[2022年6月2日10時30分]
【速報】俳優のはすなおさん、自殺か

 俳優の蓮見尚斗さんが2日早朝、都内の自宅マンションで亡くなっているのが発見された。警視庁は自殺を図ったものとして調べている。享年25歳。
――日東スピークスONLINE

第一章 礼文島

 地下鉄の改札を抜けると、双子の弟が微笑んでいた。
 紳士服メーカーの広告だった。カフェオレみたいな髪色をした弟は濃紺のスーツに袖を通し、気位が高い猫のような顔で微笑んでいる。通勤用のくたびれたスーツを着た自分とは正反対だ。薄暗い通路の壁面で、そこだけ天から光が差して見えた。
 看板の前で若い女性が立ち止まって、弟の顔をまじまじと見た。蓮見たかは、慌てて地上へ続く階段を駆け上がった。
 久々の原宿は道行く人の平均年齢がぐっと若く感じられて、彼らがまとっている空気はパキッとした生きのいい色をしていた。こういう雰囲気が楽しかった時期も確かにあったのだけれど、もう自分には甘ったるすぎる。すれ違ったピンク色の髪の彼女とも、金髪の彼とも、年齢は五歳ほどしか離れていないはずなのに。
 そんな年寄り臭いことを思っていたのも、代々木公園に入るまでだった。木曜の午後の公園内は散歩やジョギングをする人、犬の散歩をする人、原っぱに寝そべる人――駅前とは別の賑やかさが初夏の風にそよいでいて、時間の流れ方が根本から違った。
 公園を抜ければ、目的のマンションはすぐだ。二十階建ての建物は、交通量の多い交差点の側で西日を受けて眩しそうにたたずんでいる。窓ガラスに光が白く反射し、貴斗は顔をしかめた。
 その瞬間、背後から忙しない足音が近づいてくる。
「あのお、すみませんが、蓮見尚斗さんのご親族の方ですよね?」
 麻のジャケットを着た三十代くらいの男が、貴斗の横に並ぶ。男が早口で言った雑誌名は、そばをトラックが通りすぎたせいで聞き取れなかった。
「尚斗さんの双子のお兄様ですよね? 今日は弟さんのご自宅に行かれるんですか?」
 小さく小さく、舌打ちをした。男はそんなことで顔色一つ変えない。
「葬儀は家族葬で済まされたそうですが、遺書は見つかったんでしょうか? 自殺の動機について、お兄様はどのようにお考えなんですか?」
 知るか。あいつが死んだあと、このあたりはテレビ局のカメラや週刊誌の記者がうろうろしていて、現場検証後は遺族は近づくことすらできなかった。遺書があるのかどうか、こっちが聞きたい。
「火葬後、すぐに納骨を済ませてしまったのは何故ですか? 四十九日まで尚斗さんと一緒に過ごそうと思われなかったんですか?」
 所沢の実家にまであんた達が押しかけてこなければ、きっとそうしただろう。蓮見家の墓の場所がマスコミにばれたら、四十九日の法要、納骨の日まで付け回される。尚斗の骨を墓に納める写真を週刊誌に載せられたくない。だから……尚斗の葬儀も火葬も納骨も、人目を忍んで慌ただしく一日で済ませるしかなかった。それすら、報道されたら世間から「冷たい」とか「家族に問題があったのでは」と後ろ指を指される始末だった。
 何より腹立たしいのは、こっちは普段から眼鏡をかけていて、マスクまで念のためつけてきたのに、あっさり双子だと見破られてしまうことだ。これが一卵性双生児の宿命だとわかっているのに、それでも腹立たしい。
「お話しすることは何もないです」
 大声を上げないよう、喉に力を込めた。マスコミの前で感情を露わにしたくなかった。尚斗の死からもう一週間たつ。未だにワイドショーでは尚斗の死を話題にしているが、まさか未だにマンションの近くを記者がうろついているとは。
