばした。日向の手を握る。
「気持ちだけ受け取っておくけど、やっぱり答えはノー。イクメンがほしかったら、そもそも刑事なんかと結婚しないもん」
「今のままでいいのか?」
「ベストではないけど」
 彼女がテーブルの隅にあった新聞を手に取った。
 社会面を日向に見せる。河田夫妻の死体遺棄事件の記事が載っていた。
「楽しみにしてるの。こういうのを子供に見せるのを。『お前の父ちゃんは、こうやって悪いやつを捕まえてるんだ』って。こんなに胸を張れる仕事ってそうそうないでしょ。父親が帰ってこなくて寂しがるときは、刑事ドラマを見せるつもり。赤いバッジをつけて、さっそうと活躍している姿をね。本当は私がやりたかったんだから。誰にでもできる仕事でもないし、誰かがやらなきゃならない。今の仕事、好きでしょ?」
「そうみたいだ」
「なにもふたりして、刑事の道から外れることはないでしょ。子供のほうはきっとなんとかなる。お母さんにも来てもらってるし。あなたの役割は全力で人殺しを捕まえて、家に戻ったらお母さんの嫌味に我慢強く耐えること。中村なかむら主水もんどみたいに」
「それならやれる」
 深々とうなずいてみせた。
 迷いが吹っ切れたわけではない。もっとも不安と戦っているのは、出産を控えている渚紗だった。夫の自分がくよくよしている場合ではない。
 渚紗の両親は手強かった。とくに義母は日向を快く思っていない。ふたりの結婚にも最後まで反対していた。
 義母は警察組織に強い不信感を抱いていた。娘が青雲の志を抱いて警視庁に入庁したが、不本意な形で組織を追われたからだ。
 職場でひどい仕打ちを受けたというのに、家庭も顧みない刑事なんかを相手に選ぶなんて。結婚の話を娘から聞かされたとき、義母はショックで寝こんでしまったという。日向は義父母が住む東京都町田市に足を運んだが、何度も門前払いを受けている。
 日向は義母宛てに約二十通の手紙を書き、渚紗が辛抱強く説得し、ついには義母を折れさせ、結婚を承諾させた。しかし、結婚してから二年が経ったが、未だに日向を息子だとは思っていない。妊娠した愛娘のため、ひんぱんに会いにやって来るが、日向には手厳しい言葉を投げつけてくる。
 義母の気持ちは痛いほどわかった。かりに自分が義母の立場であれば、結婚を許す気には到底ならないだろう。日向が現職の刑事であるうえ、その父親も警官だったのだ。
 さらに、その警官父子は絶縁状態にあり、十年以上も顔を合わせていない。そんな怪しげな家族関係にある男に、娘を託したいとは思わないだろう。嫌味ぐらい言われて当然なのだ。
 渚紗とたんなく話せたのが嬉しかった。彼女の忠告に従い、早々に寝る準備に入った。
 洗面所で歯を磨いている最中、玄関のチャイムが鳴った。時刻は十時近くだ。こんな夜に人が訪れることなどめったにない。
 渚紗はリビングのソファに座っていた。彼女も怪訝な顔をしていた。
 立ち上がろうとしていた彼女を制して玄関に向かう。マンションの正面玄関はオートロック式で、住人以外は入ってこられない仕組みだ。鳴ったのは、部屋の玄関に設置されたチャイムだった。
 ドアスコープを覗くと、背広姿のふたりの男が立っていた。初めて見る顔だったが、ガタイのよさと雰囲気からして、同業者だと推測した。ひとりは白髪交じりの中年で、もうひとりはニキビ面の若者だ。
 ドアガードをしたまま玄関を開けると、ふたりの男らは直立して頭を下げた。やはり、警官特有のキビキビとした仕草だ。
 中年が丁寧な調子で言った。
「夜分、失礼します。組対五課のとうです。この若いのは府中署のいま。お休みのところ申し訳ありません」
 今田が緊張した面持ちで再び頭を下げた。
 ふたりとは面識がなかったが、日向が身内なのを知っているようだった。地元交番の巡回連絡によって、地域住民の素性はおおむね把握されている。
