柳後雄は座布団に腰を下ろした。「お前はそこに」と机を挟んだ向こうを指す。冬子はおずおずと畳に正座した。
「精神と肉体は分かちがたく結びついている。筆に息吹を与え、原稿用紙にまじないをかけ、小説を飛翔させるには、肉体の活力が不可欠だ。単なる文字の羅列に命を吹き込むには、肉体を供物にしなければ」
柳後雄が女中の自分にこんな話をしてくれる機会など、二度とおとずれないかもしれない。耳に意識を集中し、なんとか咀嚼して理解しようと頭を働かせる。
「つまり……よい小説を書くには、牛鍋などを食べて英気を養うことが必要だとおっしゃりたいのでしょうか?」
「確かに牛鍋も悪くはないがね」
柳後雄が愉快そうに歯を見せて笑ったことに、冬子はほっとした。
「しかしお前、鍋を食べながら書くわけにゃいかないだろう。原稿用紙が汁で汚れちまうし、腹がくちくなると脳に血が行かなくなる。それに牛鍋には酒がつきものじゃないか。酔ったら元も子もない。私が編み出したのは違う方法だ。いまから教えるから机の下に潜ってくれ」
話の行くさきがわからないまま、這いつくばって低い文机の下に潜った。胡座をかいた柳後雄の臑毛が生えた脚が目前にある。乱れた紺鼠の紬の着物から褌が覗いていて眼を逸らした。
「さあ、褌に手を入れてそのなかのものを握っておくれ」
驚いた拍子に机の天板に頭をしたたか打ちつけた。後頭部を押さえてうずくまる。眼の奥で閃光がちかちかと炸裂している。
「ずいぶん大きな音がしたな。瘤になっていないか?」
快活な笑い声とともに柳後雄の手が冬子の頭に伸びる。子どもをあやすようにやさしく撫でられ、さっきのは聞き間違いだったらしいと安堵したのもつかのま、「もっとこちらへ」と股間に顔を接近させられた。マガレイトに結わえた浅葱色のリボンがほどけて首すじをくすぐる。
かぶりを振り、できませんと言うために冬子は口を開きかけた。だがそのとき、階下からどっと弾けるような笑い声が聞こえた。藤川と顔馴染みの編輯者が談笑しているらしい。玄関の横にある取次の間が脳裏に思い浮かぶ。内弟子たちが机を並べて切磋琢磨している空間。彼らと冬子のあいだには、見えない線が引かれている。たとえひとりで何百枚何千枚と書いたところで、乗り越えることなどかなわない線が。
だけどいま、先生の信頼を勝ち得ている弟子や編輯者ですら入れない聖域にいる。魔窟のようなこの書斎で、小説を生み出す瞬間に立ち会おうとしている。男である弟子たちにはできないであろう方法で。いまだけは、だれよりも先生に近いところにいる。
「さあ、早く」
木綿の晒しの褌に手をかけた。眼をきつく瞑り、その奥に潜むものをおそるおそるさぐる。ごわついた草むらをかき分けると、人間の皮膚とは思えない、ねっとりとしたものに触れた。糊で貼ったように手のひらにへばりつく。
「もっと力を込めてゆっくりと動かしてくれ」
無心になろうと努めながら言われたとおりにする。それは熱を帯び、膨らんで硬さを増していく。人間の肉体の一部がそんな変化を起こすなんて信じがたくて恐ろしかった。目の前の男は人間ではなく、物の怪のたぐいなのではないか。怖気で歯がかたかたと鳴る。
荒い息遣いに混じって、さらさらと筆を走らせる音が頭上で聞こえはじめた。
「ああ、このまま続けておくれ。書ける、書ける、書けるぞ。霊感がみなぎる、言葉が天から降ってくる――」
冷えた井戸の水でいくら洗っても、感触は手のひらから消えてくれなかった。滲む涙をぬぐい、血が噴き出しそうなほど真っ赤になった手を再度つめたい水に浸す。きたない、きたない、きたない、と無意識のうちに口から言葉が洩れていた。汚いって、なにがだろう。先生の肉体が? 私の憧れを利用し踏みにじった先生の行為が? 自分のなかに生まれた恥ずべき打算が? 頭の芯の冷静な部分で考える。
