外見が一緒なだけの、全く別人の俺の顔で、開いてしまうのか。肩を落として、貴斗は尚斗のスマホを漁った。写真、テキスト、音声……何か、尚斗の言葉が残っているんじゃないか。自殺の理由を記した遺書が、この中に。
カメラロールにも、ボイスメモにもそれらしいものはなかった。ToDoリストにもメモ帳にもない。メールを開くと、一週間分のメールが一気に受信フォルダに表示された。
「は?」
通販サイトのオススメ商品、クレジットカード会社からの支払いメール、動画配信サイトの新作のお知らせ……それらに混じって、貴斗もよく知る旅行サイトの名前があった。
〈重要:ご出発日が近づいています〉
そんな件名に、親指が吸い寄せられる。
〈蓮見尚斗様、ご予約いただき誠にありがとうございました〉そんな一文から始まるメールは、どう見ても旅行のリマインドメールだった。旅行サイトのマイページに最終旅程表と電子チケットの控えがアップされているから、旅行に持参しろと書いてある。
出発日は、明日。
羽田空港から飛行機で新千歳空港へ、乗り継ぎをして稚内まで飛び、礼文島のホテルに宿泊するという旅程だった。
堪らず、尚斗のスマホをベッドに投げつけた。マットレスに跳ね返ったスマホは、貴斗が先ほどまで突っ伏していた枕に落ちた。
「ふざけんな!」
ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな。その場で地団駄を踏んで叫んだ。ベッドを殴りつけた。何度殴ってもマットレスの形は変わらない。
「……なんで死んだっ!」
喉の奥に、何かが剥がれるような冷たい痛みが走った。唾液の味が濃くなった。
自分の吐き出した声が静かな部屋に消え、残響が啜り泣きみたいに耳の奥に残る。どれだけ歯を食いしばっていたか。思い出したように呻いたり、尚斗に悪態をついたりした。
いつの間にか、室内は暗くなっていた。ピロンとまた電子音がした。尚斗ではなく、貴斗のスマホだった。どうせまた、仕事のメールだ。
スマホを確認すると、同僚の古賀からメッセージが届いていた。短く、簡潔に、〈大丈夫?〉と。
返事すらしてないのに、メッセージに既読がついたのを確認したのか、すぐに古賀は電話を寄こした。画面に表示された古賀凜という名前と、実家で飼っているという柴犬の写真を使ったアイコンに、ただでさえ滅入っていた気分が、さらに深いところに沈む。
『……蓮見、大丈夫?』
どこで電話しているのだろう。古賀は変に声を潜めていた。
『細谷さんが嫌なメール送ってたでしょ。あれ、気にしなくていいから。私が引き継いでおく』
「ああ、うん、すまん、ありがとう」
言葉が上手く繋がらないのは、胃の痛みのせいなのだろうか。
それとも――尚斗が死ぬ前日に、彼女に告白をされたから、だろうか。
『体調悪いって言ってたけど、病院行けたの?』
「いや、行ってない。家で休んでる」
病院に行けと諭されるかと思ったが、古賀は『そっか』と言ったきり押し黙った。次に何を言われるのかわかっていたから、はぐらかす言葉を探したのだが、どうしても上手く見つけられない。
古賀との出会いは新人研修だった。「蓮見尚斗の双子の兄弟が同期にいるって聞いたけど、ホントだったんだ」と声をかけられたが、それ以上は面倒な詮索もされず同期として仲良くやってきた。貴斗も彼女も映画鑑賞が趣味だったから、仕事帰りに夕方割りで映画を観に行くことも多かった。尚斗が出演した映画だって、彼女と何本も観た。
『蓮見、この前のことは、忘れていいからね』
絞り出すように古賀は言った。『こんなときにごめん』と続けた彼女に、貴斗は後頭部を掻きむしった。
