稚内空港は小さな空港だった。到着ロビーを出て、ここが日本最北の空港であることを貴斗は思い知った。東京は二十五度を超える気温の日が続いているというのに、バス停を吹き抜ける風には、微かに冬の欠片が混じっている。夏用のスーツではこころもとない肌寒さだ。色がどこかに流れ出てしまったような薄い青空が、余計に寒々しい。
「羽田のユニクロでトレーナーでも買えばよかったな」
 すっかりしわが寄ってしまったジャケットの袖を撫で、貴斗は稚内港行きのバスに乗り込んだ。一番後ろの席で、大欠伸あくびをした。
 昨夜は結局、所沢の実家には寄らなかった。終電近い電車で、羽田空港へ向かった。
 尚斗が予約していたのは、羽田から新千歳を経由して稚内へ飛ぶ便だった。午前六時半に出発する飛行機に乗るため、貴斗は空港のロビーで夜を明かした。固いベンチに横になり、ポケットの中の尚斗の骨を指先でいじくり回しながら、寝ては起きるを繰り返した。
 蓮見尚斗の名前で、飛行機に乗った。会社へは病欠の連絡をあっさりできた。
 バスの窓に頭を預けてまどろみながら、ジャケットのポケットに触れた。流石さすがに遺骨をそのまま突っ込んでおくのは忍びなくて、出発前に空港の百円ショップで買った小さなガラス瓶に入れてやった。北の大地の冷気を吸い込み、ポケットの布地の上からでもほのかに冷たい。
 バスは三十分ほどで稚内港に着いた。フェリーの出発まで少し時間があったから、フェリーターミナル内のレストランでホタテラーメンを食べた。海の味がぎゅっと詰まったラーメンを一口啜って、朝から何も食べていないことを思い出した。
 フェリーは指定席を取ったのだが、出発と同時にデッキに出た。北の海の色は濃く、大学の卒業旅行で行った沖縄の海とは別世界の顔をしていた。陸より風が強く、手すりを握り締めた瞬間に身震いがした。少し離れたところにいる乗客が、陸を指さして「あれがノシャップ岬だね」と言い合っている。
 旅行会社からのメールに従って飛行機に飛び乗ったが、貴斗は礼文島が北海道のどこにあるのかすら知らなかった。稚内空港で入手した観光ガイドを、冷えた指先で捲る。
 日本最北端の離島。別名「花の浮島」。観光シーズンは六月から始まり、ちょうど今は高山植物が咲き乱れる中を散策できるらしい。尚斗はそれが見たかったのだろうか。六月が礼文島観光に最適だと狙いを定め、飛行機やホテルの予約を取ったのだろうか。
「じゃあ、なんで死ぬんだよ」
 吐き捨てて、ポケットから尚斗の遺骨が入った瓶を取り出した。青く霞む島影が近づいてきた。瓶をかざして、尚斗に見せてやる。貝殻か珊瑚さんごの破片にしか見えない遺骨は、うんともすんとも言わなかった。
 フェリーが近づくごとに、島は青から緑色へ姿を変えた。離島といっても大きな島だし、港の側には背の高い建物も見える。あれのどれかが、尚斗が予約したホテルのはずだ。
 二時間の船旅はあっという間で、下船後は徒歩でホテルに向かった。キャリーバッグを携えた観光客が多い中、通勤用の黒いリュックを背負ったスーツ姿の貴斗は酷く浮いていた。案の定、宿泊予定のホテルのフロントで「予約した蓮見です」と名乗ると、初老の男性スタッフにげんな顔をされた。
 通されたのは和室だった。窓が海に面していて、広縁の椅子に腰掛けると近くにある利尻島がよく見えた。綺麗な三角形の山が、ベールのような薄い雲をたなびかせている。
 遺骨の入った瓶を、窓枠に置いてやった。
「お前、旅館の広縁が好きだったもんな。家族旅行のときとか、絶対陣取ってたし」
 遺骨を持ってきたのは失敗だったかもしれない。あいつに言ってやりたいことが、全部言葉になってしまう。
 尚斗は、家族旅行で旅館に泊まると、決まって広縁の椅子に座って外を眺めた。
「この謎のスペース、なんかよくない?」
 彼がそう言ったのは、小学六年生の頃に家族で伊豆に行ったときだった。当時は尚斗の髪も貴斗と同じ黒色だった。あの宿も窓から海がよく見えた。“なんか”の部分がなんとなくわかる気がして、「そうだな」と貴斗は答えた。
 不意に眠気が襲ってきて、このまま一眠りしてしまおうかと思った。その瞬間、部屋の隅に置かれた電話がけたたましく鳴って、まろやかな眠気は吹き飛んだ。
『――蓮見様、ご予約の観光タクシーが到着しました』