 記者はまだ何か言っていたが、貴斗がマンションの敷地に入るとそれ以上は追いかけてこなかった。
 広々とした車止めと、黒光りする石壁のエントランス。鏡のようにピカピカに磨き上げられたガラスの自動ドアに、貴斗の全身が映り込む。
 尚斗から預かっていたカードキーをリーダーにかざすと、オートロックが解除される。ドアに映る貴斗の体が左右に割れ、エントランスホールから人工的な花の香りが溢れ出てきた。
 カウンターにいたコンシェルジュの女性が会釈してくる。貴斗がマスクを外すと、整った笑みが一瞬だけ凍りついた。死んだはずの住人が化けて出た、とでも思ったのだろうか。
 顔は一緒でも、こちらは髪は真っ黒だし、眼鏡だってかけているし、何より俺にはあんな華やかな雰囲気は絶対にまとえないのに。
「蓮見尚斗の、親族の者です」
 コンシェルジュはすぐに表情を整え、「この度はご愁傷様です」と神妙に頭を下げた。
「こちらこそ、お騒がせして申し訳ありません。失礼します」
 ホールに充満していた花の香りが強くなった気がした。逃げるようにエレベーターに乗り込んで、尚斗の部屋のある十六階のボタンを押す。しかし、何度押してもランプが点灯しない。以前尚斗が「カードキーを使わないとエレベーターが動かないんだよ」と言っていたのを思い出して、慌ててカードキーを操作盤のリーダーにタッチした。
「本当、いいところに住んでたなあ」
 貴斗の住んでいる家賃八万円のマンションとはえらい違いだ。ふわりと体を包み込むエレベーターの浮遊感まで、妙に高級感がある。
 尚斗の部屋はエレベーターを降りてすぐのところだった。しっとりとしたカーペット敷きの廊下に、足が自然と重くなる。カードキーで三度目のロック解除をして、やっと部屋に入ることができた。
 ドアを開けた瞬間、尚斗の匂いがした。真水に濡れた青葉のような匂いは、紛うことなく尚斗のものだ。双子の兄である自分から同じ匂いがするのかは、わからない。
 一週間前、俳優の蓮見尚斗はこの部屋で自殺した。
 若手俳優人気ランキングを作ったら、十番目くらいに名前が入る俳優だった。中学三年生のときに渋谷でスカウトされ、高校進学直後にオーディションで映画の脇役を勝ち取った。その映画がヒットしたことで蓮見尚斗にも注目が集まり、ドラマや舞台、最近はCDを出すなど、活動の幅を広げていた。
 より客観的に俳優・蓮見尚斗の経歴を説明するとしたら……埼玉県所沢市出身。十六歳のときに竹若たけわかりゆう一郎いちろう監督作品『青に鳴く』で俳優デビュー。朝の連続ドラマ劇場『山笑う』に出演し人気を博したのち、日東テレビ系『神様の三つ編み』で連ドラ初主演、映画『オータム・ダンス・ヒーロー』では連続殺人鬼役を好演し、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。昨年放送の主演ドラマ『枝豆だけが約束』が高視聴率を獲得し、今後の活躍を期待される若手俳優の一人だった――なんてところだろうか。
 寝室のドアノブにネクタイを結び、床に両足を投げ出すようにして、尚斗は首を吊った。迎えにやってきたマネージャーが見つけた。木曜日の早朝だった。貴斗が両親から連絡を受けて病院に到着した頃には、弟はもう亡くなっていた。
 その日の午前中にネットニュースが尚斗の死を記事にして、「蓮見尚斗」がSNSのトレンド第一位になった。去年ドラマの主演をして、尚斗が演じたユズルという役名がトレンド第一位になったときとは、えらい違いだった。