「いや、まさか、尚斗があんなことになるなんて、誰にもわかんないんだから、古賀が謝ることじゃない」
仲のいい同僚と飲んだ帰り道に「付き合わない?」と告白して、「返事はまた今度でいいから」と笑って別れた後、その同僚の双子の弟が自殺するなんて。
ずきりと、胃袋にまた痛みが走った。胃が引きちぎれて、体を這い上がってきそうだ。
「……でも、とりあえず、返事はしばらく保留にさせて」
『もちろん、ていうか、なかったことにして大丈夫。いらん気苦労をさせてないかずっと心配だったんだ』
忌引きが明けて以降、古賀と仕事以外の話をしていなかった。できる状態ではなかったし、する気分でもなかったし、彼女も相当気を遣ってくれたはずだ。
「うん、ありがとう。正直、どうしようかと思ってたから、連絡もらって助かった」
腹部をさすりながら、意味もなく立ち上がる。「ごめん、やっぱり病院行くわ」と断って、電話を切った。古賀は最後に『ほどほどに、無理はしないよう』と、手負いの獣の頭を撫でるように貴斗を案じた。
尚斗が死ななかったら、古賀と付き合ったと思う。尚斗がこの部屋で首を吊った頃、貴斗は家でベッドに寝そべりながら、古賀と付き合うのも楽しそうだと思っていたのだから。
もし、尚斗に「同僚から告白された。どうしよう」なんて電話していたら、尚斗の死を防げたのだろうか。
「馬鹿らし」
呟いて、尚斗のスマホを引っ掴んだ。冷蔵庫の中身がそのまま入ったゴミ袋と、空のワインボトルを抱えて部屋を出た。非常階段横のゴミステーションにゴミ袋を放り込み、エレベーターで一階に下りる。コンシェルジュがにこやかに一礼してきたが、貴斗の顔を見てまた表情を硬くした。そんなに怖い顔をしていただろうか。
また週刊誌の記者がやって来たら、殴り飛ばしてやろうと思った。幸い、最寄り駅まで誰にも声をかけられることはなかった。
原宿駅から山手線で高田馬場まで行って、私鉄の急行に飛び乗った。四十分ほどで所沢に着く。さらに一駅乗って、下車した。
西口は住宅街で、徒歩十分のところに貴斗の実家がある。東口には市役所や市民ホール、図書館といった施設が建ち並び、側には巨大な県営公園が広がっていた。子供の頃、尚斗とよく遊んだ場所だ。そういえば、代々木公園とちょっと似ている、かもしれない。
尚斗のスマホが見つかったよ、と実家に行くこともできるのに、貴斗は東口からバスに乗った。帰宅途中の人々が多く乗り合わせるバスは、どこか空気が濁っている。
霊園前で降りた。当然ながら貴斗以外に降りる乗客はいなかった。
蓮見家の墓は、この広い霊園の奥にある。
夜の霊園は、周囲に高い建物がないから余計に寂しく広く感じられる。中学時代、夏休みにここで肝試しをしたことがあった。尚斗が芸能事務所にスカウトされる前だから、中学一年か二年の頃。子供なりに夜の墓地を不気味だと思った記憶があるが、今は不思議とそうではない。双子の弟が入った墓がある場所だから、だろうか。
十五分ほど歩いて、「蓮見家之墓」と書かれた墓石に辿り着いた。外灯の光が辛うじて届くこの場所に、尚斗がいるとは思えない。こんなところに、いられて堪るか。
旅行会社からのメールを見たときの怒りは、面白いくらい収まっていなかった。墓を前にしても、鮮明に、音を立てて燃え上がる。
墓には花が供えられていた。両親が来たのだろうか。白い百合と菊は瑞々しく、澄んだ甘い香りがした。香炉の線香にも、誰かが手を合わせた気配が残っている。
死には悲しみが伴うものだと思っていた。けれど、今は悲しみ以上に困惑がある、憤りがある。俺は今は、自ら命を絶った双子の弟に対し、怒っている。