 ふたりは名を名乗ったばかりだが、日向に所属先を明かしたことで多くの情報を与えてくれた。
 阿藤がいる組織犯罪対策部第五課は、銃器と違法薬物を捜査する部署だ。若い今田のほうは背広がいかにも板についていない。ふだんは制服を着て仕事にいそしんでいるものと思われた。本庁の刑事の案内役だ。
 記憶のファイルをあさった。府中市内の多摩川の河川敷で発砲事件が起きた。そんなニュースを三日前の新聞で知った。
 メールで渚紗とも事件についてやり取りはしていたが、自分の事件に追われ、発砲事件を完全に忘れていた。
 何者かが深夜三時を回った時刻に河川敷にて発砲。近くで犬を連れて散歩していた老人が銃声に気づき、河川敷に出てみたところ、銃弾のようなものが土手にめりこんでいたという。弾の種類は記されておらず、実銃かどうかも不明だった。
 河川敷から自宅マンションまでは約二キロの距離だ。銃という武器が使われたのは気になったが、ケガ人が出たわけではなく、弾が住宅に飛んだわけでもない。続報の記事もなかった。
「河川敷の発砲の件ですか?」
「そうなんです」
 日向が尋ねると、ふたりはうなずいた。
 彼らはペアを組んで地取り捜査を行っていた。地取りとは事件が発生したさい、担当地域を決めて行う聞き込み捜査を指す。とくに日向に用があるわけではなく、このマンションを含めたエリアをしらみ潰しで当たっているという。住民の多くは共働きで、昼間は家を空けているため、聞き込みはもっぱら夜に行われていた。
 阿藤が尋ねてきた。
「なにか心当たりは」
「じつは、十日ほど家を空けていたもので」
 日向はうつむいて答えた。
 発砲事件が発生した当日はもちろん、今夜まで河田夫妻の事件に忙殺されていた。協力したいのは山々だったが、できることがあるとすれば、迅速かつ正直に答えるぐらいしかない。王子署の特捜本部にいたことを告げると、阿藤は納得したように相槌あいづちを打った。
 渚紗を玄関に呼んだが、彼女も情報を持っていなかった。事件が発生した時刻は熟睡していて、テレビのニュースで事件を知ったという。不審人物や怪しい車の類も見かけてはいない。彼女が答えると、ふたりは礼を述べて辞去し、隣の部屋へ移動した。
 玄関のドアを閉めると、渚紗がアクビをした。
「そういえば、すっかり忘れてた。近くで起きたっていうのに」
「おれもだ」
「せめて、銃の種類くらい訊いておきたかったなあ」
「そういうわけにはいかないさ」
 日向も捜査のしんちよく状況が気にはなったが、よその事件にやすやすと首を突っこむわけにもいかない。
 彼女の頬に口づけをした。
「同僚の伝手ツテを頼って、情報を仕入れてみるよ。気味が悪いことには違いない」
「ありがとう」
 先に寝室のベッドに潜った。
 渚紗は東京ヤクルトスワローズのファンで、夜のニュースのスポーツコーナーを見てから寝るのを習慣としていた。先に床に入る日向に気を遣って、テレビの音量を下げてくれた。
 マットレスに横たわると、その柔らかさに思わず声が漏れる。王子署に詰めているときは、道場のせんべい布団で夜を過ごし続けたためか、筋肉がカチカチにこわっていた。体内に溜まった疲労が布団にじわじわと溶けだしていく。
 寝返りを打った。頭の隅で発砲事件が引っかかっていた。やはり、父の拳や怒鳴り声が勝手によみがえってくる。
 ――このガキ、おれをナメてるのか。
 父の暴力がよりひどくなったのは、日向が小学生のときに起きたスーパーの強盗殺人事件がきっかけだった。犯行には拳銃が用いられ、三名もの犠牲者が出ている。父ら捜査員の努力は実らず、現在まで未解決のままだった。憂さを晴らすために、母と日向を標的にした。
 雑念を振り払って心を無にした。疲労の大波に呑まれ、深い眠りへといざなわれた。

 

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