 2LDKの部屋は尚斗が死んだ日のままだ。リビングのローテーブルに置かれたテレビのリモコンの位置、ソファのクッションの傾き具合、キッチンの水切り台に置かれたグラス、棚に並ぶ書籍や小物雑貨、壁に飾られた写真――警察の現場検証が終わった後に一度立ち入ったが、そのときと何も変わっていない。
 あの日、帰りがけに母が力なく閉めたカーテンの隙間から、白く細い光がリビングの中央まで走っていた。誰かが手を伸ばしているみたいだった。
 それを踏みつけ、カーテンと窓を開けた。売れっ子になった尚斗のために事務所が手配した高級マンションだけあって、眺望は申し分ない。代々木公園が目の前で、木々の香りが風に巻き上げられてここまで届く。
 尚斗の匂いが消えていく気配がして、とつに窓を閉めそうになる。子供の頃の兄弟げんを無理矢理思い出して、耐えた。喧嘩の理由は思い出せなかった。
 代わりに、尚斗と最後に会った日のことを思い出した。五月の中頃の、日曜日だった。
「取材でいっぱいお菓子もらったんだけど、ちょっともらってくれない?」
 尚斗からそんな連絡がきて、昼過ぎにここに来た。近くの店でハンバーガーとポテトを買っていったら、尚斗は「カリッカリのポテト、食べたい気分だったんだよね」と笑った。
 ハンバーガー片手にリビングでゲームをして、互いの仕事の話をして、夜には焼き菓子と尚斗の服を何枚かもらって帰った。「撮影の衣装を買い取ったんだけど、似たようなのを持ってたから」と尚斗が寄こしたグレーのシャツは、貴斗の家のクローゼットにある。
「またね、気をつけて」
 それが尚斗と最後に交わした言葉だった。貴斗は「おう」と答えた。
 そんな、怖いくらい何てことない日だったのだ。尚斗が死んでから何百回と振り返った。彼が死ぬ気配など、自ら死を選ぶ兆候など、じんも見つけることができなかった。
 ピロン、と電子音がした。ハッと顔を上げたが、鳴ったのは貴斗のスマホだった。スラックスの尻ポケットからスマホを取り出して確認したが、上司からの仕事のメールだ。
 木曜の午後から半休を取ることに、直属の上司はいい顔をしなかった。「忌引きはもう明けてるでしょ? いくら家族が芸能人だからってさあ……」と小言が止まらない彼に何度も頭を下げ、半休と言いつつ午後二時までかかって仕事を片付けたのだが、メールの終わりにはチクリと嫌味が書かれていた。
 返事は後回しにして、寝室のドアに手をやった。金属製のドアノブは六月だというのにひんやりと冷たく、指先に痛みが走る。
 この向こう側で、尚斗は首を吊った。ひねったノブはとても軽く、ドアはあっさり開いてしまう。一段と尚斗の匂いが濃くなった。
 六畳の寝室にはダブルベッドが一つ。あいつがここに引っ越してくるとき、貴斗が組み立てるのを手伝ってやった。誰が整えたのか、最初からそうだったのか、掛け布団はベッドの上で折りたたまれている。
 ベッドに歩み寄り、シーツの皺にてのひらわせた。そのまま、倒れ込む。スプリングが効いたマットレスは、貴斗をあやすみたいに三度揺れた。
 胃のあたりがねじ切れるように痛み出して、貴斗は枕に突っ伏したままうめいた。尚斗が死んでから、ずっとこうだ。今日半休を取ったのだって、月曜日から断続的に続く痛みに、いい加減病院に行こうと考えたからだ。
 なのに、ここに来てしまった。
「何、やってんだよ」
 ドアを見る。あそこで尚斗が首を吊ったなんて、嘘みたいだ。今にも玄関のドアを開けて帰ってくる気がする。ベッドに寝転ぶ貴斗を見て、「うわっ、何やってるの!」と叫ぶ気がする。
 布団を被って待ち構えて、びっくりさせてやろうか。考えたらふふっと笑いが込み上げてきて、再び枕に突っ伏して大きく息をした。尚斗は死んだ。葬儀も終え、火葬され、もうあいつは墓の中だ。