「ただいま」と背後から呼びかけられ、びくりと肩を震わせて振り向いた。春明だった。足取りが軽く、ずいぶんと上機嫌だ。
「筆が乗って乗ってしかたがなくて原稿用紙が足りなくなったから、そこの相馬屋で買ってきたんだ。この調子だと明日の朝には書き上がるだろう」
筆が乗るという言葉から、柳後雄の筆を走らせる音と獣のような息遣いを思い出し、肌が粟立った。
「完成したら読ませてくださいますか」
こわばる顔をなんとか笑顔のかたちにして春明の顔を見た。
「まずは柳後雄先生にお見せしないと。あなたには雑誌に載ってきれいな活字になったものを読ませてあげよう」
「愉しみにして待っています」
このひとは、先生が私に強いたことを知ったらどう思うのだろう。先生に対して怒りを抱くのか、それとも私を軽蔑するのか。いずれにしてもぜったいに知られたくない。新しい雑誌という餌にまんまと釣られ、醜い打算と弟子たちへの対抗心で身を汚した自分と、傷ついている少女のままの自分。ふたりの自分がひとつの肉体の内側に共存している。からだの中心からまっぷたつに裂けてしまいそうだ。
弾むような足取りで玄関へ向かう春明の後ろすがたを、冬子は涙にぼやける眼で見送った。
梅雨のあいまの晴れた日、この機を逃すまいと外で洗濯をしていると、茶の間から柳後雄と春明の話し声が聞こえた。
「お前はおれの話をまるで聞いちゃいないな」
柳後雄の深いため息。
「そんなことはございません。先生のお話はひと言残らずこころに刻み、血肉としております」
「その結果がこれか。着想に手腕が及ばないのは稽古中の身であるからしかたがないとして、お前の小説には品がない。人間は悪くないのに、書くものときたら」
「品、ですか」
「お前の筆はすぐに醜悪なものを書き立てたがる。読者にどんな恨みがあって不快にさせようとするのだ。道徳はどこへ行った」
道徳。冬子の胸がぎしりと鳴った。どの口で――、と尊敬しているはずの先生に対して反発心が湧き、必死でその気持ちを抑え込む。
「お言葉ですが先生、元来人間とは醜悪なものです」冬子はどきりとする。まるで自分の汚さを言い当てられたような気がした。「ひとが隠そうとしている面をえぐり出すことこそが、小説の仕事だとはお思いになりませんか?」と春明は続ける。
「それがお前の思想か。ならば荷物をまとめて出ていってほかの者に師事するがいい。私の考えとは相容れない」
「そんなご無体なこと、おっしゃらないでください! 先生に捨てられたら行く場所などございません!」
「いいか野尻、ではなかった、九鬼だな、九鬼……この名前も私には理解ができないが、まあいい――。おれはお前を見込んでいるんだ。必ずや、文壇を背負って立つ男になると信じている。お前の筆にはお前のひとりの人生がかかっているのではない。日本の文壇の将来がかかっているのだ。日本の小説が正しい道を歩めるかどうかお前次第なのだ。頼む、どうか、頼む――」
熱を帯びた柳後雄の声は、途中から涙に濡れて震えた。
「先生、」と言いかけて詰まった春明の声もまた、涙声だった。
弟子思いの師匠、師を慕う弟子。うるわしい師弟愛。先日の自分に対する柳後雄の振る舞いと一致しなくて、冬子は混乱してしまう。柳後雄の娘の襦袢を洗濯板にこすりつける力が自然と強くなる。
あれから一週間が経ったが、柳後雄はなにごともなかったかのような態度を取っていた。廊下ですれ違ったときも、食事を運んだときも、ろくに顔も見ずに「うむ」としか言ってこない。冬子はすべて悪い夢だったのだと信じたかった。
