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日向はキャリーケースを引いて家路を急いだ。王子署での泊まりこみが続き、十日ぶりに府中市の自宅に戻る。
決め手となる被害者の遺体が見つかり、特捜本部にも余裕が生まれた。
主犯の河田英治は未だに貝の如く口を閉ざしているが、美由宇が自白しただけでなく、埼玉の山奥に隠した息子も掘り起こされたと知り、動揺は隠せないでいるという。一方の美由宇は連日の厳しい取り調べから解放され、留置場で出される官弁をきれいに平らげた。
JRと京王線に揺られ、府中駅で降りると、駅前のサウナに寄って身体を洗った。王子署でシャワーを浴びているが、死臭が身体に染みついて取れなかったためだ。穴掘りのさいに着ていた出動服は、すぐにクリーニングに出している。
帰宅中の電車では、他の乗客が臭いを気にする様子は見られなかった。すでに臭いなど消えており、ただの幻臭であるのはわかっていた。自分を納得させるため、ボディシャンプーを身体に塗りたくった。
百貨店の洋菓子店に寄り、ケーキをいくつか買った。土産でも買っていかなければ、渚紗に合わせる顔がない。
旧甲州街道を西へと歩いた。大きめのキャリーケースには十日分の衣服、それに電気髭剃りやエチケットカッターなどの日用品がぎっしりつまっており、持ち帰るのには骨が折れた。途中でマッサージ店があるのを見かけ、全身を念入りにほぐしてもらいたいという誘惑に駆られた。
自宅は駅から歩いて十五分ほどの場所にあった。通勤にはだいぶ時間がかかるものの、東京とは思えぬほど自然にあふれ、昼間も静かな住宅街だ。
部屋は広めの2LDKで、生まれる予定の子供と渚紗の身体を考え、半年前に中野区から引っ越した。以前はエレベーターのないオンボロマンションで、着替えを入れた荷物を運ぶのにも苦労したものだ。
五階にある部屋のドアを開けると、鶏肉のさっぱり煮の匂いがした。
「おかえりなさい。早かったね」
キッチンにいた渚紗が、手にお玉を持って玄関まで迎えてくれた。十日ぶりに見る彼女の腹は、さらに大きくなったように思える。
「おかげさんで」
抱擁を軽く交わした。
リビングの壁時計は夜八時を示していた。早かったのは帰宅時間ではなく、十日程度で帰宅できたことを指す。一期のうちに帰れるのは幸運といえた。
捜査本部が立ってからの三十日間を一期として、捜査員は原則として捜査本部に泊まりこむ。その間に休みはない。昼夜を問わず、徹底して事件を追いかける。
捜査は時間との勝負だ。時とともに人の記憶は薄れていき、証拠は散逸してしまう。美由宇の証言がデタラメで、引き当たりに失敗していたとしたら、果たして家に戻れるのはいつになっていただろうか。
「ニュース、見たよ」
「これでひと息つける」
詳しくは語らなかった。たとえ相手が妻であっても、捜査一課という部署で働いていれば、捜査内容を安易に話したりはしなかった。
とはいえ、捜査の進み具合はメディアを通じて知れ渡る。テレビや新聞各社は、捜査一課にもっとも多くの警察担当記者を割き、動きをつねに注視している。殺人捜査に対する市民の注目度は高い。夕方のニュースでも、記者会見に応じる捜査一課長の姿を映し、翔空哉の遺体発見をトップで伝えていた。
ダイニングテーブルには日向の好物が並んでいた。鶏肉のさっぱり煮とポテトサラダ、みょうがと白ごまをたっぷりかけた揚げ出しナス。コンビニのおにぎりや弁当の食事が続いていただけに、野菜が豊富でありがたかった。
渚紗が冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「飲む?」
うなずいて受け取った。