 フロントからの電話に、子機を握り締めたまま「は?」と声に出してしまった。

「お客さん、観光で来たんですか?」
 乗り込んだ観光タクシーの運転手は、貴斗の格好を見るなり目を丸くした。くたびれたスーツは、ビジネスでやって来た人間に見えるかすらも怪しい。
「……一応」
 ルームミラーに下がる名札を見ると、運転手の名前はそうといった。歳は六十代前半くらいだろうか。真っ白な髪と口髭が、子供の頃に読んだ児童書に登場する魔法使いの老人を連想させた。
 幸いなことに、運転手は「ご予約の蓮見尚斗さんですね」と確認したときも、貴斗の顔を見たときも何の反応も示さなかった。
「どちらまで行きましょうか?」
 言葉に詰まる。すでに時刻は午後三時を回っていた。この時間から尚斗はどこに行きたくて、タクシーを予約したのだろう。
「この時間から観光できるところって、どこかありますか?」
「トレッキングなんかは午前中の早い時間から行くものだし、暗くなってくると植物園も楽しくないし、近場を回るなら……桃岩展望台に行って、そのあと、もと海岸で夕日でもご覧になるのはどうでしょう?」
 さざ波のような声で、白髪の運転手はルームミラー越しに貴斗を見た。不審に思われているのがよくわかる。観光タクシーを予約しておいて、行き先もろくに決めていないなんて。
「桃岩展望台は観光に来た人はみんな立ち寄る絶景スポットってやつです。今日は天気もいいんで、きっと綺麗ですよ。元地海岸の夕日は、僕が個人的に好きなんですけど」
「でしたら、そこでお願いします」
「はい、じゃあ出発します」
 タクシーはホテルを出て、市街地をのろのろと走る。港周辺は食事処や土産物屋があるものの、いたって普通の港町だった。
 車内にはラジオがかかっていた。貴斗の知らないパーソナリティーが、知らない歌手の歌を紹介し、直後、その歌が流れ出す。その頃には市街地を抜け、窓の外は緑一色になっていた。うねうねとしたカーブを曲がりながら、タクシーは少しずつ山を登っていく。途中、観光バスとすれ違った。
 十分とたたず、タクシーは駐車場に停まった。相馬は「ちょっと歩けば桃岩展望台ですよ」と運転席のドアを開ける。
「待ってるのも暇なんで、ご案内します」
 そう言って、相馬は年齢を感じさせない軽やかな足取りで歩き出す。相馬に先導されるがまま、貴斗は遊歩道を登っていった。
 空気の冷たさに肩が強ばる。意外と高いところまで来ていたようで、海がとても遠くに見えた。この島の山は不思議だ。背の高い木がほとんど生えておらず、青々とした草が山を覆っている。森林浴をしながら登る山とは圧倒的に違う。景色がよく見渡せて、自分がどれほど遠くに来ているかわかる。空に向かって歩いているのが、わかる。
「もうちょっとですよ」
 よいしょ、よいしょ、と声を上げながら、相馬が貴斗を振り返る。坂の先を見上げると、空と山の境界がくっきり色鮮やかだった。雲に反射した西日が眩しく、眉間に皺を寄せた。
 息が上がってきた。足下に名前もわからない白い花がある。黄色い小さな花が、視界の端で何百も風に揺れている。甘酸っぱい爽やかな香りがした。
 人が死んで天国に昇るときは、こういう感じなのではないか。こんな景色の場所をひたすら歩いて、登りきったところに天国がある。尚斗は今、そんな場所を歩いているのだろうか。もうゴールしてしまっただろうか。
 ほとんど徹夜状態の体には、なかなか堪える道のりだった。肩を上下させ、恥ずかしげもなくぜえぜえと喉を鳴らしながら、無理矢理足を動かした。
 ふと、海の方角から逆巻くような強い風が吹いて、ふわりと体が軽くなる。坂を登りきって、大きく息を吸った。久しぶりに息をした気がする。空気が濃くて、冷たくて、肺が甘い香りで満たされて、目尻が潤む。
 展望台と言っても、山の上の開けた場所にベンチと柵が設置された簡単なものだった。観光客が飲み物を飲んだり写真を撮り合ったりしている。相馬が何か説明しようとしたが、構わず柵に歩み寄って身を乗り出した。
 太陽が傾いて、空の青さは消え入るように淡く、海との境界が溶けていた。忍び寄る夕日を背負うようにして、巨大な岩が一つ、眼前にそびえている。