だが、この日の午後、洗濯ものを干している冬子のもとへ柳後雄が近づいてきた。「新しい雑誌が届いているから、あとで私の部屋へ」と髭の下の口をほとんど動かさずに囁かれる。
あの書斎へふたたび足を踏み入れるのは恐ろしかった。だが、辱めの代償を受け取らなければ、ただ踏みにじられただけになってしまう。けれど、もしまた求められたら――なかなか決心がつかず、二階への階段を何度も上り下りしていると、ある考えが浮かんだ。それを考えたのが自分だということにぞっとしながらも、不思議と冬子の頭はしんと冴えていた。長い息を吐いて書斎の襖を開ける。
「来たか。早く机に潜ってくれ。このあいだの要領は憶えているな?」
「あの、雑誌は」
「それはあとで渡す。さあ早く。締切が迫っているんだ」
落胆する気持ちを抑えきれないまま、もぞもぞと机に潜った。むんと男の体臭が鼻をつく。少しためらったが、褌をゆるめ、そのなかへ手を差し入れる。按摩のようなもの、肩や腰を揉むのとなんら変わりない、と自分に言い聞かせ、柳後雄のものを握った。となりの部屋からは、柳後雄の娘たちが喧嘩をして泣き叫んでいる声が聞こえる。
時間が経過し、動揺が落ち着いてくると机の上が気になってくる。柳後雄は数行書いては筆を置き、くしゃくしゃに原稿用紙を丸めて屑入れに投げていた。どうやら新たな小説の書き出しが定まらないらしい。
「言文一致で行くか、それとも雅俗折衷体にするか――」
独りごとを言いながらまたもや書きかけの文を墨で塗りつぶし、紙を握りしめる。
「それにつけても言文一致の困難なことよ。だいたい提唱者の逍遙だって苦戦しているじゃないか」
企みを抱いて部屋に入ったとはいえ、それを実践するには勇気が要った。頭のなかで言うべき台詞を何度か繰り返したあと、手の動きを止めずに「先生」と切り出す。
「なんだ? 気が散るからあまり話しかけないでくれ」
「机の下は窮屈で動きにくうございます。先生の後ろにまわってもよろしゅうございますか」
両側に抽斗のついている文机の下の空間は狭く、身じろぎすらできなかった。しかも熱気がこもって息苦しい。
「かまわん。好きにしろ」
尻から後ろに下がって机の下から出ると、柳後雄の背後へまわった。背に胸を押しつけるような体勢になり、股間へ手を伸ばす。――思ったとおり、この位置だと原稿がよく見える。
「最初の一文、これさえ決まればあとは流れるように出てくるはずなのだが……」
柳後雄はまるで部屋に自分ひとりしかいないかのように、無防備に独りごとを続けている。冬子は自分が幽霊にでもなったような錯覚に襲われながら、題名と筆名だけ書いてある原稿用紙を柳後雄の背後から食い入るように見つめた。どのくらい時間が経っただろうか。そこに置かれた筆が、くびきから解き放たれたように突如さらさらと動く。
「……見えた」
柳後雄はひと言そう呟くと、あとは無言で書き続けた。冬子は躍る筆をじっと見つめる。かぐわしい文章がまるで魔術のように生まれていく。実際には存在しない架空の人物が紙の上にあらわれ、呼吸をし歩き語り泣く。筆はときおりよどみ、書き損じを塗りつぶし、額を押さえて唸り、紙巻き煙草を吸い、茶を飲み、頭を掻きむしり、また続きを綴る。
冬子は柳後雄の股間のものを握ったまま、その一部始終を凝視していた。
――盗んでみせる。
そう胸に誓った。だれよりも間近で作品が誕生する瞬間に立ち会い、その技術を、心髄を盗んでみせる。春明さんは胸中に九つの鬼を飼う、修羅のような小説家になると言った。ならば私だって、一匹ぐらい鬼を飼ってみせよう。飼い慣らせるかどうかはわからない。喰われてしまうかもしれない。それでも、なにも成せずに老いていくよりは。
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