小ぶりのグラスに注いで、ビールをひと口で飲み干した。疲労が積み重なっていたうえに空腹のためか、気分がほぐれていくのがわかった。
「すまないな」
「大丈夫、大丈夫」
渚紗は微笑むと、アルコールフリーのサワーを口にした。
缶ビール二本ほどで充分な日向に対し、彼女は酒好きの酒豪でもある。妊娠がわかってからは大好きな酒を断っている。自分だけ酒にありつくのが申し訳なく思えた。
渚紗は腹をなでた。
「この子が産まれて授乳が終わったら、たらふく飲らせてもらうし」
「それまではこいつでしのいでくれ。店員さんにカフェインと洋酒を使ってないのを選んでもらった」
ケーキの箱を渡すと、彼女が歓声をあげた。
渚紗には感謝してもしきれない。同じ警視庁の元警官で、夫の仕事にも理解がある。
捜査一課員の仕事はとりわけ過酷だ。休みが満足に取れる職場ではない。
警察組織にも働き方改革の波が押し寄せてはいる。警視庁も例外ではなく、職場環境の改善や意識改革が叫ばれている。職員が仕事と子育ての両立を図れるよう、男性職員の育児参画を推し進め、女性警官が活躍できる組織作りが行われている。
日向もその流れを歓迎していた。警察組織は未だに男性社会であり、警視庁における女性警官の数は一割ほどしかいない。
ドラマでこそ女性警官の姿を目にするが、日向自身は机を並べて働いた経験はほとんどなかった。刑事となってからはなおさらだ。いくら有能であっても、男性ばかりが仕切る職場では存分に実力を発揮できず、けっきょく男性警官の妻候補としか見なされずに警察人生を終えていく。
所轄で働いていた渚紗がまさにそんなひとりだった。器量がよく、社交性にも富んでいた彼女は、幹部たちの飲み会にひんぱんに呼び出された。ホステスのような扱いにうんざりし、胸や尻をなで回されるといったセクハラに耐えきれず、上司の地域課長に被害を訴えた。その情報は署の幹部たちに漏れ、和を乱す異端者の烙印を押され、署での居場所を失った。
そんな過去があるだけに、渚紗とともに育児に汗を掻き、子育てが一段落すれば、彼女が実力を存分に発揮できる職場を見つけてやりたいと思っていた。
しかし、働き方改革とは程遠い捜査一課に在籍し、渚紗にも負担を強いているのが現状だ。このままでは育児に汗を流すどころか、出産に立ち会えるかすら怪しい。彼女が文句ひとつ言わないのをいいことに、日向は仕事にのめりこんでいた。
洗面所で顔を洗ってから、渚紗に隠れて胃薬を呑んだ。身体は穴掘りでくたくたに疲れていたが、食欲はなかなか湧いてこない。
彼女が好物ばかり揃えてくれたのは、少しでも食事が喉を通るように配慮してくれたからだ。仕事の内容はメディアが伝えている。穴掘りのおかげで、メシが喉を通らないのを見抜いていたのだろう。
テーブルについて箸を手に取った。
「こいつはうまそうだ。野菜不足だったから嬉しいよ」
渚紗が小さく笑った。日向は尋ねた。
「どうかした?」
「ここ」
彼女が口元を指さした。
日向は口の周りを指でなでた。胃薬の茶色い粉末がつき、思わず目を見張る。
「まいったな」
「慣れるものじゃないもん、ああいうのは。とくに夏場」
「殺しを扱う刑事なんて、ホトケの横でハンバーガーをむさぼり食うようなタフガイがなるんだと思ってた」
「なにそれ」
「昔のドラマで見たんだ。小説だったかな」
「タフガイというか、ただの変態だと思うけど。だいたい、そんな豪傑よりも、念入りに身体を洗ってくる人のほうが好きだよ」
「臭うかい?」
シャツの袖の匂いを嗅いだ。
「事情にうとい奥さんだったら、風俗に行ってきたんじゃないかと疑りそうなくらい」
ふたりで笑いあった。渚紗が優しく言った。
「無理は禁物。すごく疲れてるみたいだし、早めに寝たほうがいいよ」
「ああ」
