パパが折り畳み椅子に腰を下ろし足と腕を組んで言った。
「今夜、閉店後のこんな時間に、みんなに集まってもらったのは他でもねぇんだが……」
 言葉を選んでいるように言い淀んだ。
 閉店後といっても未だ午後十時過ぎで新橋では宵の口だ。閉め切ったガラス戸の外には多くの人が往来している。居酒屋を営んでいるのに酔っぱらいが大っ嫌いなパパは、午後十時には店を閉めてしまうのだ。
 パパが呼び掛けた「みんな」とは、パパのお店『あじろ』の常連客だ。立ち飲み居酒屋なので、呼ばれた四人は、私も含めそれぞれがカウンターに肘を突いてパパの話に聞き入っている。パパが腰掛けているのは、足や腰の悪い高齢者のお客さんが来た時などに使う折り畳み椅子で、自分だけカウンター内で椅子に座っているのをパパも私たちも気にもしない。そもそもパパ自身も七十歳を超える高齢者で、午後四時の開店の二時間も前から仕込み仕事をしているのを皆知っているのだから、それもあたりまえか。
 傍らで佇んでいるママは十八の折に東京のサラリーマンの聖地といわれる新橋で居酒屋を始めるというパパのもとに嫁いだ。
「このまま浅草で寿司屋の小僧をしていても詰まんねぇからよ、ここらで独立しようと思うんだ。新橋で立ち飲み屋をやりてぇんだが、洗い場の人手が欲しくてよ。どうだい、幼馴染みの縁で、手伝っちゃぁもらえねぇか」
 思えばあれがプロポーズの言葉だったのね、とママから聞かされたことがある。
 以来五十年以上営業している『あじろ』は、新橋の裏路地界隈ではもっともふるい立ち飲み屋のひとつで、詰めれば十五人くらい並べるカウンターと、四人が立ち飲みできるテーブルが四つ置かれている。
「他でもねぇんだが……」
 パパが繰り返した。
「あのインテリ眼鏡のネエチャンのことでな……」
 常連客に女性は少ない。パパのひと言で、全員が誰の話題か納得した。
「あのネエチャンがトラブルてぇか……厄介ごとに巻き込まれているようでよ」
真由美まゆみさんが? どんなトラブルなんですか」
 声を上げたのは天然パーマに小太りの青年のガンちゃんだった。
 ガンちゃんは大手家電メーカーに勤務する青年だ。
 カウンターの中で働くパパとママに気を遣い、テーブル席の客が帰った後、グラスや食器を片付けてテーブルを拭いたり、洗い場に立つママに手渡したりする優しい青年だ。
「どんなって、トラブルつったら厄介ごとに決まってんじゃねぇか」
「アンタ、それじゃ答えになってないよ」
 堪りかねてママが割り込んだ。
「ことの経緯については、この話を報せてくれた和歌わかちゃんに説明してもらいなよ」
 週刊誌に記事を書いているフリーライターの私を名指しした。
 若い頃、収入が安定していなかった私は『あじろ』が店を構える路地のいちゃキャバでキャッチをしていたことがある。もう二十年も前のことだ。
 当時は中国人の娘らが路地で客引きをする時代だった。
 娘らも通りを物色するサラリーマンも目的は売買春だった。
 今では考え難いが、そんな時代も新橋にはあったのだ。
 ある極寒の冬の日のことだった。
「これでも飲みなよ」
 勤める店があるビルの前でキャッチをしていた私に声を掛けてくれたのがママだった。
「アンタが寒そうにしてるから、ウチの亭主が差し入れしてやりなってさ」
 そう言って缶の甘酒をくれたのだ。
「ありがとうございます」
 お礼を言って受け取った缶の温かさが身に沁みた。
 遠慮の言葉も出ないくらい冷え切っていた私の身体の芯まで、それだけでなく、心の芯までパパとママの気遣いが沁みた。
「和歌子と申します」
 その夜、閉店準備をしているパパの店に行って自己紹介し頭を深々と下げた。
 パパはその後も冬には温かい飲み物を、夏には冷たい飲み物を用意してくれて、もう二人との付き合いも二十年近くになる。いつしか私は二人に懐き、パパ、ママと呼ぶようになった。夜の仕事を辞めてからも、合間を見ては二人の店に通っている。
「さ、和歌ちゃん。この人らに説明してあげな」
「私がライターをしている雑誌に投書がありました」
 ママに促されて切り出した。
 結婚もし、ひとり息子が今年中学を卒業する年齢になった。四十三歳になった今もライターは続けている。共働きで家計に余裕があるほどではないが、今のご時世で、三食と住む所に困らないというのは感謝すべきことだろう。
「その告発によると真由美ちゃんがパパ活ビジネスに手を染めているらしいんです」
「そのパパ活ビジネスってぇのがよ――」
「アンタは出しゃばらなくていいよ。和歌ちゃんが喋った方が、分かりやすいよ」
 ママがパパを制して話の先を促してくれた。
「なんでもSNSで家出少女やコロナ禍で困窮している未成年の女の子に声を掛けて、パパ活をさせているらしいんです」
 それだけではない。その話に釣られたサラリーマンを、淫行で訴えると脅して金を巻き上げていると投書にはしたためられていた。