「仕事、順調だっただろ。楽しいって言ってただろ。こんないい部屋、住めてただろ」
 お前の名前でネット検索すると、自殺のニュースばかり出てくるよ。お前が出た映画もドラマも、検索結果の下の方に行っちゃったよ。代わりに、お前がなんで自殺したのか、どんな心の闇を抱えてたのか、臆測を垂れ流す記事が何百本もあるよ。SNSじゃ、お前の名前をハッシュタグにして、ファンが毎日毎日悲しんでるよ。
 どうしてだ。なあ、どうしてだ。
 痛みの治まらない腹部をさすって、ベッドを降りた。母から、尚斗の家に行けるようだったら冷蔵庫の中身を処分しておいてほしい、と頼まれたのを思い出した。
 ついでに、尚斗のスマホも探しておいてほしい、と。
「……何か腐ってるな」
 キッチンの冷蔵庫を開けて、漂ってきたえた匂いにたまらずつぶやいた。牛乳パックの中身をシンクに流し、卵をプラスチック容器ごとゴミ袋に突っ込む。開封済みの醤油、ソース、ケチャップ、マヨネーズ、ジャム、全部捨てた。しなびたレタスと玉ねぎ、トマトも捨てた。ゴミ箱の横には、空になった白ワインのボトルが一本。
 目覚めの一杯に牛乳を飲む尚斗、パンを焼いてジャムを塗る尚斗、目玉焼きを作る尚斗、台本を片手に白ワインで晩酌する尚斗……そんなものを思い浮かべないよう、手早く済ませた。満杯になったゴミ袋と対照的に空っぽになった冷蔵庫のコンセントを引き抜き、役目を終わらせてやる。
「スマホ、探してやるか」
 いちいち声に出して命令しないと、体が思ったように動いてくれない。
 尚斗のスマホが見つからないと現場検証後にマネージャーが騒いでいた。仕事用に事務所から与えられたスマホは鞄に入っていたが、私用のスマホがどこにもないのだ。
 スマホがないことと自殺に何かつながりがあるのでは。マネージャーはそんなことを言っていたけれど、そもそもあいつは、スマホや家の鍵や定期券をよくなくす奴だった。本当に紛失するのではなく、たいていは鞄や上着のポケットに入れっぱなしにして、洗濯したりクローゼットにしまい込んだりしてしまう。実家で一緒に住んでいた頃、何度あいつのスマホを探すために着信音を鳴らしてやったか。
 寝室のクローゼットを開けて、上着やズボンのポケットを探る。クローゼットの中は尚斗と除湿剤の匂いが混ざって、空気が粘ついていた。
 マネージャーや母親が「ない、ない」と騒いでいたのが馬鹿みたいに、あっさりスマホは見つかった。
「なんでこれが見つけられないんだ」
 カーディガンのポケットから出てきたスマホに、ほれみたことかと鼻で笑う。これを双子の特別な繋がりとでも言うのだろうか。そんな大仰なものとは、どうしても思えない。
 ナイトテーブルに置きっぱなしだった充電ケーブルをスマホに差し込み、電源を入れる。パスコードはアレか、それともコレか……などと思案していたら、顔認証を求められた。
「どうして、顔認証なんだよ」
 指紋認証でもパスコードでもなく、弟の顔が、弟のスマホをロックしていた。同じ遺伝子情報と姿形を持つ人間がこの世にもう一人いるのに、どうして自分の顔を鍵にする。
 試しに、スマホを自分の顔にかざしてみた。俳優である尚斗の顔を意識し、少し顎を引いて目をキリッとさせようとして――そんなものは無意味だとばかりに、あっさりとロックは解除された。
 たった数秒の出来事に、貴斗はスマホを取り落としそうになった。
「開くの、か」

 

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