揚げ出しナスと鶏肉をつまんだ。どちらも味がしっかり染みている。翌朝に改めていただくと約束し、料理の残りを皿ごとラップで包んでもらった。
渚紗はなにも言わないが、彼女は夫がバテて帰ってくるのを予想していたようだった。王子署の道場に泊まりこんでいるときも、体調やメンタルを気遣うメールをくれた。
今回の虐待死事件には、ひときわ力を入れて臨んだ。今後は河田夫妻を殺人罪で起訴できるかが勝負どころだ。被害者の遺体の解剖結果を待つしかないが、ふたりが息子を邪魔者として扱っていたのは明白だった。
土のなかから発見された翔空哉は五歳児とは思えぬほど小さく、出血するほどの激しい暴行を加えられていたことも判明している。息子をこの世から排除しようという邪悪な意図が、積み重ねられた証拠から読み取れた。
鬼の所業に違いなかったが、殺人罪に問えるかはまだ不明だ。翔空哉を雨に濡れたベランダへと追い出したが、一本のバナナを与えてもいるからだ。
のちに鑑識がゴミ溜めと化したベランダから、朽ちたバナナを見つけている。弱り切った幼子は、皮を剥く力もなかったのか、手つかずのまま放置されていた。
このバナナ一本のおかげで、検察が河田夫妻に殺意があったとは認定できず、保護責任者遺棄致死罪でしか起訴できないかもしれなかった。そうなれば量刑も大きく変わってくる。
美由宇の取り調べで尋ねた。
――どうして、バナナをあげたんだ。
――あたしが? 全然覚えてない。いや、ホントに。
すでに彼女は取り調べにうんざりしていたころだった。日向の尋問に耐えきれなくなり、狭い密室から一刻も早く出たがっていた。
罪が軽くなるかどうかの重要な局面であるのにも気づかず、彼女は与えた覚えはないと答えている。
――だったら、英治があげたのかな。
――んなわけないよ。あたしがぶん殴られるもん。勝手にエサやったら……。
――エサだと?
美由宇はぺロッと舌を出した。
――冗談、冗談。ご飯に決まってんじゃん。
日向は取り調べを一旦止めた。
部屋の外で聞き耳を立てていた管理官らの目を無視して、トイレへと駆けこんでいた。取り調べに耐えきれなかったのは、美由宇だけではなかったのだ。こみあげるものがあり、トイレの洗面台で顔を何度も洗った。
美由宇が事件について語るたびに、古傷がうずき、翔空哉が味わった苦しみが身体に重くのしかかった。美由宇が父に見え、油断すると絞め殺しそうになる。
少年時代は父に怯えて生きた。捜査一課員の父は、今の日向と同じで家を空けることが多かった。難事件を手がけていた時期があり、ずっと特捜本部に泊まりっぱなしだった。家に戻るのは、月に数度だったが、そのたびに地獄を見せつけた。
夕食は家族そろって摂っていたが、そのたびに母と日向は制裁を受けた。
父は通信簿とテストの結果を逐一チェックし、少しでも成績が悪ければ、息子を被疑者のように問いつめた。現役の鬼刑事から責められて、小学生が耐えられるわけがない。ベソを掻いて許しを乞えば、返ってくるのは鉄拳で、強い男に育てるためという口実で、無理やり柔道の指導もされてきた。
秋雨が降る寒い夜に、外へと追い出されたこともある。縁の下に潜りこんで雨を避けたが、湿った土に身体の熱を奪われて肺炎にかかった。
現代であれば、近所の誰かが児童相談所に通報していただろう。翔空哉のように死なずに済んだのは、母がサンドバッグになってくれたからだ。
日向が寒空に追い出されても、父の目を盗んで毛布と握り飯を縁の下まで運んできてくれた。そして父から殴る蹴るの暴行を受けた。
――おれの目を盗んで、勝手にエサやりやがって。
父と河田夫妻はそっくりだった。血を分けた息子だろうと、死ぬまで手を緩めたりはしない。
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