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 死臭のたとえかたは人それぞれだ。
 生ゴミやチーズを腐らせたような。よどんだドブみたいな。真夏のくみ取り式の便所だという者もいる。ベテランのなかには、イカを焼いた臭いに似ていて、警察官になってからはイカ焼きが食えなくなったという者もいる。
 日向ひゆうが直幸なおゆきは思わず顔をそむけた。くうを刺すような、ひどいアンモニア臭が一帯に漂いだしたからだ。出動服の男たちがマスクで顔を覆う。明らかに死臭だった。
 日向はシャベルを握り直した。ホトケが眠っている場所を、まさか自分が当てるとは。
「クサっ」
 容疑者のかわ美由宇みゆうが短い悲鳴をあげ、手錠を鳴らして鼻をつまんだ。
 腰縄を掴んでいた若手の彦坂ひこさかが、日向に目で尋ねてきた。小さくうなずき返すと、彦坂は美由宇にマスクを渡した。
 美由宇がマスクをつけながら声をかけてきた。
「あの、刑事さん。あたしくさいのとかダメで、バスに戻ってちゃダメですかね……」
 捜査員らがぎょっとしたように美由宇を見やった。露骨に眉をひそめる者もいる。
 埋まってんのは、てめえの息子だろうが。
 日向はタオルで汗を拭って答えた。
「いいよ。休んでるといい」
 あっさりと許可を与えた日向に、今度は非難の目が向けられた。当惑気味の彦坂に、早く連れて行けとあごで命じる。
 ベテラン鑑識課員のいちが訊いてきた。
「おい、いいのかよ」
美由宇ホシにはこれからたんと喋ってもらわなきゃいけないんです。腐乱した息子と無理やりに対面させて、ヘソでも曲げられたらかなわない」
「それにしても、クセえだなんてよく言えるよな。自分のせがれなのに。どうかしてるぜ」
「殺して埋めた時点で、とっくにどうかしてますよ」
 腕に止まったやぶを払いのけた。
 捜査員のひとりが、べたついた夏の湿気と鼻が曲がるような死臭に耐えかねたのか、青い顔をして現場から離れていった。
「息子を犬みてえに外で飼って、メシはバナナ一本しかやらなかったんだってな」
「こっちの常識は通じないということです」
 日向ら警視庁の捜査員は、埼玉県小鹿野おがのまちの山林にいた。
 西武ちち駅から約二十二キロの位置だ。秩父の秘湯として知られる千鹿谷ちがや鉱泉を通り過ぎ、さらに群馬県境の奥地へとやって来た。ここに埋めたと美由宇が自供したためだ。共犯で美由宇の夫である河田えいは、今も事件についてダンマリを決めこんでいる。
 東京都北区のアパートに住む河田夫妻が夜中に、息子の翔空哉かぐやがいなくなったと、王子署に行方不明者届を出したのが、事件の始まりだった。
 翔空哉はまだ五歳の男児であることから、警視庁は特異行方不明者に認定し、多くの警察官を捜索に動員。近隣住人への聞き込みにより、翔空哉が河田夫妻から日常的に虐待を受けていたことが判明した。
 複数の近隣住人が、河田夫妻の部屋のベランダに、翔空哉が放置されているのを目撃していた。隣の部屋の住人は、翔空哉の激しい泣き声を毎日のように耳にしていた。河田夫妻の息子に対する怒号やせいも。
 しかし、翔空哉が行方不明となる約一か月前からは、泣き声はぴたりと聞こえなくなり、姿も見かけなくなったという。
 河田夫妻は行方不明者届を出したさい、赤羽あかばね駅近くのショッピングモールで買い物をしている最中に、翔空哉の姿が見えなくなったと証言した。
 王子署員がショッピングモールとその周辺に設置された防犯カメラの映像を調べたところ、河田夫妻の姿こそ確認できたものの、翔空哉を連れている様子はなかった。警視庁は河田夫妻の届出を狂言と見なし、王子署に特別捜査本部を立ち上げ、日向が属する捜査一課殺人犯捜査三係を投入した。
 河田夫妻を重要参考人として事情聴取を連日にわたって行い、届出を出すまでの行動を洗った。王子署に届出が出される二日前、ふたりが埼玉県のこの山奥にミニバンで向かうところを、公道に設置された防犯カメラが捉えていた。
 河田夫妻は悲劇の両親を演じ、メディアに露出して息子の無事を祈ってみせたが、虐待や狂言の事実を突きつけると、事情聴取に応じなくなり、弁護士の知恵を借りて黙秘を続けた。
 河田夫妻の部屋を家宅捜索し、リビングやベランダを調べると、床や壁に視認できるほどの血痕があった。ペットを飼ってもいないのに、靴棚から犬用の首輪とリードが見つかり、それら証拠品にはルミノール反応が検出された。
 またリビングには、血が付着した電気ゴタツの脚が一本あり、河田夫妻が翔空哉の行動を日ごろから制限し、凶器を用いて殴打していたこともわかった。
 主任の日向が美由宇の事情聴取を担当。状況証拠を根気強く積み重ね、美由宇の口を十日かけてこじ開け、逮捕にまで到ったのだった。
 彼女の自白によれば、夜中に翔空哉が失禁したため、折檻せつかんのためにベランダに放置したところ、早朝にぐったりと倒れていたのだという。
 ――ただのしつけだよ。学校でよくあるでしょ。悪いことしたんだから、しばらく廊下に立ってなさいって。あんな感じなだけで。殺すとか、ありえないっしょ。
 ――殺す気はなかったけれど、助ける気もなかったわけだ。
 ――だって仕方ないっしょ。もう息してなかったし。
 美由宇は不服そうに口を尖らせた。彼らは救急車を呼ばず、病院にも運ばず、翔空哉を消す方法を選んだ。