袖を捲った。ネクタイの先を肩に掛けた。墓石に歩み寄り、香炉と花立を持ち上げる。白御影石でできた香炉は重く、花立を動かすと菊の花びらが一枚散った。
大きく息を吸って、拝石に両手をやる。尚斗の納骨の際、父と二人で拝石をどかして、納骨室の蓋を開けた。男二人でも重いと感じた拝石は、生の世界と死の世界を分かつ扉のように、びくともしなかった。
声を上げた。手負いの獣のように、吐き出せるものをすべて声にして、叫んだ。囁き声のような音を立て、拝石が少しだけ動く。一度動くと、するすると滑っていく。
納骨室は土と雨と、どうしてだか磯っぽい香りがした。尚斗の納骨のときと同じだ。これが死後の世界の匂いなのだろうか。
尚斗の骨壺は一番手前にある。奥へ行けば行くほど古い骨壺になり、名前も顔もわからないご先祖の骨が納まっている。
真っ白で新しい尚斗の骨壺を、貴斗は慎重に取り上げて胸に抱いた。泣いているわけでもないのに声が震えた。
「こんなに、ちっさくなっちゃってさあ……」
火葬場の祭壇で、最後に尚斗の顔を見たときのことを思い出す。係員に「これが最後のお別れになります」と言われ、両親と共に慌てて棺を覗き込んだ。
自分と同じ顔が横たわっていた。自殺だなんて嘘みたいな穏やかな顔だった。でも、そこに意味を見出すのはやめた。死んだら大概こういう顔になるのだ。俺もきっと、この顔で火葬されていくのだ。
棺はすぐに運ばれていった。「え、もう?」という顔をしたからだろうか、係員は貴斗に小さく一礼した。祭壇のある部屋を出たら目の前が火葬炉で、あっという間に尚斗は炉の中に運ばれていった。そこで母が泣き、父は一度だけ呻き声を上げた。
事務的に、火葬炉の扉は閉じられた。二時間ほどで尚斗は骨になった。収骨室に足を踏み入れた瞬間、もう後戻りはできないのだと思った。死んだのは自分じゃないのに、俺はもう戻れない。
焼かれた骨は貝の欠片に見えた。箸で摘まみ上げて、真っ白な骨壺に納めた。箸で拾いきれなかった骨は、係員が箒とちりとりですべて回収した。
梅雨入り前の生ぬるい夜風のせいだろうか、箸で骨を掴んだ感覚が、ふと蘇った。骨は熱を帯びていた。手首に熱気がまとわりついて、貴斗の手を引くようだった。
骨壺の蓋を回し、開けた。骨を素手で掴むことに何の抵抗もなかった。むしろ、火葬直後に箸でしか触れられなかった尚斗の遺骨に、直接触れたいと思った。
おみくじでも引くみたいに、最初に触れた骨を摘まみ上げた。細長い棒状の骨は、指の骨だった。自分達は手相までそっくりだったから、骨と自分の指の長さを比べてみた。どうやらこれは、人差し指の根本の骨らしい。
わかったのは、それだけだった。
「馬鹿だよ、お前」
言いたいことがあるなら言えよ。骨壺まで開けたんだ、言おうと思えば言えるだろ。世界中どこを探しても、俺以上にお前の声を聞ける人間は、遺伝子的にもいないだろ。
双子ならここで、お前が誰にも言えずにいたことを、一人抱えて沈んでいってしまったものを、感じ取るもんじゃないのか。
「こんな馬鹿な弟だと思わなかった」
尚斗の指の骨を、ジャケットのポケットに突っ込んだ。涙が出てきそうな予感がして空を仰いだが、一滴とて流れ出なかった。デスクワークのしすぎでドライアイが酷い貴斗の目は、むしろカラカラに乾いていた。
霊園の空は広く、星は見えず、果てがなかった。ここなら死後の世界が近いだろうか、と耳を澄ました。乾燥した目をこらした。愚かな双子の弟は何も返してこなかった。
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