 整わない呼吸に翻弄されたまま、貴斗はその光景に見入った。青々とした草に覆われた巨石は、地球が生まれたその瞬間からここに鎮座しているという顔をしていた。
「あれが桃岩ですよ。山みたいに見えるけど実は岩で、桃みたいな形だから桃岩です」
「……なるほど」
 丸みを帯びているのに頂上が尖ったその形は、確かに桃だった。大昔にこの山を登り、あの岩を見つけた人は、本当に天国に来たと思ったに違いない。じっと眺めていると岩に飲み込まれそうになる。どこかに連れ去ってくれる気がする。
 そこに双子の弟はいるだろうか。
「花、綺麗ですね」
 山の斜面を覆う青い草と、そこを彩る花を、やっと綺麗だと思えた。青、黄色、白、ピンク……世界中に存在する色が、花として集められている。
「薄ピンク色の花がレブンシオガマ、黄色はセンダイハギ、薄青色の小さな花がチシマフウロです。夏は咲く花が二、三週間で入れ替わるんで、風景がどんどん変わるんですよ」
「だから花の浮島なんですね」
 ちょっと歩いてみましょうか、と相馬に促され、尾根伝いに二人で歩いた。花を見つけると、相馬は一つ一つ丁寧に説明してくれた。花に特別興味があるわけではないのに、相馬の解説を聞くたびに自分の中の植物図鑑が勝手に埋まっていった。
 革靴で長時間山道を歩くわけにはいかず、ほどよいところで駐車場へ引き返したのだが、できることならもう二時間くらい歩きたいと思った。勘弁してくれと体が訴えているのに、心だけが子供みたいに躍っていた。
「それじゃあ、元地海岸にご案内します。ちょうどいい時間なんで、水平線に沈む夕日が見られますよ」
 タクシーは桃岩展望台の駐車場を出て、島の反対側へ山を下った。海岸沿いの道を北に向かって進む。空はすっかりオレンジ色で、天からじわじわと夜空が滲んできていた。
「元地海岸には、地蔵岩っていう変わった形の岩があるんですよ。人が両手を合わせて拝んでるような形なんです」
「地蔵岩、ですか」
 無意識に、自分の両手をすり合わせていた。尚斗の葬式で散々手を合わせた感覚が、指先にこびりついて消えない。葬儀の日なんて、このまま掌が貼り付いて離れなくなるのではないかと思った。
「浜自体は、何てことない浜ですけどね」
 はははっと、ふくろうが鳴くように笑った相馬の言葉の通り、元地海岸は実に平凡な、どこにでもありそうな小さな浜だった。
「元地海岸はメノウ海岸とも呼ばれてて、運がよければメノウの原石が拾えるかもしれないんで、暗くなる前に探してみてください」
 歩き疲れてしまったのか、相馬は今度はタクシーを降りなかった。「こちらでお待ちしてます」と一礼し、貴斗を送り出した。
 港周辺とは違い、島のこちら側は寂しい場所だった。道路沿いに小さな建物と漁師小屋が点々とあるだけで、観光客の姿もまばらだ。
 防波堤を越え、浜に降りてみた。革靴の底がざらりと音を立て、近くに群がっていたカモメが一斉に飛び立った。山の上は風が強かったのに、こちらは恐ろしく凪いでいた。白波の立っていない海は、夕刻と夜を重ねて飲み込んだ鏡に見えた。
 メノウを探してみろと言われたが、メノウの原石とやらがどんな見た目をしているのか知らない。綺麗な縞模様をした石が浜に落ちているとも思えなかったが、試しに足下の砂利をいくつか拾い上げてみた。見事に全部ただの石で、声を上げて笑ってしまった。
 浜の先に、天に突き出た岩が見えた。すぐに地蔵岩だとわかった。相馬の言う通り、人が海に向かって拝んでいるような形をしていた。
 水平線に今まさに夕日が沈もうとしている。気がついたら、岩と同じように両手を合わせていた。尚斗が死んで、一生分の合掌を済ませてしまった気がするのに、掌は目の前の夕日を閉じ込めたように温かかった。
 ジャケットのポケットから尚斗の遺骨を取り出して、地蔵岩と夕日を見せてやった。
「なあ尚斗」
 また、骨に語りかけてしまう。
「天国は、ここよりいい眺めなのか?」
 わずかばかりの夕日を瓶が反射し、尚斗の骨が金色に光った。こいつは死の間際に、礼文島へ旅行に行くことを思い出さなかったのだろうか。そんなものどうでもいいくらい、この世からおさらばしたかったのだろうか。

 

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