 取り調べ室での攻防が大詰めに入ると、取調官は情に訴えて被疑者の完落ちを目指すものだ。
 翔空哉ちゃんをここらで成仏させてあげたらどうだ。今からでも遅くはないから、親らしいことをしてやれ。
 日向はその手を選ばなかった。河田夫妻には、そもそも親としての自覚が欠落していた。育て方を間違えたペット。息子をその程度の存在としか思っていなかった。そんな相手に浪花なにわぶしをうなっても響きはしないのを、経験からよく知っていた。日向の父もまさにそんな男だったからだ。
 ひたすら理詰めで追いこんでいくと、美由宇はゲームに飽きたといわんばかりに、息子を埋めた事実を認め、面倒臭そうに遺棄した場所についても自供した。
 埋めた場所を指定したのは英治であるらしく、美由宇に地図などを見せても要領を得なかったため、日向は引き当たりの話を上に持っていった。
 引き当たりとは、容疑者や参考人を現場に連れていき、供述内容を確かめる作業だ。
 上司たちはいい顔をしなかった。この手の穴掘り案件では、犯人自身がどこに埋めたのかを忘れているケースが多いからだ。従犯で地図が読めない美由宇が、正確に記憶しているとは思えなかった。
 とはいえ、英治は少年時代から窃盗や恐喝を繰り返してきた札つきで、取り調べにも慣れており、固く口を閉ざしたままだった。黙秘さえ続けていれば、翔空哉の死体は発見されず、罪は立証されずに済むと高をくくっていた。美由宇が自白したと知らせても諦めずにいる。
 死体が出ずに空振りで終われば、捜査一課のメンツは丸つぶれだ。一種の賭けにも等しかったが、特捜本部は日向らと鑑識課の一個班に、引き当たりをさせると決定した。
 マスコミにぎつかれないようにひっそり動き、関越自動車道の練馬インター付近で鑑識課員と合流すると、美由宇に遺棄現場へと案内させた。
 容疑者は総じて気まぐれだ。取り調べの詰めが甘ければ、土壇場で供述内容をひっくり返される。現場へ連れていっても、美由宇にシラを切られたらそこまでなのだ。捜査員は不安を抱いたまま、秩父の山中に向かい、日向が死体を掘り当てたのだった。
 美由宇の記憶力は意外にもしっかりしていた。林道の脇に外れ、ゆるやかな傾斜地に出ると、彼女はとくに目印もない林の一角を指さした。こうも正確となると、遺棄した場所を決めたのは彼女ではないかと疑いたくなるほどだ。
 ただし、彼女に情はない。サシで長いこと向き合って抱いた印象だ。ただ日向とのこんくらべにをあげただけの話だ。
 虐待死を扱うことが多くなった。河田夫妻のような子供へのDVも初めてではない。つらい介護に耐えかねて、親や配偶者を殺した事件も手がけている。
 心をすり減らした結果、思い余って手にかけた場合が大半で、逮捕後はかいしゆんの情を示し、己が犯した罪の重さにおののいていたものだが、例外もある。
 ごくたまにではあるが、罪の意識などまるでどこ吹く風で、人間らしい感情が欠落している者と出くわす。人生そのものに対して投げやりで、自分にも他人にも無関心という連中だ。保身に走ろうとすらせず、被害者にもなんの感情も抱かない。生きること自体が退屈なゲームみたいなもので、いつ投げ出しても構わないとすら思っている。
 河田夫妻の家宅捜索を行ったさい、部屋はゴミ屋敷の様相を呈しており、ゴミの捨て方や騒音などでも、アパートの住民とトラブルを起こしていた。
 美由宇の半生を洗ったが、両親は彼女が幼いうちに離婚し、母親の手で育てられた。給食費を学校に納められないほどの貧困を味わい、キャバクラで働く母親からは、タバコの火を押しつけられるといった虐待を日常的に受けていた。
 川口市に暮らす美由宇の母親には、日向自身が聞き込みを行った。美由宇は中学生になってから援助交際で荒稼ぎしたが、十代のうちからホストクラブに出入りするようになった。派手に遊んだうえで、ツケを踏み倒したために、母親のところに掛け取りのヤクザが押し寄せたという。
 ――あの売女ばいたのおかげで、どんだけ苦労させられたか。
 母親が娘を売女呼ばわりするのを聞き、翔空哉の死は起こるべくして起こってしまったのだとわかった。
 一場に背中を叩かれた。彼は鑑識課員に言った。
「あの鬼ママの考えてることなんかわかりゃしねえが、ひとつ言えるのは、日向主任がきっちり追いこんでくれたってことだ」
 地面にシャベルを突き立てた。
「まだ、わかりませんよ。これで動物の死体だったら、目もあてられない」
「やっぱり血は争えないな。タイプこそ違うが、あんたは親父さんと似てる」
 鑑識課員が目を丸くした。
「日向さん、親父さんも刑事だったんですか?」
「同じ捜査一課ソウイチの大先輩さ。おそろしくデキる人だったよ」
 一場はまるで我が事のように胸を張った。ふいに父の話題を持ち出され、喉元のどもとまで胃液が逆流したが、無理やり飲み下した。
「早くホトケを出してやりましょう」
「おっと、そうだな」
 穴掘りを再開して話を打ち切った。
 日向ら殺人班と鑑識課員が、集中的に穴を掘りだすと、衣服の生地が見え、目が痛くなるほど臭いが強烈になった。シャベルの土に大量のミミズやアリが交ざる。
 捜査員たちが声をあげた。慎重に掘り進めると、子供の遺体が見え始めた。

 

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